第1話 家出

文字数 2,570文字

 やっちまった。

 小さな掌は赤くなり、初めて人の頬を叩いた衝撃に震えている。
 なによ、打つ方も痛いんじゃない……。
 よく叩かれるから、打つ方はそんなに痛くないのかと思っていたけれど、掌はいまだジンジンしている。
 母親違いの半分妹の頬を平手打ちしてしまった。
 妹は息をするのも忘れるぐらい驚き、目を見開く。覚醒し、それから大声で泣き出した。
 メイドたちが集まってくる前に、わたしはスタコラと屋敷から逃げ出した。


 ずっと我慢していたのに、どうして今日は我慢できなかったの?
 年齢を考えると出ていくには、まだ早いのに。
 まあ、やってしまったものは仕方ない。
 食事3日抜きに、殴られまくって、仕事量を増やされる。
 それで済めばいいけど、きっとそれ以上に罰せられる。
 もっと境遇が悪くなるだけ。
 屋敷を出て、森に入った。
 爺とアンにお別れを言えないのは悲しいけれど、ふたりに挨拶に行っていたら、見つかって罰せられるもの。
 わたしはいずれ出ていくことを想定して隠していた荷物を、木のウロから取り出す。
 捨てるよう渡されたカーテン生地で作ったカバンを、肩からかけた。鞄の中には、切れ味の悪いナイフと、必死で貯めた小銭と、着替えが入っている。
 これがわたしの全財産と思うと少なくて悲しくなるが、6歳の子供の体にはちょっぴり荷物の入った鞄でも重たかった。
 一度、古株のメイドのマーサに連れてきてもらったことがあるので、乗合馬車には迷わず乗れた。
 わたしひとりだったから首を傾げられたけど、お使いだと言えば乗っていいと言われた。小銭を払う。
 馬車が進むに連れて、早まったという思いがもたげてくる。

 街に行ったって、6歳のわたしを働かせてくれるところがあるとは思えない。それは何度も考え、そして働くことが許されお給金をもらうことのできる10歳まで、牢獄のような屋敷にいるしかないと結論づけていた。
 それなのにっ。どうして今日に限って我慢ができず、手を上げてしまったんだ……。

 わたしはメアリドール・メロネーゼ。6歳の伯爵令嬢だ。いや、たった今家を出たから、だったというのが正しい。
 前世を思い出すのが、お母様の生きている時だったらよかった。そうしたら、とっととお父様に見切りをつけて別れさせたのに。お母様が亡くなったのは今から1年ほど前だ。
 わたしの前世は、爵位のない時代だったし、魔法もないし、魔物もいなかった。物語やゲームに存在していただけだ。
 けれどそれらの知識がなくとも、お父様がわたしたちに愛情が薄いことはわかったし、縋りついても今後いいことはひとつもないと結論を出せただろう。
 でも時は戻らない。

 お母様が生きてらしたら、親戚に助けを求めることもできた。けれど、生きている時だって細い糸だった繋がりは、亡くなった時点でプツリと切れている。お母様が具合の悪い話などは知っていただろうけど、誰も手を差し伸べてくれなかった。お父様とお母様が結婚した時、お母様の親戚筋には反対されていて、それをフォローすることなく勝手に進めたみたいだから。自業自得なところもある。

 お父様はお母様より、お母様のバックの爵位だとか、財産が好きだった。最初から計画的だったのか、どこかでふたりの溝ができて、そこからこんなことになったのかはわからないけれど、お父様はお母様より愛する人ができた。わたしよりひとつ下の子ももうけていた。

 お母様が亡くなって1週間も経たないうちに、その愛人と子供は屋敷に乗り込んできた。
 その人はわたしと仲良くする気はないと言った。
 呼び方も、夫人と呼ぶようにと。
 お父様もわたしの目がお母様に似ていると言って、目につかないところにいろと言った。

 わたしがこの生の前の生を思い出したのは、お母様が亡くなり、継母と継子が家に乗り込んできて、その半分妹に突き飛ばされた時だ。
 お母様の形見の指輪を取られそうになり、必死で抵抗した。

「これはおかあさまのものよ! メロネーゼのじょせいしかもってはいけないの!」

 と憤った自分の言葉で覚醒した。
 メアリドール・メロネーゼ。
 乙女ゲーの、終盤前にトバッチリで死んじゃう、かろうじて名前のあるモブの女の子。選りに選って、そんな役どころの子に転生するなんて!
 その衝撃と、ひと人生分の記憶が流れ込んできて、わたしは意識を失った。あの時だけはさすがにまずいと思ったのか、わたしはベッドに寝かされ、指輪は戻ってきた。それから鎖に通して首にかけるようにしている。

 家の中の情勢を見極めると、働いていたほとんどの人たちは、わたしを無視するようになった。屋根裏部屋に追いやられて、メイドたちに混じって仕事をさせられた。
 古くから仕えてくれていた、年老いたメイドのマーサと、入ったばかりの優しい料理見習いのアン、庭師の爺がいなかったら、わたしの心はとっくに壊れていた。
 みんな貴族令嬢のためにできることは知らないが、わたしがこれから生きていくのにきっと支えになるだろうと、自分の仕事を惜しみなく教えてくれた。

 思い出してすぐの時から、こんな家出て行ってやるって思った。冷遇されたから。それに、17歳になったら、トバッチリで死んでしまう役どころだ。そんな人生わたしは嫌だ。だからその前に逃げ出そう。そう思った。
 でも6歳というとまだお給金は貰えないので、外で働くことは難しい。今出るのは得策ではない。職を手につけ、地道に働けるようになるまで、ここで我慢しなくちゃ。心の拠り所になるように、ここを出たら何をしようと夢見ながら、出ていくときのためのものを揃えていた。
 わたしの世話を焼いてくれるマーサは目の敵にされていた。それなのにマーサはわたしを切り捨てないでいてくれた。
 そのマーサがとうとう解雇されてしまった。
 しかもマーサが屋敷を離れるときに、わたしは用事を言いつけられて、外に出ていた。マーサに感謝を伝えることもできなかったのだ。

 そんなときに妹に絡まれた。
 いつものように耐え忍んで、頬を打たれればいい。
 そう思っていたのに。

「あんたなんかをかばうから、あのとしよりメイドはおいだされたのよ!」

 と言われたとき、生まれて初めて、人を叩いていた。
 これからどうしよう。
 馬車はそんなわたしの気持ちとは裏腹に、軽快に走っていく。
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