第4話 支店長!

文字数 2,437文字

 それは窓口業務が終わった午後三時過ぎだった。実紀夫(みきお)は支店長の黒田が若手職員にラベルライターを使って自分の名前のシールを作るよう指示をしているのを聞いた。

(まぎ)らわしいからね」

 黒田はふくよかな頬をブルブルと震わせながら、「ローマ字でお願いね」と喋っている。

 職員も暇ではないのだから、それくらい自分でやれよ、と思いながらも、実紀夫は口には出さなかった。

 田中は日頃から支店長とはそりが合わなかった。そんな彼の軽口は、例え冗談めかしていたとしても黒田を不快にさせる恐れがある。
 次回の人事異動で支店長昇任を待ち望んでいる身でもあり、実紀夫は上司を敵に回したくなかった。

 午後五時になり、黒田は定時で退社した。実紀夫は現金の照合を最終確認した後、午後六時前に席を立った。

 異変に気づいたのは、タイムレコーダーで自分の出勤カードを記録し、職員の通用口の傘立てから自分の傘を出そうとした時だった。

 買ったばかりの傘が無くなっていた。

 傘立てには十本程度の傘しか残っていないので、自分の傘がないことは一目瞭然だった。
 つい先日、デパートで買ったばかりの傘。今日初めて使った下ろし立ての傘。職員しか出入りしない通用口の傘立てから無くなったということは、持ち去ったものは会社の人間しか考えられなかった。

 気持ちが収まらない実紀夫は、残されている傘をもう一度調べる。そして、傘立ての中に青と黒のツートンカラーの傘が一本残されていることを知った。

 何だ、自分の探し方が悪かったのか、と安堵(あんど)したのは束の間のこと。持ち出して眺めてみると、全体に使用感たっぷりの古ぼけた姿をしていた。
 朝はきっちり一本線だった生地の折り目が、何重にも重なり、だらしなく曲がっているところからして、新品とは思えない。
 とどめは骨と接している部分の生地に付着している(さび)だった。
 実紀夫は大きくため息をついた。

 実紀夫は自分のものではないその傘を持ち帰る気にはならなかった。

 彼の傘の行方が判明したのは、半月後の雨の日だった。やむを得ず父から借りたビニール傘を差して出勤した実紀夫は、会社の傘立てに自分の傘が入っていることに気づいた。

 あっと思って手に取ってみると、グリップのワンタッチボタンの上の部分には「KURODA」と印字されたビニールシールが貼ってあった。黒田が職員に命じて作らせたラベルシールだ。

 実紀夫が事態を理解するのに時間は要らなかった。使い古された方の傘は支店長のものだったのだ。
 問題は、黒田が故意に新しい傘にシールを貼ったのか、それとも誤ってシールを貼った後、その間違いに気づいていないのか、である。

 実紀夫は二本の同じデザインの傘を両手に持ったままで、どう対処すべきかをしばらく悩んだ。支店長の席に持って行って、突きつけてみようとも考えた。

 だが、できなかった。黒田が自身のうっかりミスを認めて笑ってくれるようであれば穏便に済むが、故意にせよ過失にせよ、彼のプライドを傷つける可能性は高く、実紀夫はそれを避けたかった。

 この日は一日中気分が鬱々(うつうつ)として晴れず、夜は高校時代の同級生に連絡を取って飲んだ。その挙句、帰りの電車の中でビニール傘を置き忘れてしまい、小雨の中、駅から自宅までの一キロの距離を濡れて帰る羽目になった。

 結局、実紀夫は黒田が間違えたものであろう古い傘を使うことはせず、そのまま放置した。

 二本続けて合計一万六千円の損失は大きかったが、翌年度から別の支店の支店長になれたのだから、結果的に黒田を問い詰めなかったことが良かったのだろう、と実紀夫は自分を慰めたのだった。

 とは言え、それなりの値段の傘を立て続けに失ったことを反省し、実紀夫が次に買った傘は白い半透明のビニール傘だった。その傘は衣料品店や飲食店、雑貨屋などが立ち並ぶ繁華街のコンビニで買ったものだ。

 その日、交際を始めたばかりの女性と食事をするためにイタリアレストランに出かけた実紀夫は、食事後に雷雨に見舞われた。お互いに傘を持っていなかったので、近くのコーヒーショップでやり過ごそうとしたが、店内には空いている席がなかった。

 仕方ないので実紀夫がコンビニで千円の傘を一本だけ買った。帰りの電車の駅まではそれほど離れていないので、二本も買う必要もないと判断したのだ。

 その女性との付き合いは六月下旬から始まった。
 結婚相談所に登録してから三人目の紹介で、初めてデートまで漕ぎつけた相手だった。彼女は実紀夫とのデートを承諾した理由は決して容姿ではないと言っていたが、どうだろうか。
 実紀夫としては萬叶(まんきょう)神社の願掛けの効果だと信じて疑ってはいない。

 その女性、水野佳代子(かよこ)が現在の妻である。

 駅の改札で別れるとき、実紀夫は傘を佳代子に渡そうとしたが、彼女は受け取らなかった。おそらく彼女は自身の服装にはビニール傘が似合わないと考え、持ち歩きたくなかったのだと思う。だが、その後の傘の運命を顧みれば、強引に押し付けてしまった方が良かったのかも知れない。

 実紀夫よりも三歳年下の佳代子はバツイチだった。二人はその翌年の春に籍を入れた。

 二人の間には愛衣(めい)という小学生の娘がいる。

 佳代子という女性は、聡明だった。超一流ではなく並の一流程度の学歴の持ち主の実紀夫に対し、佳代子は超一流の学歴を持ち、頭の回転も速く、機転の利き、悩み事で停滞することもなく、とにかく前進する人だ。

 その佳代子にとっては、今の実紀夫は道端の石ころみたいなもので、よく蹴飛ばされた。
 実際に蹴られているわけではないが、手に手を取って一緒に前進しているのではなく、足で前に転がされているのである。まるでサッカーボールだった。

 いや、サッカーであればボールを前に進ませること自体に意味があるが、佳代子にとっての「実紀夫ボール」は、置き去りしておくとみっともないから、仕方なく前方に蹴り出しているだけに思えていた。

 賢い妻に愚鈍な夫。どうしてこうなってしまったのか。
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