上司のパワハラと幽霊電車の正体

文字数 6,890文字

二十年以上昔、僕が新卒サラリーマンだった頃。
営業の仕事だったが毎日終電に乗るような慌ただしい生活を送っていた。
とはいえ残業代も出たし、給料も良かったので良い職場だと思っていた。

ある時、営業部で飲み会をした時だった。
ひとしきり盛り上がってきたところで営業部長の大河原が唐突に幽霊電車の話を始めた。
大河原が言うには、毎日終電で帰宅するような生活をしていると、幽霊電車に乗ってしまうことがあるからダラダラ残業せずに早く帰れと言うのだ。仕事人間の大河原自身も過去に乗ってしまって死の淵を彷徨ったことがあるらしいのだが、無事に生還して今のオレがあるのだと、まるで武勇伝のように語るのだ。

周りの先輩や同僚たちは部長に話を合わせているのか、このクソバカバカしい話を興味津々の素振りで聞き、しかも軽く怖がって見せたりしていた。しかし、新入社員で処世術など身につけていなかった僕は、ついうっかり部長に軽口をたたいてしまった。

「大河原さん、そんなことあるわけないですよぉ、それ絶対に寝ぼけてたんですよぉ、はっはっは」

僕がそう言うと、周りの空気が変わった。実は大河原部長は知る人ぞ知る陰険な体育会系オヤジで、言うことを聞かない部下には強烈な嫌がらせでもって退職に追い込むことが常だった。僕はまだ入社したばかりで大河原がそこまで怖い人だとはつゆ知らず、ついつい小バカにするようなセリフを吐いてしまったのだ。大河原は僕に言った。

「オマエ、そこまで言うなら幽霊電車に乗ってレポート書いてこい。これは特別業務命令だ」

幽霊電車など存在しないのだから、そもそも乗れるわけがない。僕は入社半年目にして大河原の嫌がらせのターゲットになってしまった。
まだパワハラなどという言葉もない時代で、この程度の上司からの嫌がらせは営業系の会社にはザラにある話だった。
とはいえ、大河原はひどく酒に酔っており、さすがに幽霊電車のレポートを書けなど、その場限りの冗談だろうと高をくくっていた。
しかし翌日になって自分の考えが甘かったことを知った。

「おい、幽霊電車のレポート忘れるなよ。特別業務命令だぞ」

なんと大河原は酒の席の話をしっかりと覚えていたのだ。去り際に大河原にパンと強く背中を叩かれた僕は困りに困って、当時面倒をよくみてくれていた先輩の川北を仕事終わりに居酒屋へ誘った。

「川北さん、幽霊電車のレポートの件ですけど、部長はマジで言ってんすかね?」

「当ったり前だろ。オマエもバカだな、部長の言うことは絶対に否定するなって言ったろ」

「スンマセン、次回から気を付けます」

「嘘でも幽霊電車に乗ったって言え、そして部長申し訳ありませんでしたって土下座してこい」

「……」

川北はとにかく謝れの一点張りだった。
しかし、嘘の作り話を認めるのは違うと思ったので、そもそも幽霊電車についてどう思っているか川北に聞いてみることにした。

「ところで、川北さんは幽霊電車って存在するって思ってますか?」

「オマエ知らないのか? この地域じゃ有名な話だぞ」

「え、そうだったんですか?」

「まあ、田舎の支店に赴任してきたばかりの新人のオマエが知らないのも無理ないけどな。うちの社員だって目撃したやつはいるし、部長以外にも間違って乗った同僚がいたけど、みんなおかしくなって会社辞めてんだよ」

「まじすか……」

「部長だけみたいだぞ、あれに乗って平気な顔して会社にいるのは。神経図太いんだよ」

川北の話を聞いて、しばらく開いた口がふさがらなかった。田舎ってのは不思議なことがあるものだ。
僕はこの春に新人研修を受けた後、とある県の某田舎街の営業所に配属された。その営業所は駅前にあり、僕は毎日その駅とアパートのある最寄り駅を電車で通勤していた。しかし、毎日と言っていいくらい終電で帰宅していたが、幽霊電車に乗ったこともなければ見たことすらなかった。
ちなみに幽霊電車には青い顔をした幽霊が暗い車両にポツンと座っているらしいのだが、その幽霊は何年か前に鬱が原因で飛び込み自殺したサラリーマンだという噂があった。しかも僕の勤めている会社の社員だったという噂もあるらしいが真偽のほどは定かではない……。

「川北さんは、見たことありますか?」

「オレはないよ、そもそも終電で帰るほど仕事人間じゃねえし」

確かに21時以降のオフィスに川北を見ることはなかった。たいてい終電間際まで残って仕事をしているのは部長と僕と、あと一人、二人程度だ。なるほど、遅くまで仕事をしている部長が幽霊電車に乗ったという話は嘘ではなさそうだ。

次の日、川北のアドバイスを受けて部長のデスクに向かった。時刻は深夜の0時を過ぎ、まもなく終電の時間だった。先輩や同僚もみんな帰宅して、オフィスに残っていたのは僕と大河原部長だけだった。

「大河原さん、実は昨日、幽霊電車に乗っちゃいました。部長の話は本当でした。申し訳ございませんっ!」

僕は川北との打ち合わせ通り本当は見てもいない幽霊電車に乗ったと嘘をついて大河原に謝罪した。
しかし大河原は僕の嘘を見抜いていたのか、許してくれなかった。

「オマエ、嘘ついてるだろ。本当にあれに乗ったら、そんなに平然としていられないっつーの」

「はあ……」

「鬱病みたいになって、正気じゃいられねーっつーの」

「そ、そうなんですか?」

「そうだよ、呪いだよ、呪いがかかるんだよ」

呪いがかかっても大河原は鬱にもならずに今こうしてオフィスで仕事をしているという現実。
この大河原という人間はただものではないと感じた僕は、観念して嘘を白状し、改めて謝罪した。

「す、すみません、嘘をつきました。でも、入社してからほぼずっと終電で帰宅してますが幽霊電車なんて見たこともないんです」

僕がそう言うと大河原は笑い出した。

「はっはっは、当たり前だ、終電で帰ったら遭遇するわけがない。終電の次の電車が幽霊電車だぞ」

「な、なるほど……」

どうやら若い頃の大河原も、終電に乗ろうとして乗り遅れてしまった時に幽霊電車に遭遇したと言うのだ。
しかも、幽霊電車に乗るには儀式が必要とのこと……。

「いいか、駅に着いたら0時15分に中央階段を登ってすぐのトイレに入れ」

「トイレに入るんですか?」

「そうだ、そのトイレが現実との境界線だ。そこで0時20分の終電をやり過ごせ。しばらく待つとダイヤにない謎の電車がホームに現れることがある」

「まじっすか」

「そしてトイレで耳を澄ませ。電車が到着する音、扉が開く音、幽霊の足音、一通り聞こえたらトイレから出ろ」

「幽霊の足音……まじっすか?」

「次は西階段から降りるんだ。いいか絶対に西階段だぞ。なぜなら西階段を降りてすぐの車両だけ扉が開いてるからだ」

「の、乗るんですか?」

「まさか、オマエ、怖いのか? 業務命令に従えないと言うのか? オレを馬鹿にしたくせに」

「いえ、すみません、やってみます……」

その日、大河原の指示通りに0時20分の終電が通り過ぎるのを駅のトイレで待った。小汚い場所でじっと時間が過ぎるのを待つのはとても気分が悪かった。ホームから最終電車の音と振動が遠ざかっていくと、ただでさえ人がいなくてシーンとしていた駅のホームは虫の声しか聞こえなくなった。僕は怖くなって頭を抱えてうずくまった。

(いやだなあ、こわいなあ、本当に幽霊電車が現れたらどうしよう……)

そう思いながらどれくらいの時間が過ぎただろうか、慢性的な睡眠不足だった僕はトイレでうずくまったまま寝てしまったのだ。ふと目が覚めると早朝4時で、まだ辺りは薄暗かった。寝ぼけて自分の部屋にいると錯覚した僕は、よろけてトイレのドアに勢いよく頭をぶつけた。物音一つない深夜の田舎町にドーンという大きな音が響き渡り我に返った。

(痛ぇ~、オレはどうしてこんなバカバカしいことをしてたんだろう。明日も仕事なのに……)

翌日、駅のトイレからそのまま出社した僕を見た大河原は、人の気も知らず呑気なセリフを僕に浴びせた。

「お、今日は朝早いな、新聞配達でも始めたか? ところで幽霊電車には乗れたか?」

「いえ、昨日はだめでした」

「そうか、まあ根気強くやれや」

心底頭にきた。しかし、これをしない限りは大河原の嫌がらせが延々と続く。この会社に長く勤めたいと思っていた僕は、今日こそはなんとしても幽霊電車に乗るんだと決意を固め、終電をやり過ごすために駅のトイレに入った。
しかし、待てど暮らせど電車は現れず、ついにその日は一睡もせずに駅のトイレで夜を過ごす羽目になった。

「お、今日も朝早いな、新聞配達でも始めたか? ところで幽霊電車には乗れたか?」

「いえ、昨日もだめでした」

「そうか、まあ根気強くやれや」

デジャビューじゃあるまいし、心底頭にきた。当時の僕はまだ若かったし、大学時代はアメフト選手だったから体力に自信があったものの、こんなことを毎晩繰り返したら過労で死んでしまう。とはいえ業務命令に逆らったらクビだ。
次の日もまた次の日も、そして何日も駅のトイレにこもったが幽霊電車には出会えず、さすがに体力も精神的にも限界がやってきた。そして業務命令を受けて2週間後の金曜日。翌日が休みだったこともあり、これを最後にしようと決意して駅のトイレに入った。僕は精神的に不安定になっていた。

(もう限界だ、今日ダメだったら、あの嘘つき野郎をボッコボコにぶん殴って会社辞めてやるんだ。いや、ナイフで刺すかもな。ふっふふ)

時刻は0時20分、トイレの中で最終電車をやり過ごしたことを耳と振動で確認した。今日で最後だ、明日は休みだ、そう思ったら睡魔が襲ってきたので、自らほっぺたを思い切り平手で張った。無人の駅にパーンという大きな音が響き渡った。そんなことをしてどれほど時間が過ぎただろうか、時計を見るとまだ1時20分だった。

(え、あれからまだ、1時間しかたってないのか、もううんざりだよ……)

もう帰ろうかと思った時だった。かすかな振動が足を伝わってきた。その振動は徐々に強くなり、ゴトゴトという音とともに近づいてきた。
なんと、とっくに終電が終わった時間にもかかわらず電車がやってきたのだ。恐怖でガタガタと足が震えた。

(うわぁ、これが、幽霊電車か……?)

プシューっという音がして、微かに扉の音がしたかと思ったら、突如、不気味な靴音がコツコツと聞こえた。そしてすぐに消えた。

(うわあ、まさかあれが幽霊の足音か……?)

怖いけど行くしかないと覚悟を決めてトイレを出た。大河原の指示通り西の階段を静かに駆け降りた。
ホームまで出ると、確かにそこには普段見慣れない電車が止まっていた。赤茶けた色をした古そうな車両で、まさに見た目は幽霊電車そのものだった。数えると四両編成で、四両の四は死を思わせた。また、どの車両にも照明が付いておらず真っ暗で中の様子はまったくわからなかった。

(うわぁ、本当だったのかよ……)

しかも大河原の言う通り西階段を降りてすぐの三両目の扉だけがなぜか開いており、いかにもここから乗れと言わんばかりだ。

(どうしてこの扉だけ空いてるんだろう……。どういう意味だ? 怖いな……)

なにか罠でも仕掛けられてないだろうかとキョロキョロしながら一つだけ全開している扉に向かって早足で駆け込んだ。
すると、電車の扉をくぐった途端に電車のドアがぴしゃっと閉まった。

(し、しまった! やられた!)

罠にはまったと思った時には既に遅かった。幽霊電車はギイギイときしむ音を不気味に鳴らしながら動き始めたのだ。
しかも電車の中は、まるで古い倉庫のような埃っぽさで、むせ返るような臭いが鼻を突いた。

「ゲホッ! ゲホッ! なんだこれ」

しかし、まるで時がゆっくりと流れるかのごとく幽霊電車の速度は上がらなかった。

(どうしたんだ、ずっと徐行してる……。どこに行こうとしてるんだ?)

不安になり窓から外を見ると、分岐点を過ぎるガシャンという音とともに見慣れない風景へと変化していった。
自宅のアパートの方向とは明らかに異なる方面へ向かっていたのだ。

(まさか地獄行きってことないよな。何とかして脱出しなきゃ……。この速度なら飛び降りることができそうだ)

どこかに非常用の開錠コックはないかと探したが、真っ暗でどこにあるかわからなかった。仕方なしに無理やり窓をこじ開けようとしたが錆びついているのかビクともしなかった。そこで、暗闇の中を手探りで連結部分に向かってみたが、連結扉もロックされており隣の車両には移動できなかった。

(脱出不可能かよ!)

窓から見える景色は明らかにいつもの住宅街の風景ではなかった。広大な荒野、いや、耕作放棄されて雑草だらけになった田畑だった。しかもポツンと建物が見えたかと思うと屋根が落ちて朽ち果てた廃屋で、ここら一帯に人が住んでいる気配すらなかった。徐々に線路の周りに生えた背の高い枯れたススキが視界を遮りはじめて、広大な枯れススキの荒れ地が視界に広がりはじめた。

(ここはどこだ、日本なのか……まさか霊界とかじゃないよな?)

誰か気が付いてくれと電車の窓をどんどんと叩いて叫んだが、広大なススキ野には人影すら見当たらなかった。
すると気のせいか、はるか遠くにぼんやりと光って動くものが見えた。そして、それは少しづつ幽霊電車に近づいてきた。

(人だ! バイクだ!)

古い原付バイクに乗った老人のように見えた。枯れススキに隠れて見えないが、細い道が線路と並行に存在しているようだ。しかし、どれだけ強く窓を叩いて大きな声を出しても、決して振り向くことなくバイクの老人は走り去っていった。

(おい! どうして気が付かないんだ! こっちが見えてなかったのかよ!)

とにかく早くここを出なければならないと悟った僕は、何か窓を割るものはないだろうかと電車内をキョロキョロと見まわした。そのうちに目が慣れてきたのか車内の様子をよくよく見ると、まるで博物館にあるような古い型の電車だと気が付いた。ところどころ座席の布地も破れており、なぜか床を歩くとぎしぎしと音が鳴った。

(なんだこの電車、床が木じゃねえか! もしかしてタイムスリップ……?)

そんなはずはないと混乱した頭を冷やすため古汚い長座席に腰を下ろした。ものすごい量の埃が宙を舞い再び咳き込んだ。
しかし座って冷静になったからか、今さらながら胸ポケットに携帯電話が入っていることに気が付いた。

(そ、そうだ、電話で助けを呼ぼう!)

座席に座って前かがみになりながら二つ折りの携帯電話を開いた。ちなみにまだスマホはない時代だ。
しかし、光る液晶画面を見て愕然とした。予想していたとはいえ電波が届いてなかったのだ。

(確かに田舎だけど、駅からさほど離れてないのに圏外て……ありえないだろ……)

やはりこの電車は時空間を超えてしまったのだろうか。もう二度と戻れないのだろうか。永遠に終点のない電車に死ぬまで乗り続けるのだろうか。
しかし、大河原はどうやってこの電車から脱出したのだろう。乗る方法は教えたくせに脱出する方法は教えなかった。まさか、あいつは死神で僕は罠に嵌められたのだろうか。やつの目的はただひとつ、僕を死へ追いやることだったのだろうか。
そう思ったら、急に情緒が不安定になった。

(お母さん……)

実家の母の顔が頭に浮かんだ。会社に入ってたっぷり稼いで、親孝行をしようと思っていた矢先だった。大学まで出してもらったのに、親孝行もできずに死ぬのだ。こんなバカバカしい死に方をするなんて親不孝にも程がある。悔しくて涙が出た。
携帯電話の画面をボーっと見つめていると、涙する自分の顔が液晶の光を受けて電車の窓に映っていることに気が付いた。

(なんて顔してんだよオレは……、情けねえ……、グスン……)

疲労と心労が重なっていたからだろうか、精神不安定な僕はそのうち埃だらけのシートにパタンと横になって倒れた。
こんなことは夢であってくれ、そう願う間もないくらい一瞬にして意識を失った。



目が覚めた時は既に朝を迎えており、暗闇だった幽霊電車の車内はすべてが明るく照らし出されていた。
イベント用旧式電車の車庫だった。
横になって寝ぼけていた僕を、作業服を着た作業員と駅員が困った顔をして上から見下ろしていた。

週明けに会社へ行くと、オフィスは幽霊電車の話題で持ちきりだった。

「近所のおばちゃんが幽霊電車を見たっていうんだよ、真夜中の電車にポツンとスーツ姿の青白い顔の幽霊が乗ってたんだって」

「オレ知ってる、それ、駅のホームで自殺したサリーマンの霊だわ」

「新聞配達のおっちゃんも見たってよ。幽霊が窓をドンドンと叩きながら怖い顔で叫んでたって」

「オレ知ってる、それ、見たら呪われるってやつだわ」

「最近、誰もいない駅からドーンとか、パーンとか、大きな音が聞こえたりしてたみたいだし、何か起こりそうだったんだよ」

「オレ知ってる、それ、ポルターガイストのラップ音ってやつだわ」


先輩たちの会話を聞きながらデスクの荷物を片付けてカバンに詰めていると弁護士事務所から携帯に電話が入った。

「この件、勝てますよ」

その日をもって僕は会社を辞めた。
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