第6話 着物③ 腹の内と腹の虫

文字数 1,180文字

ヒコさんが頬杖をしながらこちらをみる。
あ、うん。部屋に
置いてあると、言い終える前に、ヒコさんは、
どれどれ
と、足早に食堂を出て行った。
ヒコさんはすぐに戻ってきた。
ツネよぉ、縞ばっかじゃなくて柄物も持て、な?
え~
なんでぇ、「え~」って
ヒコさんはこちらの同意も得ずに食堂に置いたつづらをひっくり返している。
柄とか、よく、わからないから……
無精者の言い訳をのたまいながら、そういえば、今日はめずらしくヒコさんも縞模様を着ているな、とツネは思った。でも、太縞なのがヒコさんらしい、とも。
これならいいんじゃねえかい?
え~
ヒコさんが差し出したのは、紺地に丸模様の描かれた浴衣だった。


俺にはお洒落すぎると、正直に言うと、

そんなに派手でもねえだろ
ヒコさんに比べれば、ね
ん? 

なんか言ったかい?

ううん、なんでもない
んじゃ、決まりだな
う、うん
ちょいと着てみねぇと、ヒコは半ば強引に、ツネの部屋にやってきていた。
ちょっと、向こう、見ててよ
なんでぇ、減るもんじゃねえし
なっ
あ~、わかったわかった

仕方なしに、ヒコは上がり框に腰かけて、開いた障子戸から表を眺めることにした。


曇っていた空から青空がのぞくと、いよいよ夏の日差しが照り付け始める。


ふぅ、あちいあちい。おっと
ヒコは襟元の汗をてぬぐいで拭いていたが、紫陽花を食堂に置いたままだったことに気づいた。
ツネ、俺ぁちょいと食堂に
え?
言いながら振り返ったヒコととっさに振り向いたツネの目が合ったとき、お互いに「しまった」と思ったのだろうと、お互いの目が言っているのが見てとれた。
肌襦袢を着ようとしていたツネはふんどししか身に着けておらず、前かがみになっていたため、尻を突き出す格好のままこちらをふり向いていた。
……すまねぇ……
静かに背中を向けたヒコだが、しっかりと目に焼き付けてしまった後だった。
う、うん……
ヒコと目が合ってしまった以上、誤魔化しようがない状況に、こっそり見られていた方がよっぽどましだったと、ツネは肌襦袢を着ながら思っていた。


食堂で紫陽花が長持ちするように枝先を切る。


ヒコは、我ながらやりすぎたと反省していた。


早まっちまったなぁ……
ツネが初心なのは重々承知の上だったのに。

だから言わねぇでいようと思っていたのに……。


ツネが酒に酔ってあんな真似するとは思ってもみなかった。


あの顔でほだされねえでいられるわけがねえ。俺だって男だぜぇ、好いって顔されたら乗っちまうに決まってる。


それでもツネにはまだ早えと思った。


知らねえことが多すぎると。


だから、

ちょっとずつでいいと、思った。


酔った勢いなら、その方がいいとも思った。


なのに。


しっかり覚えているしよぉ

重いため息とともにヒコは紫陽花を水飲みに生けて、共同の食卓に飾った。




蝉時雨のなか、長屋の部屋にいるツネと食堂のヒコ、ふたりの腹の虫が鳴った。


腹、減ったな
おなか、すいたな



(着物 了)




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

ツネ。本が好きで、三日に一度、本を買っている。長屋暮らし。部屋の中はいつも本でいっぱい。

ヒコ。ツネと同じ長屋に暮らす。いつも洒落た着物を着ている。

おきよさん。長屋の大家。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色