第4話

文字数 1,895文字

「ぎいええええええええええ!」
 この世のものとは思えぬ叫び。間近にいた春は鼓膜をもろに貫かれた。姿は見えずとも、土野が頭を抱え、もがき苦しむ様が目に映るようだ。恐らく透明化した原因を思いだしたのだろう。「落ちつけっ」という言葉も彼女には届かないようで、獣のような咆哮は激しさを増す一方だった。
 春の胸の内にはしかし、不謹慎だが好奇の芽が顔をのぞかせていた。こんなにも取り乱すほどの事態とはいったいなんだ。自分自身の存在をこの世から消してしまうくらいの事件とはいったいなんだ。平々凡々な日常ではめったにお目にかかれないレアな事案が転がっているかもしれない。苦しむ土野には悪いが、人の不幸は蜜の味、ならぬ小説のネタだっ。
「あ、土野さんの心読んじゃった」
 でかした羽室! はしゃぐ心の声を読まれまいと、春はあわてて実際の声をかぶせる。
「なんだっ! 原因はなんだっ!」
「ヤモリだね」
「なんだっ! そのヤモリってのはっ!」
「なんだって、ヤモリはヤモリだよ。あの爬虫類のヤモリ」
 ヤモリという単語に反応したのか、土野の絶叫はますますカオスを極める。おまけに部屋中を走りまわっているようで、あちこち予想もつかない方向から叫ばれると心臓も鼓膜もいくつあっても足りない。
「ヤモリぃ?」
 土野は壁や天井を這いずりまわっているのではないか。そう疑ってしまうほど縦横無尽に叫び声は飛び交う。男三人はこそこそと部屋の隅で身を寄せあった。
「どういうことだ、羽室」
「そのままの意味だよ。土野さん、昨日の晩にヤモリと遭遇したみたいだね」
「それでどうなった」
「多分だけど、窓から入ってきて部屋にいるんじゃないかな。ヤモリが部屋にいるかもっていう強い不安が読めたからね」
「……で?」
「でって?」
「……土野はヤモリが嫌いってことか?」
「これで好きだったら衝撃だね」
 春はがっくりとうなだれた。なんという平凡さ! なんというつまらなさ! もっと劇的な理由を期待したのに、これじゃあおれの書く小説じゃないか!
 羽室が薄く笑った。春の心を読んだのかもしれない。だが、もう取り繕うのもバカらしい。投げやりになった春とは正反対に、依光は「じゃあ、やることは一つっすね」と立ちあがる。
 跳弾しまくる叫喚を、依光はするするとかわすように部屋を出た。
「任せて、小波ちゃん!」
 下手くそなウインクは果たして彼女に届いたのかわからない。羽室もついていってしまうので、春も不本意ながらあとに続いた。この地獄絵図のような空間(自室なのだが)に一人残されるのはつらい。
 階段を降りて、土野の部屋の前で依光は目を閉じていた。数秒ののち「見えたっす!」とガッツポーズを取る。
「ヤモリ、やっぱり部屋にいます! クローゼットの中っすね。埃かぶった電子ピアノが置いてあって、鍵盤の上に乗っかってます」
 透視したらしい。が、ずばり言いあてたわりに依光は動かなかった。春が「ヤモリ、つまみだしてやれよ」と促すと「だめっす!」ときっぱり拒否してくる。
「女性の部屋に勝手に入るなんてできないっす! 小波ちゃんに嫌われたくないっすもん」
「嫌わないだろ、そんなことで。むしろつまみだしたら好かれるんじゃないか?」
「春さんはデリカシーがないっすからねえ」
 にらみつけてやりたかったが、アイデアもなければデリカシーもないのかおれは、と自分でさらに追い打ちをかけてしまった。代わりにたたずんでいるだけの無職イケメンに視線を移したが、また心を読んだのか静かに首を振る。
「ぼくも爬虫類は苦手なんだ。土野さんほどじゃないけどさ」
 さわやかに微笑む姿はアイドルのようだ。春はこめかみをぴくぴくさせながら、
「わかったよっ。デリカシーもないイケメンでもないおれが行くっ」
 半ばやけくそで、でもなるべく部屋の中を見ないように、怯えたヤモリをつまみあげて、窓の外へ放ち、無言で帰還する春は任務にのみ実直な兵士のようだった。依光が思わず敬礼で迎えたほどだ。
「女性の部屋から出てきた顔じゃないね」
 と、羽室は茶化す。口をへの字に曲げた春のすぐ傍に、いつの間にか土野の姿が浮かびあがっていた。眉を八の字にして、瞳を潤ませている。頬はほんのりと赤く、表情はどこか幼い。
 こんな顔だったか、と春はたかだか半日ぶりくらいの土野の姿を認めて思った。
「ありがと」
 そして、さっきまで吠えていたくせに、こんな消え入りそうな声で礼を言うのか。
「ヤモリは家を守ってくれるんだぞ。あんまり邪険にしてやるな」
 春がそうつぶやくと、今度はほっぺたをうんとふくらませていた。フグに似ているな、と春はデリカシーのないことを考えた。
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