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文字数 2,313文字
――始まりは一年前。
よく晴れた新月の夜のことだった。
その日。
ある街の一角で、一人の少女が死んだ。
彼女は中学三年生の少女だった。腰までと届く茶の髪と、同色の瞳を備えた柔和な目が特徴的な、よく笑い、よく泣き、よく悲しみ、よく怒る――感情家で人当たりのいい子であり、歌うことが大好きだった。
彼女の死因は交通事故だった。
夜。帰宅途中の彼女が横断歩道を渡っている最中に、信号を無視して進入してきた自動車にはねられたのだ。
その車の運転手は酒を飲んでいたらしく、彼女に気付くのも遅れ、ブレーキを踏むことすら間に合わなかった。
彼女は事故が起こってすぐに病院に担ぎ込まれたけれど、すぐに息を引き取ることとなった。
あっけないと言えばあまりにもあっけなく訪れた死別に、彼女の家族や友人は悲しんでいた。
彼女の通夜が終わり、家族も寝静まった夜更け。
この日は新月で、彼女のいた街の上にある晴れた夜空はどこまでも暗かった。
その夜空の黒に、ぽつんと浮かぶひとつの靄があった。
靄はうごめき、やがてヒトの型を象り始める。
それには色も付いていた。
長い髪と瞳には茶を。肌には透き通るような白を。そして、身に纏わせたセーラー服には紺を。
胸元で結ばれたリボンには、鮮やかな赤があった。
しかし、その輪郭は曖昧にぼやけて、靄のままゆらめいている。
――幽霊。
その靄の塊は、そう呼ばれる類のものだった。
それは目を一度ゆっくりと閉じると、しばらくの間を置いて、その身体をびくりと跳ねるように震わせてから再び目を開く。
そして、何度かまばたきをした後で、上下左右に視線を巡らせて、
「……あれ?」
と、笑うように口元を引きつらせて歪めながら、小首を傾げるのだった。
●
彼女が夜空に浮かぶ視界を認めたとき、一番初めに浮かんだ感想は、
「すっげ、空飛んでる……つか浮かんでるよ私!」
であり、直後に自分の身体を眺めて、
「うお、体がなんかもやもやしてる!?」
と、叫ぶように呟いていたりもしていた。
まあそんな調子でひとしきり驚いた後、彼女は自分の記憶を掘り返し、
「なんだ、幽霊になったのか、私」
と妙にすんなり納得した。
一応、夢だったりしないかなぁ、なんて思ったりもしたようで、自分の家に降りてみたようだったけれど――壁がすり抜けられることとその感覚にちょっと驚いたりもしつつだ――寝ている家族の辛そうな、悲しそうな寝顔を見たから。
自分にこんなの想像できるわけないやと、納得する理由が増えただけのようだった。
彼女は生家でそれだけを確認した後で再び空に浮かび上がり、持て余した時間を使って、どうして幽霊になんてなったんだろうとぼんやり考え始めた。
――好きな人に告白できなかったから?
――夢を叶えたかったから?
――生きていたかったから? 死にたくなかったから?
――ああ、そういえば今月欲しい文庫の続編出るんだっけ。それかな?
次々とそれらしき理由が頭を過ぎったものの、その思考にはすぐ否定の言葉がついてきた。
――あれは好きというより憧れだったかなぁ。恋とか愛とか、そんなんじゃなかった気がする。
――ただ好きで、なれたらいいなとは思っていたけど、無理だろうって諦めてたじゃないか。
――そんな間際にどう思っていたかなんて覚えてないけど、多分違う。なんか妙な確信がある。
――そんなこと言い出したらキリがねー!
「…………」
浮かんだ否定は、自分でも本当にそう思っているものかどうか自信が持てないものもあったようだが。それと同時に、思い浮かんだ理由に確信をもって肯定できるものもまたなかったようだった。
そんな調子で、ひたすらぼーっと自問自答を続けていると――ふと、彼女は自分が歌を口ずさんでいることに気がついた。
それはただ節を紡いでいるときもあれば、何度もCMで聞いたフレーズを歌っているときもあった。
そんな自分の行いに気付いた彼女は、だんだんと歌うことに没頭し始める。
もはや誰にも届かない声で、だからこそと言うように、出来うる限りの大声で。
そうやってしばらく歌い続けていると、知っている歌も尽きてくる。
それでも歌い続けたいと思った彼女は、
……誰にも聞こえないならいいかなぁ。
そう思って、生きていた頃に一人でこそこそ隠れながら考えていた曲を歌うことにした。
その曲は、まだ殆どが節くらいしか出来ていなかった未完成品ばかりだったけれど。それでも、そのいくつかの中から楽しく歌えそうなものを選んで歌い始める。
届けばいいな、と思いながら。
誰に、とは考えないままで。
「――っ!」
そして、歌いながら彼女はこう思った。
ああ、自分は本当に歌うことが好きだったのかもなぁ、と。
続けてみて、歌手とか目指してみるのも面白かったかなぁ、と。
「……っ」
ここで初めて、彼女は死んでしまったことが惜しく思えて――悲しくなって、少し声を震わせてしまっていたものの、歌うことはやめなかった。
最後まで歌いきり、彼女は大きく息を吐く。
――すると、それを待っていたかのようなタイミングで、不意に乾いた音が響き始めた。
それは乾いた肉を叩く音で。
高く響くその音が拍手の音だと彼女が気付いたちょうどそのときに、彼女の耳に声が届いた。
「いやー、すごいね。思わず聞き入ったよ」
「え……?」
そして彼女が音源に顔を向けると、そこにはひとつの人影が自分と同じように空中に浮かんでいたのだった。