第4話 着物① 束ねた本と紫陽花

文字数 1,260文字

近所の大きな本屋が潰れたと、読売で知った。



ツネは、長屋の四畳半で不要になった本を束ねている。


数冊ずつまとめては、紙紐で結わえていく。


足の甲が、汗と湿気で畳に張り付いている。きっと膝から下は畳の目の模様が浮き出ていることだろう。


今日も蒸し暑い。汗が首筋を伝う。


はぁ……

小さな扇風機が起こす風は、気休めにもならず、体を汗が次々に流れていくのがわかる。


一息つこうと、土間に降りて蛇口をひねる。


ふぅ

ぬるい水道の水でも無いよりはいい。


梅雨の重い空気で羽交い絞めにでもされているようだと、ツネは思った。


本屋は、本の森だと、ツネは思う。


本の背表紙を眺めるのは至福なのだ。


その本屋にしかない背表紙の並び、品ぞろえ。店主の、そしてそこによく通う客たちが作り出す循環。それはそこだけにある、本の生態系なのだ。


本屋が消えるということは、

世界がひとつ、消えるということだ。


あの本屋、好きだったのにな
つぶやきは、四畳半の畳に吸い込まれた。

町木戸を抜けて大通りをヒコが歩いていると、花屋の店先に紫陽花を見つけた。


毎年、ちゃあんと咲く花の、

なんと甲斐甲斐しいことかと、花に目配せをする。


あら、お客さん、おひとついかが?
客と思われたらしく、店員らしき女性から声をかけられた。
んじゃあ、お姉さんが選んだ花を一輪、買わしてもらうよ
あらま! じゃあ、高いのにしちゃおうかしら!
ほどほどにしてくんねぇ

本当に高い花を買わされた。


薄桃色の紫陽花を手に、ぶらぶらと路地木戸へ曲がる。


木戸を入ってすぐ右手の一番手前が、ツネの住む部屋だ。入口の腰高障子が開いている。


こんなに、いいんですか?
部屋の前を通りかかると、ツネの困ったような声が聞こえてきた。
いいのよ、うちじゃもう着ないから、よかったら着て頂戴

暑さに作業を中断していると、大家のおきよさんがやって来て、着物を分けてくれるという。


万年縞模様のツネにとっては願ったり叶ったりだが、つづら一つはさすがに多すぎると思い、それとなく断ろうかと押し問答していると、ヒコさんが戸口に立っていた。


手に紫陽花を持っている。


おきよさん、着物、分けてくれるんですかい?
あら、ヒコさん! 

そうなの、うちの旦那が着ていたものなんだけど、ツネさんにどうかと思ってねぇ

こんなにあげちまっていいんですかい?
いいのよ! 同じようなのばっかりだし、ヒコさんもよかったら貰ってちょうだいな!
そりゃあありがてぇ。長屋のみんなで分けちまってもいいですかい?
ああ! そうよね!! 

それがいいわ!!! 

じゃ、ヒコさんお願いできる?

へい、うまいことやっておきますよ
そうしてヒコさんはにこにこと面倒ごとを引き受け、大家のおきよさんは晴れ晴れとした顔で帰って行った。
つまりな、手っ取り早く片付けてぇってことだよ
なるほど
つづらいっぱいの男物の着物たちを前に、ツネはヒコがいてくれて助かったと思った。


あのままでは、ひとりで途方に暮れていただろう。

ほんじゃ、食堂に持っていこうかい
あ、うん、俺も手伝う
おお、ありがとな
うん、いや、こっちこそ、

ありがとう、ヒコさん



(つづく)




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登場人物紹介

ツネ。本が好きで、三日に一度、本を買っている。長屋暮らし。部屋の中はいつも本でいっぱい。

ヒコ。ツネと同じ長屋に暮らす。いつも洒落た着物を着ている。

おきよさん。長屋の大家。

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