第3話

文字数 2,708文字

「ああ! 春原くん、ごめんなさい!」
 アニメ声のようなかわいらしさで詫びてくるのは、一階の住人でシェアハウス唯一の女性である土野小波(つちのこなみ)――のはずなのだが、ドアの向こうには誰もいない。「大丈夫? あっ、たんこぶできてる!」と声だけが響く。
「土野さんの声だけがするね」
「小波ちゃん、どこにいるんすかー」
「ここ! ここよここ!」
 声はすれども姿は見えず。春は痛みに涙ぐみながらも、廊下を確認しようと進んだ。すると肩や腕に柔らかい感触があった。
「春原くんっ! 変なとこさわらないで!」
 見えない衝撃に突きとばされて、春は尻餅をついた。額も尻も痛い。踏んだり蹴ったりである。おまけに「春さん、セクハラ反対っすよ」と依光にたしなめられ、心底殺意が湧いた。
「もしかして土野さん。消えてる?」
 羽室の冷静な問いかけに、土野の甲高い声が近くから応じる。
「そう! そうなの!」
「でも、一瞬だけ消えるんじゃなかったっけ?」
「そう! そうなの!」
「一瞬ってレベルの時間じゃないね」
「そう! そうなの!」
 埒が明かない。春は「つまりずっと消えたままになってるってことか?」と尋ねる。
「そう! そうなの!」
 四度目の一字一句同じ回答に、録音した音声でいたずらをしているだけなんじゃないか、と春は本気で疑った。
 土野は一瞬だけ消える特性を持っている。消えるというのは文字どおり透明人間になるということだ。土野の意識はそのままに、ほんの一瞬だけ人の目に映らなくなるらしい。しかも怒ったり落ちこんだりと嫌な気持ちになったとき限定、自分の意思とは無関係に透過するようで、依光と羽室以上になんの役にも立たない能力である。当人も困るだけだとよくなげいている。
 しかし、ずっと消えたままというのは、役に立たないを通りこして大問題である。土野の存在自体が非常に不確かなものとなってくる。
「どうしよう!」
「土野、とりあえず座ろう。あ、そこの座布団に」
 不用意に接触してしまい、また突きとばされてはかなわない。春が座布団を指さすと、表面が少しへこんだ。着座したらしい。
「土野さん、いつから消えたままなの?」
「わからない! 今日ずっと部屋にいたし、買い物でも行こうかなって思って鏡の前に立ったら映らなかったの」
「昨夜はぼくたちにも見えてたね」
「怖い! このまま消えたままだったらどうしよう!」
「小波ちゃん、今日は誰かに会う予定あるんすか?」
「今日はないよ」
「じゃあ明日は?」
「明日もないよ」
「明後日は?」
「明後日もないよ。わたし、ちょうど昨日で短期バイト終わったところだから、当分暇なの」
 春は人知れず肩を落とした。このシェアハウスにいる人間は、どいつもこいつも社会の枠にはまらない。自分だけが会社員の肩書きを背負い、面白くもない生き方をひいひい言いながら続けている。
「じゃあ当分消えたままでもいいんじゃないっすか」
「えっ! まあそっか。うーん、でもやだ、怖い!」
 能天気な依光のアドバイスに一瞬同調しそうになるも、土野は子どものように突っぱねた。
「じゃあ絵の具かなにかで土野さんをなぞって」
「やだやだ! 羽室くん、画伯なんだもん」
 この場合の画伯というのは、恐ろしいほど絵心がないという意味だ。羽室が年賀状で寅の絵を描いたときは、干支を六年分くらい間違えているのではと勘繰ったほどだ。そのくせ本人は出来栄えに、やたら鼻を高くしていたのだから始末に負えない。下手の横好きである。
 というか、絵心があろうと自分の体を絵筆でなぞられるのは嫌だろう。どうしたってリアルにはならないし。
 ツッコみどころは満載だが、今はそんなことにかまっていられない。春は今度こそコーヒーを淹れにいこうと立ちあがった。すると足元が引っぱられる感覚がある。
「春原くん、どこ行くの」
「ちょっとコーヒーを」
「ひどい! 緊急事態なのにコーヒーだなんて!」
「悪いが、おれも緊急事態なんだ。気分転換をしなければ小説に取りかかれない」
「なんで! 一緒に対策考えてよ!」
「そこのへっぽこ二人組に聞いてくれ」
「こういうときこそ三人でしょ! 文殊の知恵!」
「おれは頭が固いから、いいアイデアなんか浮かばないんだっ」
 春が声を荒げると、土野の声は震えた。そしてしゃくりあげる。宙に水滴が浮かび、それこそまさに絵筆が流れるように透明な線を描く。都合の悪いことに、涙は見えるらしい。
「あ~あ、ひどいっすね、春さん」
「最低だね、春」
 完全に野次馬を決めこむ二人は、やいのやいのと春を責めたてる。せっかくの休日なのに、おれはコーヒーも自由に飲めないのかっ。という応戦をぐっとこらえる。涙の泉はとめどなくあふれているからだ。春はしゃがみこんで、涙と同じ目線になる。
「土野、昨晩なにか嫌なことがあったんじゃないか?」
「え?」
「しかも相当嫌なことだ。だから、ずっと消えたままなんじゃないか?」
 非常に地に足のついた推理だ。そして、それが当たれば原因を取りのぞいてやればいいと思う。堅実だ。放っておけばいいだの絵の具でなぞってやればいいだの、そういう自由な発想は生みだせない。春は苦々しい思いだった。だが、冷静な指摘が土野の涙を止めた。
「うーん、確かに言われてみれば、なんかあった気がする……」
「いやいや、思いだせないくらいなら、大したことじゃないっすよ」
「それは人によるだろう。嫌すぎて忘れてしまおうとする人もいる」
「でも、昨日の今日でしょ? 忘れようと思ったことさえ忘れるかな」
「嫌すぎて自分の意思とは無関係に記憶を吹っ飛ばしてるだけかもしれない」
 そう、そういうことはある。春はかつて仕事で商品発注をしたときに、ゼロを一つ間違えてしまったことがある。発覚した瞬間、さっと血の気が引いて目の前が真っ白になった。ミスをリカバリーするために、東奔西走したことは間違いないのだが、なぜかその記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっている。すべてが済んだあとに少しずつ実感が湧いてきたのだが、周囲から「心ここにあらずだった」と証言されたものである。
 嫌なことを忘れる。きっとそれは人間に備わる防衛本能なのだろう。土野の透明化する特性だって、それと同じだ。
「多分、今は忘れてても根本的な解決まで至ってないんだろう。だから無意識でも、その嫌なことは土野の心を巣食ってるんじゃないか」
「……ん」
「嫌なことをちゃんと忘れるには、一度きちんと目を合わせないとだめだ」
 ああ、なんて至極真っ当で普通なことしか言えないんだ、おれは。春は人知れず苦悩し、むしろ自分こそ消えてしまうんじゃないかと思った。が、土野の狂気的な悲鳴がそれをさえぎった。
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