蛇足

文字数 3,204文字


 よく晴れた新月の夜。
 現在の時刻は八時を回ったあたりで――学生が外を出歩くには、少し遅い時間だと、一般的には認識されうる時間帯だった。
 そんな時間に、弱い蛍光灯が照らす道を一人の少女が走っていた。
 紺のセーラー服を着込んだその少女は、ぜえはあと息を荒げながら夜道を駆けている。
 腰まで届く茶髪は走る動きに伴って四方八方に暴れていて。それが邪魔だとでも感じたのか、彼女は走りながら出したゴム紐を使って、その長髪を首元で雑にまとめた。そして言う。
「もー! バカに付き合ってたら遅くなったっつーの! 怒られるじゃんか!」
 殆ど叫びに近い声量でそんな風にぼやきながら、彼女は足を止めなかった。呼吸が苦しい、喉が痛い、もう諦めようかな、ここまで遅くなったら変わらないって――そう思いながらも足は止めなかった。
 そうやって走っていると、やがて彼女の目の前に横断歩道が見えてきた。夜闇に光る緑の信号が目に痛いほど煌々と光っていた。
 その光を見て、自分の今居る位置を認識して、彼女が捕まらずになんとか行けるかな――と思ったところで、緑の光が点滅を始める。
「やっばい」
 ここの横断歩道は、一度赤になると再び緑になるまで時間がかかる場所だった。
 ……できればこのタイミングで渡ってしまいたい。
 そう思って、少女は足に力を込める。すると、ぐんと走る速度が増して、信号が点滅している間になんとか半分以上を渡りきったのだが、そのあたりで信号が赤へと変わってしまった。
 彼女が信号が切り替わった事実を認めて、やばいやばい早く渡り終わらないと、と思ったときだ。
「――――」
 横手から光が見えた。
 え? と疑問を思ったときにはもう遅かった。
 信号無視の車が突っ込んできたと理解したときには、車体はもうすぐそこまで来ていた。
 そして彼女が、これダメなやつだと諦めたときだ。
「――信号は無理して渡っちゃダメだろ。なあ、おい」
 声が聞こえて、ぐいっと腕を引っ張られる感覚があり。
 光が後ろを通過した。
「――は?」
 彼女の思考が回る。
 今何が起こったんだろう。今確実に死んだと思った。そうだ、死に掛けたんだ私。何が原因で? ――車だ。あれどこ行った? 行き過ぎた!? ふざけんな!
 思考がそこまで辿り着いたところで、彼女は道路の方に向き直る。
 しかし、既に件の車はその場を去った後であり――その事実に、彼女は憤慨した。
「むがぁああああ! あんのクソ車、何やってんだヘタクソ! おまえみたいなのが車に乗ってんじゃねー!」
 そして感情の赴くままに地団駄を踏みながら叫んでいると、彼女はくつくつと笑う声に気付く。続く動きでそっと後ろを振り向くと、黒ずくめの格好をした青年が自分を見て笑っているのが見えた。
「いや、君は本当に面白いな。それでこそ助ける甲斐もあるってもんだが」
 言われて、彼女は気付いた。そういえば、誰かが自分を助けてくれたのだと。
 そして今、自分の痴態を見られて笑われていたということにもようやく気がついて、彼女の顔がかあっと赤くなる。
 赤い顔のまま、ごほん、と彼女は咳払いをひとつ挟んで姿勢を正すと、青年の方へと向き直った。
 青年はそんな彼女を見てにやっと笑って言う。
「怪我はなさそうだな」
 彼女は青年の妙な気安さに戸惑いを覚えたけれど、彼は命の恩人なのだからと、やるべきことを優先させることにした。
 深く頭を下げて、お礼を言う。
「ありがとうございました。本当に、助かりました」
「ああ、無事でよかった。さっきも言ったが、急ぐ時こそ注意をすることだ。うっかり死んだら、やりたいこともやれないまま終わってしまうからな。
 ……なあ、お嬢さん。君には好きなことはあるかい?」
「へ? ……いや、まぁ、人並みには、ありますけど」
「そうか。――まぁ今後どうなるかはわからんが、それをやり続けるためにも注意は必要不可欠だ。どうやってもあっさり終わることもあるんだが、人事を尽くして天命を待てとも言うだろう? やるべきをやったと思えるかどうかで、最後の在り様は変わるものだよ。
 前の君はすばらしかった。今度もそう在れるといいがね」
「はぁ……?」
 彼女は青年が口にした言葉を理解しようとしてみたものの、うまく理解できずにそう言うしかなかった。妙に説教くさいことを言われているのだけは理解できたのだが、前の君とはいったいどういう意味だろう? と内心で首を傾げるしかない。
 青年は彼女が示した反応を見て、小さく肩を竦めた後で小さく笑って言った。
「すまんな。年をとると若いのに説教したくなっちまうんだよ。聞き流してくれ。
 ――ああ、そうは言っても、注意一瞬怪我一生ってのは本当のことだからな。さっきも危ない目に遭ったろう? よくないぞ、ああいうのは。気をつけろよ」
「はい、すいません」
 青年の言うことは正論だ。実際に注意を怠って死にかけたところを助けられた身である彼女は、その言葉に反論することはできなかった。素直に謝ることしかできなかった。
 普段なら反発してもおかしくない、いわゆる説教というものであるはずなのだが――彼女はなぜか、その青年の言うことを素直に受け止めることができた。
 ……これがいわゆる人徳というものなんだろうか? 見た目はただの怪しいお兄さんなんだけど――
 彼女がそう思ったタイミングで、青年は彼女の横を通り過ぎるように歩き出す。
 そしてちょうどすれ違う瞬間に、ぽんと軽く肩を叩かれて、
「がんばんな。折角助かったんだ、君がやりたいと思ったことにはどんどん挑戦していくといい。
 ――それは辛い道のりだろうが、楽しいぞ、きっと」
 かけられた言葉の内容に驚きを得て、通り過ぎた青年の姿を追うように背後を見たが、
「……え?」
 そこにはもう、青年の姿は影も形も残っていなかった。
 この道は広く無いが、狭いというほどのものでもない道であり――つまり隠れる場所などそうはない。
 それにも関わらず、彼女はどこにも青年の姿を見つけることができなかった。
 ぎくりとして、彼女はきょろきょろと周囲を見回したものの、やっぱり自分以外の人影を見つけることはできなかった。
「…………」
 彼女は驚きのあまり、そのまましばらく呆然と立ち尽くしていたが。
 突然、けたたましい音が鳴り響いてはっとした様子で意識を取り戻した。
 突如鳴り響いた音の音源は、彼女の制服のポケットに入れてあった携帯電話だった。彼女が開いて画面を見れば、ディスプレイには自宅という文字が表示されている。
 彼女はうげぇ、と嫌そうな顔をした後で、しぶしぶ通話ボタンを押して携帯を耳に当てると。
『――っ!!』
 受話口から、耳を左から右に突き抜けるような怒声が発された。
 彼女はすぐに受話口から耳を離す。きーんと高い音が頭の中で鳴っている。大分離したというのに、普通に声が聞こえてくるのはどういうことだ。どんだけ声出してんの。そう思いながら、送話口に顔を近づけて。
「もう、うるさいったら! すぐに帰るわよ! 今家のすぐ近くにある横断歩道のとこにいるの! 本当にもうすぐだから、切るよ!」
 送話口にお返しとばかりに大声でそう叫ぶと、すぐに通話を切った。
 直後に再び携帯電話が震え始めたが、相手はわかっているので出ない。面倒くさい。
 ポケットに携帯電話を入れてから、彼女は再び走り出す。
 消えた青年のことはなんだか妙に気に掛かったけれど、今は帰ることを優先するすることにしたのだった。
 ただ、なぜか。
「もう会うことはないんだろうけど」
 また会えたときは、あなたのおかげでこれが出来たと言えるようになっていたいと、無性にそう思う気持ちが止められなかった。



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