最近ダブルユーが落ちている

文字数 2,561文字

「最近ダブルユーが落ちている」

 仕事の休憩中に泰三《たいぞう》はスマホを眺めて、不満げに唸るように声を漏らした。彼のスマホはメッセージアプリで家族のトーク画面を表示している。泰三の所属する部署は現在5人の少数精鋭で、泰三にはその部署の部長という肩書きがあった。そしてその小さな規模に見合った小さな部屋で、昼休憩の始業時間の5分前という皆の気持ちが少し沈んだ微妙な時間帯に、泰三の意味不明な発言は部署の雰囲気を妙に気まずいものへと変えた。沈黙が暫し流れる。皆、泰三の言葉の意味には興味がそそられるものの、言葉が出てこないのだ。何故なら泰三のその唸るような低い声は、彼が不機嫌になりつつあるという証だから、彼を刺激しないでどう返事をしたものかと皆が皆非常に悩ましく頭を抱えた。1人を除いて、

「ダブルユー、ですか? ダブリュー……、“W”?」

 沈黙を破ったのは部署で1番新人の紀幸《のりゆき》だ。彼はすっとんきょうにとぼけた声を出して口を開いた。

「Wなんて、一体どんなところに落ちてるんですか?」

 首を傾げながら、一生懸命考えている。その紀幸の大馬鹿な様子に、他の3人は部長の機嫌がどう動くのかとハラハラしたが、一方で彼に称賛の拍手を内心で送っていた。

――“W”が落ちてるなんて、どう言うことなのか。

 他の3人も聞き耳を立てて、泰三の答えを待っている。しかし泰三の返答は無かった。代わりに紀幸の席まで無言でドシリドシリと威厳たっぷりに赴いてくる。歩数にすれば僅か4、5歩のことではあるが、泰三のそれはまるでゴジラの行進のようで、聞き耳を立てている3人にとっては紀幸が踏み潰されてしまうのではないかというくらいに気が気ではなく、とても長い時間に感じた。

「ん」

 泰三が彼のスマホを紀幸に突きつける。スマホの画面にはメッセージアプリが開かれていた。

ママ「夕飯どうするの?」

          「帰り遅くなる」

          「食べる」

ミツル「冷めちゃうよww」

          「分かってる」

          「宿題ちゃんとやれよ」

ミツル「父うざいw やるしww」

 画面にはこのような会話が繰り広げられていた。紀幸はこれを見て先程の泰三の言葉に合点が言った。

「あー、W。草のことですね~!」

 紀幸の明るく軽い声が部屋に響いた。当たり前ではあるが、紀幸が泰三に踏み潰されなかったことに3人は安堵する。が、スマホの中身を見れないので状況が掴めない。

「これは草と言うのか? ミツルだけじゃなくて、最近はインターネットでもよく見かける気がするのだが、全くもって意味が分からないのだよ。紀幸君、これはなんでああも文末に落ちているのか、教えてくれないか?」

 泰三は紀幸に説明を求め、他の3人は会話の内容が益々もって分からなくなった。
 泰三が落ちてると言った「ダブルユー」は“W”で「草」と言って、泰三の息子さんのミツル君が落とすだけじゃなく、インターネットのあちこちにも、文末に落ちてる。
 状況が読み込めず、外野の3人は顔を見合わせると肩をすくめた。

「いや泰三さん。まずこの“W”は“笑い”=“warai”の略なんですよ。だから、最近の若者は笑いを表現するために文末に“W”をつけるんです。そして“W”の形が地面に草が生えたように見えるってんで、それを草と呼ぶ人もいて」

 爆笑した時なんかは”W“を沢山並べて大草原って言ったりするんですよ、と紀幸は得意気に説明をした。聞き耳を立てていた3人は、その説明を聞いて納得がいった。最近流行りの若者言葉というやつの一種か、と。
 日本語には新しい略語やら造語やらと、現れては消えていく言葉が沢山ある。大体はその当時の若者が、当時の世相に応じて便利な言葉を作り出すのだ。
 紀幸は説明を終えると、我ながら分かりやすくプレゼンできたのではないか、と泰三を見やる。しかし泰三の方はというと、納得がいかないらしく、顰め面だ。

「なるほど、笑う時に“W”を落とすんだな。けれど、だとすれば……。夕飯が冷める、とか、うざい、とか、面白くもなんともないことにミツルは“W”を使って……馬鹿にしてんのか? アイツっ!!」

 泰三は眉間に深々と皺を寄せ、口元をギュッとへし曲げて、自分の席に戻ると、

――バンッ

 机を拳で勢いよく叩いた。

「ヒッ……」

 聞き耳を立てていた3人が、びっくりして息を飲む。

「いやいや、最近の若い人は意味も無く使う人も多いみたいですから!」

 紀幸は慌ててフォローを入れるも、

「意味も無いのに、文を締めずにポロポロと意味わからん文字をこぼしてばかりで、それこそみっともない」

 泰三は怒り心頭のようだった。この様子では、きっと家に帰ったらミツル君は部長に怒られることになるだろう。

――ミツル君よ、ごめんなw

 紀幸は心の中でそっと泰三の息子に謝罪した。

 会話を聞いていた他の3人は、部長の機嫌が午後の業務に支障をきたすのではと、部長の導火線に火を着けた紀幸のことを恨めしく睨んでいる。しかし紀幸は、3人のそのような様子に気もつかず、1人物思いに耽っていた。

 文末の“W”について、紀幸も思うところはあった。文章で笑いを表現するとき、紀幸の時代は“W”と言うものは無くて“(笑)”が主流だった。勿論今でも“(笑)”は使われているわけだけれど、最近は“W”が多用されている印象がある。
 “W”も“(笑)”も根本的に同じなのかもしれないが、“W”で表現されている笑いはなんだか嘲り笑われているような感覚がすると紀幸は常々思っていた。
 だから、泰三が怒ったのを目にしたとき、“W”に常々不快感を抱いていたのは自分だけではないのだと分かり、少しほっとした。

 まあそれにしても、文末の落とし物が文章に実際にどんなニュアンスが含ませているのか、はたまた何も含ませていないのかは文章を書いた本人にしか分からない。

 最近の若者にはついていけないなぁと、この部署の中で1番最年少の紀幸は、ふぅとため息をついた。

 チャイムが鳴る。午後の業務が始まった。
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