文字数 5,202文字


 先ほど響いた声は男のもので、声変わりを終えたのだろう低めの声音だった。
 だから、目の前に立っているそれは、おそらく青年と呼ぶべき年齢の誰かなのだろうと彼女は思う。
 彼は暗闇の空でもぽっかり浮かび上がって見えるような深い黒の外套を羽織り、フードを目深に被っていた。
 ただ、宙に浮かんでいる生身の人間らしきものが表情も体格も曖昧になるような格好をしていれば、不思議というより不気味な印象を受けるのが普通だろう。
 ゆえに、彼女も警戒心を抱いたと一目でわかる表情を作り、彼を見ていた。
 しかし彼は、彼女から向けられた訝しげな視線を気にする様子もなく、言葉を続ける。
「特に最後のが良かったかな。
 俺は音楽なんてよく判らないが――気持ちが強くこもっているのだけは判ったから、つい足を止めて聞き入ってしまったよ」
 そうして彼が口にしたのは、先ほどまで響いていた彼女の歌に対する称賛の言葉だった。
 彼の声音や所作のどこにも、敵対の意思や剣呑な雰囲気は見受けられなかったし、荒事を望んでいないことも明白だった。
 もしも彼にそんな気があったのだとしたら、わざわざ彼女に声をかけたりなどしないだろう。
 それは、彼女も十分に理解していることだった。
「……ありがとう、ございます」
 だが、彼女はかけられた言葉に曖昧な頷きを返しながら、お礼の言葉を口にしたものの――それでも、彼から距離を置くように身を引いて、彼の視線から自身を守るように浅く体を抱く動作が止められなかった。
 見知らぬ他人がいきなり気安く声をかけてきたのだから、そういう反応をしてしまうのも当然と言えば当然かもしれないが。
 このとき、彼女の頭の片隅に浮かんだ感情は不審者に対する警戒などという軽い感情ではなく――得体の知れない恐ろしい何かを前にしているとしか言いようが無い、かつて経験したことのないような濃い恐怖だった。
「…………」
 自分のことも含めた現状を鑑みれば、彼が尋常な存在でないことは確かだろうと、彼女は判断する。しかし同時に、それだけが原因でこれほどの恐怖を感じることはあるのだろううかと、そうも思うのだ。
 自分が彼を視界に入れていること、彼が自分の存在を認めていること――それ自体がとても恐ろしいことなのだとでも言うような、経験したことのない感覚に、彼女はひどく混乱していた。
 それからしばらくの間、二人はそのままの状態で黙っていたが。
「……ああ、混乱させているかな。君みたいな子と関わるのは久しぶりだから、うっかりしていた」
 不意に、彼が彼女の内心に気付いたかのようにそう言って、まるで何事かに嘆くような――多分に芝居がかった動作で、天を仰ぐように顔を上向けてから片手で顔を覆い、首を何度も横に振って見せた。
 彼が突然行った一連の動作を見て、彼女はへ? と一瞬呆気にとられて、
「……っ!?」
 一瞬前まで感じていた恐怖を全く感じなくなったことに気が付いた。
 だからこそと言うべきか。その変化をもたらしたであろう彼への警戒心が一気に膨んだようで、彼に向ける視線には一層強い警戒心が込められた。
 彼は、そんな見る側が疲れてしまうような警戒心の塊を前にして、おおっと驚いた後で、うははと笑う。
「いや、これは失敗したな。普通に考えれば、警戒するのが真っ当な反応だろうとはわかっているんだが。難しいものだ。
 少なくとも俺の方に君をどうこうするつもりはないんだ、と言われてもすぐに納得は出来ないよなぁ。
 ……まぁ何も説明しないで警戒を解いてくれというのも難しいだろうから、説明はしてみるが――」
 一息。彼は彼女から視線を外してあらぬ方向を見ると、考えるような間を一瞬挟んでから言う。
「端的に言えば、君が感じていた恐怖は、君が生きている間に知らなかった何かが見えてしまっていたから感じていたものだ。
 生きている人間であれば感じられないものだが、君は今、幽霊と呼ばれるものになっている。その状態では、肉体を持っていた頃とは違うものが見えたり、感じたりもするんだよ。
 俺も普段は生身の人間を相手にすることが多くてね。君みたいな状態の子と関わりを持つのは久しぶりなんだ。それでも、お互いのために、そういう部分は見えないように努めていたつもりだったんだが、ちょっと失敗していたというわけだな。
 ……うん? これじゃ特に説明になっていない気がするな。ちょっと待てよ。何を言うつもりだったっけ――」
 そうして、うんうんと唸り始めた彼を見て、彼女はぷっと吹き出した。
 くすくすと笑う彼女を見て、彼は反応に困ったようにフードの上から頭を掻く。
 ひとしきり笑った後で、彼女は彼を見ながら言う。
「もういいです。少なくとも、何か怖いことをしてくるわけじゃないということは、わかりました」
 彼女の言葉を聞いて、彼はそりゃあよかった、と頷いた。そして続く動きでフードを取ると、片手を彼女の前に差し出して、人の良さそうな笑顔を浮かべながら言う。
「はじめまして。よければ、君の名前を聞かせてもらえるかな?
 本当なら俺の方から名乗るべきなのかもしれないが、生憎と持ち合わせがなくてね」
「……持ち合わせがない、ってどういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ。昔から名前を持つ必要がない生き方をしているんだ。世捨て人とか、そんな生き方をしているんだと思ってくれればいい。
 ……そんなわけだが、この手は取ってもらえそうかな?」
「――あ。す、すいません」
 彼女はそう言われて、慌てた動きで差し出された彼の手をとった。そしてそのまま、彼の視線に促されるような形で口を開いて応じる。
「えっと。は、はじめまして。私の名前は――といいます」
「いい名前だね。よろしく」
「ど、どうも」
 そんな会話を交わしてから、握手をした手をゆらすようにしっかりと握り合うと、どちらからともなく二人は手を離した。
 それから少しの間を置いた後で、彼女は尋ねる。
「それで、その。……あなたは、いったい?」
 彼女の発した問いかけは、途切れ途切れで要領を得ないものだったけれど。彼はその点について特に気にした様子もなく、むしろ彼女の意図を確認するように聞き返した。
「それは、俺がどういう者かということを聞きたいのかな? それとも、俺がなんで君に話しかけたのか、という方だろうか」
「両方、です」
 彼女の即答に彼は小さく笑うと、しばらく考えるように腕を組んで首を傾げた後で話し始めた。
「では、まずは俺が何者かというところから話そう。
 色々な形で呼ばれることが多かったが――やはり通りがいいのは、魔法使いというやつだろうな。
 実態としては、ただの老害みたいなものなんだがね。随分と長く居続けてるだけの暇人、それが俺だ。
 こう見えて、実はこの現代で記録が残っているどの神様より長生きしてるんだ。すごいだろう?」
 彼はそう言ってにやりと笑ってみせたが、彼女はどう反応していいのかわからず困ったように笑うだけだった。
 彼女の反応を見て、彼は咳払いをしてから笑みを消し、巣子だけ間を置いてから話を再開する。
「……ん、失礼した。そんなことを言われても困るだけだよなぁ。悪かった。
 とりあえずは、長生きしている魔法使いという認識でいてもらえればいい。恐らく多少認識の違いは出てくるだろうが、それは大した問題ではないからな。
 さて、あとは――君になぜ話しかけたか、その理由だったね。
 これは、別に言って聞かせるほどの理由はないよ。偶然歌が聞こえた、その歌声を気に入ったから本人と話してみたくなった。それだけだ」
 言われた内容に、彼女はさらに反応に困ったように眉尻を下げながら言う。
「……なんだか、ナンパみたいですね、その言い方」
 彼女の反応に、彼はそうかもなぁ、と笑い。しばらくそのまま笑っていたが、やがて浮かべた笑みを消すと彼女に問いかけた。
「じゃあ、今度は俺の方から質問しよう。――これから君はどうするんだ?」
「……え? な、何ですか、急に」
 彼女は突然の問いかけに戸惑うことしかできなかった。
 彼は彼女の反応を他所に、言葉を続ける。
「幽霊ってのは、どうして生まれるか知ってるかい?
 その発生には魔法――と言うか、はっきりと語感でわかりやすい言葉を選ぶと、人身御供に近い仕組みが働いているわけなんだが。……そのあたりの細かい話は置いておこうか。本筋じゃないしな、うん。
 まぁなんだ、よく知られているように、未練が元になって幽霊は生まれるという表現は間違ったものじゃないんだ。
 どんな幽霊になるのかは、それこそ場合によって違うけれど。どういう仕組みで生まれるのか、何を元にして生まれるのか、という点は共通している。
 つまり何が言いたいかといえば――君には何か果たしておきたいと願う未練がある。だから幽霊になっている、ということだ。
 しかし、幽霊というのも意外と大変なものでな。そういうものを餌にして生きる化物――死神やらクリーチャーみたいなのが居てね、安穏とただ在り続けるのは存外難しい。むしろ、在り続けることを選択するのならば、普通に生きているよりも数倍の苦難が待ち構えているとさえ言える」
 彼女は彼の告げた内容を理解して、息を呑んだ。
 彼の言葉は、死んだ後にまた死ぬこともあるのだと、そう言っているようなものだからだった。
 そして彼は、彼女がそう思ったことをわかっているかのように――その思考を否定するかのようにゆっくりと首を横に振り、
「化物に殺されることと、運よく成仏することに大した違いはない。
 どんな形であれ、生まれたものはいずれ消えるという話でしかないからだ。それはどんなものにでも適用される。そこに違いがあるとすれば、辛く苦しいものか、そうでないかという程度だろうさ。
 ならば、ここにおいて重要なことは、それまでをどう過ごすのか、どういう終わりを迎えるのかの二点だけとなる」
 そこまで言ってから、彼女と視線の高さをあわせるように顔を近付けて続ける。
「だから、こうして聞いているのさ。君は何をするためにこの世に残るんだろうな、と。
 ……なぜ理由を聞くのかと気になるかな?
 その答えは簡単だ。折角出来た縁だから、可能な限り君の希望に沿うよう協力してあげようと思ってのことだ。
 ……ああ、なぜ協力するのかと、更に疑問を覚えることだろう。しかし、その理由は簡単だ。
 ただの暇潰し、それだけでしかない。
 もしかしたらこの理由が気に障るかもしれないが――何も知らないまま、一人で何かをし続けるよりはずっと楽だぞ。精々利用できるだけ利用するといい。
 だがね、俺が協力しようと思っていても、君が何かをするために俺を利用したいと思っても、何をするのかが明確になっていなければそれは叶わない。
 ――ゆえに、もう一度聞こう。君はこれからどうするんだと。君はこれから何がしたいのかと」
 いきなり現れた見ず知らずの――得体の知れない誰かにそんなことを言われたら、普通の人間は拒絶反応を示したことだろう。
 しかしこの状況において、彼女は彼の言葉を素直に受け入れることができた。
 それは、既に彼女も自身が尋常な存在でないことを理解していたから、というのも理由のひとつだったかもしれないが。
 なによりも、彼が真摯に――自分のことを気遣って話していることが感じられたからなのだろう。
 とは言え、彼の言葉を頭で理解はできたとしても、すぐに自らの抱いた未練を言葉に出来るわけもない。
「……そう言われても、私には、なんでこうなったのかなんて、わからないですよ」
 しばらくの間を置いてから、彼女は呟くようにそんな言葉を作ったものの、それを彼は否定した。
 それはどうかな、と。
「嘘を言ってるわけじゃ――!」
 彼から向けられた言葉に、彼女が反射的に顔をあげて言葉を言い切るより早く――その言葉を遮るように、彼は言った。
「君はその理由を既にわかっているよ。それは間違いない。
 だけどまぁ、それをすぐに言葉にしろというのは流石に酷だったな。これはこちらの失態だ。すまなかった。
 焦る必要はない。君は運良く、同じ境遇にある他のものよりも時間に余裕がある。だから落ち着いて考えて、思ったことを少しずつでもいいから口にしてみるといい。
 そうすることで、わかってくることもあるだろう」
 そう言って、彼は彼女に優しく笑いかける。
 あとは無言。
 彼は何も言わず、彼女は何も言えない――そんな状態がどれほど続いただろうか。
 やがて、彼女はゆっくりと口を開いて言った。
「私は――

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