第3話 八千円
文字数 1,916文字
「もちろん、あの当時の私は、仕事が多忙を極めていましたから、疲れて夢でも見たものと思いましたよ」
田中はそう言ってから、亨 の表情を見て申し訳なさそうな顔を作った。よほど自分は疑心に満ちた顔をしているのだろうな、と亨は想像した。
それも当然だろう。今の話は何なのだ。
亨はコンビニに来てから二本目の煙草の火を消すと、窓の縁に座る田中の顔をじっくりと眺めた。最初に顔を見た時よりも、少し頬に赤みが差しているその顔は、なぜだか晴れやかに映った。
自分の話を始めて調子が出ているようだ。
「ええと、だから――」亨はその清々しい顔に不快感を覚えながら、質問した。「それが傘にまつわる話なの?」
亨は自分よりも年長の田中に対してタメ口になっていた。仕事の上で現場代理人をすることが多い亨は、下請け会社のガラの悪い作業員から乱暴な口の利き方をされることが多く、いつの間にか自分の口も悪くなっていた。
数分前から雨が弱まってきたが、風は強くなり、雨音に波のような強弱が出ていた。
「それから数日後のことだったと記憶しています。私は仕事の帰りに雨に降られまして、駅の近くのデパートで傘を買ったのです。白と黒のツートンカラーで、八千円近くしました」
「それがさっきの神社の話とどう関係するの?」
「――少し我慢して続きを聞いてもらえませんか」
田中は眉間に皺 を寄せて亨を睨 むような眼をきたが、すぐに顔の緊張を緩めた。そして警戒心を隠さない亨に「ああ、ちょっと待っていてください」と断ると店の中に早足で入っていく。
自動ドアを通過する瞬間、「八千円は安い買い物じゃない」と呟く声が亨の耳に届いた。
数分も待たずに出てきた田中の腕には、お茶のペットボトルが二本抱えられている。その一本を「どうぞ」と言って亨に渡すと、自分がさっきと同じ位置に腰掛け、キャップを開けるとごくりと一口飲んだ。
「それまでの十数年間、私は折り畳み傘しか持っていませんでした。その傘の開き具合が悪くなったために買い直すことにしたのですが、この際だからお洒落な傘を買おうと思いまして、少し奮発しました。私自身、八千円もする傘を買ったのは初めてのことでした」
田中はペットボトルを口に運んだ。亨はついさっきまでコーヒーを飲んでいたので、お茶を飲む気にはならなかった。
「私にしてみれば、自分の人生の方向転換をする具体的なアイテム第一号としての傘でした。かっこいい男になるために一歩でした」
かっこいい男?
田中の口から出た言葉とそれまでの話との関連性が分からず、亨は目の前の男を見つめながら無意識に腕を組んだ。
「ところが翌日のことです。前年度末の退職者を送る会が開催され、雨の日ということでその傘を持って参加した私は、中華料理店の入口の傘立てにその傘を置き忘れてしまったのでした。店を出た時に雨がやんでいたのでうっかりしたのです。それで翌日になって店に取りに行ったところ、傘は行方不明になっていました」
八千円の傘だったのですよ、その傘で雨を凌いだのはたった十五分くらいだったのですよ、と田中は両手を広げて嘆いてみせたが、亨には少し大袈裟 な仕草に思えた。
「傘を無くしたことを知った両親からは叱られました。悔しかったですし、情けなかったので、次の日にまたデパートに行ったのです」
田中さん、その頃のあんたは四十代だったんだよね、と亨は心中でつっこむ。傘を無くして両親に叱られるって、まるで子どもじゃないか、と呆れた。
亨の気持ちに気づくはずもない田中は、調子が出てきたのか喉を鳴らしてお茶を飲むと、「同じ傘を買いました」と話をつないだ。
「デザインは同じなんですけど、今度は青と黒のツートンでした。とにかく、二色の細かい幾何学模様が気に入ったのです」
二色の幾何学模様と聞き、亨の頭に浮かんだのは市松模様だった。そのデザインの傘がおしゃれなのか、ファッションには造詣 がない彼には判断できなかった。
「その傘を使うことになったのは、それから数日後の朝の通勤だったでしょうか。私は自宅からその傘を差して会社に行きました。ところがです。勤務時間を終えて帰ろうとしたところで、とんでもないことが起きていることが判明したのです」
この時、田中の興奮が雨雲に伝わったかのようにひときわ強い雨粒が落ちてきて、辺りをゴーッという音が支配した。
気がつけば亨の肩から背中にかけてシャツがびっしょり濡れていた。彼は田中と相対するのをやめ、男と同じくコンビニの窓を背にした。
「結果、その傘を使ったのは、その日の朝の一時間ほどでした」
「ちょっと待って。とんでもないことって何だよ」
亨は知らず知らずに田中の話に引き込まれていた。
田中はそう言ってから、
それも当然だろう。今の話は何なのだ。
亨はコンビニに来てから二本目の煙草の火を消すと、窓の縁に座る田中の顔をじっくりと眺めた。最初に顔を見た時よりも、少し頬に赤みが差しているその顔は、なぜだか晴れやかに映った。
自分の話を始めて調子が出ているようだ。
「ええと、だから――」亨はその清々しい顔に不快感を覚えながら、質問した。「それが傘にまつわる話なの?」
亨は自分よりも年長の田中に対してタメ口になっていた。仕事の上で現場代理人をすることが多い亨は、下請け会社のガラの悪い作業員から乱暴な口の利き方をされることが多く、いつの間にか自分の口も悪くなっていた。
数分前から雨が弱まってきたが、風は強くなり、雨音に波のような強弱が出ていた。
「それから数日後のことだったと記憶しています。私は仕事の帰りに雨に降られまして、駅の近くのデパートで傘を買ったのです。白と黒のツートンカラーで、八千円近くしました」
「それがさっきの神社の話とどう関係するの?」
「――少し我慢して続きを聞いてもらえませんか」
田中は眉間に
自動ドアを通過する瞬間、「八千円は安い買い物じゃない」と呟く声が亨の耳に届いた。
数分も待たずに出てきた田中の腕には、お茶のペットボトルが二本抱えられている。その一本を「どうぞ」と言って亨に渡すと、自分がさっきと同じ位置に腰掛け、キャップを開けるとごくりと一口飲んだ。
「それまでの十数年間、私は折り畳み傘しか持っていませんでした。その傘の開き具合が悪くなったために買い直すことにしたのですが、この際だからお洒落な傘を買おうと思いまして、少し奮発しました。私自身、八千円もする傘を買ったのは初めてのことでした」
田中はペットボトルを口に運んだ。亨はついさっきまでコーヒーを飲んでいたので、お茶を飲む気にはならなかった。
「私にしてみれば、自分の人生の方向転換をする具体的なアイテム第一号としての傘でした。かっこいい男になるために一歩でした」
かっこいい男?
田中の口から出た言葉とそれまでの話との関連性が分からず、亨は目の前の男を見つめながら無意識に腕を組んだ。
「ところが翌日のことです。前年度末の退職者を送る会が開催され、雨の日ということでその傘を持って参加した私は、中華料理店の入口の傘立てにその傘を置き忘れてしまったのでした。店を出た時に雨がやんでいたのでうっかりしたのです。それで翌日になって店に取りに行ったところ、傘は行方不明になっていました」
八千円の傘だったのですよ、その傘で雨を凌いだのはたった十五分くらいだったのですよ、と田中は両手を広げて嘆いてみせたが、亨には少し
「傘を無くしたことを知った両親からは叱られました。悔しかったですし、情けなかったので、次の日にまたデパートに行ったのです」
田中さん、その頃のあんたは四十代だったんだよね、と亨は心中でつっこむ。傘を無くして両親に叱られるって、まるで子どもじゃないか、と呆れた。
亨の気持ちに気づくはずもない田中は、調子が出てきたのか喉を鳴らしてお茶を飲むと、「同じ傘を買いました」と話をつないだ。
「デザインは同じなんですけど、今度は青と黒のツートンでした。とにかく、二色の細かい幾何学模様が気に入ったのです」
二色の幾何学模様と聞き、亨の頭に浮かんだのは市松模様だった。そのデザインの傘がおしゃれなのか、ファッションには
「その傘を使うことになったのは、それから数日後の朝の通勤だったでしょうか。私は自宅からその傘を差して会社に行きました。ところがです。勤務時間を終えて帰ろうとしたところで、とんでもないことが起きていることが判明したのです」
この時、田中の興奮が雨雲に伝わったかのようにひときわ強い雨粒が落ちてきて、辺りをゴーッという音が支配した。
気がつけば亨の肩から背中にかけてシャツがびっしょり濡れていた。彼は田中と相対するのをやめ、男と同じくコンビニの窓を背にした。
「結果、その傘を使ったのは、その日の朝の一時間ほどでした」
「ちょっと待って。とんでもないことって何だよ」
亨は知らず知らずに田中の話に引き込まれていた。