第2話 神社にて

文字数 1,961文字

 あれは大きな災害が起こる前年のことだから、かれこれ十二年ほど前の話になる。

 田中実紀夫(みきお)は四十代前半の独身男で、実家で両親と三人暮らし。大卒後に就職した地元の信用組合の田舎の支店で、二年前から支店長代理をしていた。

 その日、実紀夫は両親には内緒で、隣の県にある萬叶(まんきょう)神社を参拝した。願掛けをすれば絶対に願いが叶う神社であると白幡(しらはた)が太鼓判を押すので、同僚の顔を立てる気持ちが半分、休日の暇つぶしの気持ちが半分といったところでの日帰りの小旅行だ。

 実紀夫はもともと神仏への信仰心が薄い男だった。

 大型連休前の四月の日曜日である。曇り空模様の中、ときおり顔を出す太陽が暖かく感じられる程度に気温は低く、セーター一枚の実紀夫には少し寒かった。

 萬叶神社はJR線の駅で下車して、商店街を抜けた先にある住宅地の一角に建っている。
 敷地の入口に建てられている石造りの鳥居は、まだ新しいものだった。敷地の中には普通の住宅が建っており、その軒先に小さな(やしろ)があった。

 本当にここが萬叶神社なのか、と思ってあらためて上を見上げれば、確かに鳥居の神額(しんがく)には「萬叶神社」と記されている。

 敷地内は無人だった。実紀夫は不法侵入をしている気分に捉われながら、おそるおそる中に足を踏み入れ、社の前まで歩いた。

 休日とは言え、二時間もかけて参拝に来たのには理由があった。期待もあった。

 だからこそ、白幡から聞かされたとは言え、あまりにこぢんまりとした神社の(たたず)まいに、実紀夫は落胆を隠せなかった。
 もちろん大きさで決まるものではないが、これでは自宅の近くにある八幡神社に参拝したほうが願い事は叶いそうである。

 いやいや、実紀夫は首を振る。あの白幡を見れば、萬叶神社に疑いを持つべきではない。

 この半年での白幡の変貌には目を見張るものがあった。百センチを超える腰回りが、運動も食事制限もしないのに短期間にあれだけ細くなった理由が、この萬叶神社での願掛けだったと言われれば、実紀夫もつい足を運ばざるを得なかったのだった。

 実紀夫の願い事は一つだ。彼は白幡がやったのと同じように、財布から一万円札を出すと、社の正面に据えられた貯金箱のような木箱にそれを入れ、立ち膝のまま目を閉じると両手を合わせた。

 この時、背後からの風が実紀夫の頬を撫でた。

「おぬしは何を差し出すのか」

 どこからか女の声が聞こえた。驚いた実紀夫は立ち上がって周囲を見渡すが、誰の姿もない。

「驚かなくともよい。おぬしは今、神に祈っておるのだろう」

 声は頭上から聞こえていた。予期せぬ事態に、実紀夫は下半身の力を失い、腰から崩れ落ちた。

「あなた様は、神様なんですか?」
「そういうことでよい。それで何を差し出すのか。願えば叶えられるというのは、ちと虫が良すぎるじゃろうて」

 女の声はうわんうわんと頭の中で大きく響いた。耐えかねた実紀夫は耳を押さえる。だが恐怖は感じなかった。彼は自分の身に起こっている超自然現象に驚愕(きょうがく)するよりも、白幡の腹部の変化が頭を(よぎ)り、心が(おど)っていた。

「私はお賽銭(さいせん)を出していますよ」

「それは、ここの神様にじゃろう。わしは居候(いそうろう)なんでな。その賽銭はわしのものにはならん」

 女の声が言っていることの意味が分からずに戸惑(とまど)う実紀夫の頭の中に、その声は再度「何を差し出すのかを聞いておる」と畳みかけた。

「何を差し出すか、と言われても――」

 実紀夫は耳を塞いだまま答える。彼には思いつくものがなかった。こんな話、白幡は何も言っていなかった。あらかじめ知っていればいろいろと考えてくることができた。

 動揺した実紀夫は「私の命を――」と言いかけ、危うく喉を鳴らして言葉を飲み込んだ。

「分かった。ではわしの方で適当に選ぶことにするが、それでいいか」

「どうか、命だけはご勘弁ください」

「分かっておる。命を貰ったのでは願い事を叶える意味がない。もちろん、魂も要らんぞ。わしは悪魔ではないからのう」

 次の瞬間、周囲から激しい風が巻き起こり、土埃(つちぼこり)が舞った。実紀夫は目を閉じ、その場にしゃがんで全身に力を入れる。ゴーッという音とともに、木の葉が数枚、顔に当たった。

 風がやんだ時の記憶はない。実紀夫は気がつくと、社の前で大の字になって寝転んでいた。視界には青い空が見えた。

「こんなところで何をやっているんですか」

 頭の斜め上から女性の声が聞こえ、実紀夫は慌てて体を起こす。鳥居の前に初老の女性が立っていた。手にはコンビニの袋を下げている。白い髪に赤い縁の眼鏡をかけた小柄の女性の顔は怒っているように見えた。

「ああ、すみません」

 実紀夫は立ち上がると、目線を合わさないようにして女性の横を抜けて敷地の外に出た。そのとき「それじゃあな」と声を掛けられたような気がして振り返ったが、目の前には女性の怖い顔があるだけだった。
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