第1話

文字数 1,745文字

『会議室に入ると、異様なオーラをまとった重鎮たちが待ちかまえていた。彼らの手元には、徹夜して作ったプレゼン資料が置いてある。会議に先んじて、つまらなさそうにめくっている部長に思わず歯噛みする。それはおれの血と汗と涙の結晶で、パラパラ漫画のように扱っていいものでは――』
「ないっ!」
 タイピングしていた手を止め、春原春(すのはらはる)はのけぞった。固い背もたれに背中を思いきり預けてからの反動で、起きあがりこぼしのように再びノートパソコンと対峙する。目を何度かしばたたかせる。ドライアイのせいもあるが、熱量と勢いに任せて放出した物語の出来が信じられなかったからだ。
「面白くない……!」
 書きはじめるまえに抱いた、これは大傑作になるという予感はなんだったのだろう。マウスをスクロールして、時間をさかのぼる。一時間前に書いた出だしの文章は、冗長でさらにひどい。自分で自分に酔っている表現の乱れ打ちだ。羞恥と落胆で、春はメデューサのようにうねったくせ毛をかきむしった。己の才能のなさに泣いてしまいそうだ。ドライアイだから泣けないけれど。
「ああー、こりゃつまんないっすねえ」
 耳元で急にささやかれた春は、首筋に悪寒を感じて立ちあがったが、六畳一間には自分以外に誰もいない。ドアは鍵をかけている。部屋はパソコンデスクに椅子、本棚のみの殺風景ぶりで、クローゼットには必要最低限の衣類がぶら下がっているだけ。人が隠れるような場所はどこにもない。
 春はため息を一つこぼし、
「依光(よりみつ)、勝手に透視するなって言ったろっ」
 と、隣の部屋の壁に向かって唾を飛ばした。すると再び春の耳元で「だって春さんの部屋しかのぞけないんすもーん」と唇をとがらせているかのような不満げな声が響く。
「こっち来い」
 そう投げると、数秒後にドアがノックされた。ドアを開ければ、お隣さんの依光教(きょう)がそこに立っている。細長い体躯にへらへらとした笑顔。悪気なく人を苛つかせるが、腹の底からは憎めない。デコピンはしてやりたいが、ヘッドロックはかわいそう。その程度の微妙な愛嬌を持っている男は、半径三メートル以内の透視をすることができた。そしてその射程内にいる人間に耳元でささやくこともできる。
「あーあ、なんで角部屋で隣が春さんなんすかねえ。小波(こなみ)ちゃんだったらよかったのに」
 もう軽く五百回は聞いた愚痴を、春は聞き流す。説教をしかけて、飲みこんだ。この説教も軽く五百回は繰りかえしているのに効果がないのだ。呼んでおいたくせに、もう部屋に戻ってほしかった。黙りこくった春におかまいなく、依光はさっさと部屋に上がりこんでくる。こいつに空気を読めというのが無理な話だった。
 そんなことより書きかけの小説だ。春は再びパソコンと向きあう。ほんの数分前までは大傑作間違いなしだったはずの小説だ。いったいどこでどうなって、こんなつまらない話にすり替わったんだ?
「なんていうか、現実的というか、現実そのもののお話っすねえ」
 春の耳元で、ぬけぬけと依光が評する。透視をしようとしまいと、いちいち距離感の近いやつだ。
「リアリティを追求した小説だって、いくらでもあるだろ」
「いやー、リアリティったって、これ嫌なリアリティっすよ。なんか普通の職場で起こる普通のストレスをわざわざ見せつけられてるみたいな。日常にある普通の嫌なことを、小説でまで読まされてもねえ」
 春の指はキーボードの上で、待てを食らった犬のように固まった。言いかえしてやりたいが、核心しか突いていないのでぐうの音も出ない。たまらず「だあっ!」とのけぞる。背後にいた依光は「わあっ」と後ずさった。
「現実に面白いことがないんだっ。仕方がないだろっ」
「ええ~。それを面白くしたり、なにか空想したりするのが小説でしょ?」
 だらけた笑みは、のけぞってさかさまから見ても癪に障った。舌を思いきり突きだしてやったが、天に向けたそれはなんだか罰当たりな気がして、すぐに止めた。
 依光は春の小説に早くも興味を失ったようで、勝手に本棚を漁りだした。「あ、これ知ってる。エロいやつっすよね」などと言いながら、谷崎潤一郎の文庫本をひらひらとかざしてくる。否定したり説明したりするのも面倒なので放っておく。
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