出会えた機会
文字数 4,765文字
「こ、ここは……」
「起きたかい、立夏……」
「起きて初めて見る顔が中年男性の顔って、いい気分じゃないかも」
「そんな冗談を言えるってことは、もう身体の具合は大丈夫かな」
「うん」
立夏はどうやら数時間の間、気絶していたようであった。
外はもう真っ暗であった。暗く、漆黒の闇が町を覆っていた。
しかしその闇の中に、ぽつりぽつりと灯りが見える。
「中年男に夜空満天の星空か……プラスマイナスが相殺された、風情が0になってるよ」
「おい、それは僕のこと言ってるのかい?」
小さな少女、立夏。そんな小さな子供に罵詈雑言を吐かれて、なお笑っていられる中年の男は何者なのだろうと彼女は思った。いや、大人なのだから気持ちに余裕がなければ大人ではないのかとも思った。
「私の看病してくれてたの?」
「ん?ああ、ずっと心配だったぞ、立夏。よこで見守っていたよ」
「そう」
立夏は現在草むらに横になって、夜空満天の星空を首元まで覆う全身タイツの中年の男と一緒に眺める形となっている。この情景だけ切り取れば最悪であるが、しかし、この状況に至るまでこの男が立夏のことを看病・見守ってくれていたことを考えると、温かな優しさが確かにそこにはあった。
「ねえ、なんでそんな変てこな恰好してるの?しかも、日中はにゅーんとか変な声発してたし」
「はは、それはね立夏。小さなお姫様である君に面白可笑しく笑って欲しいからなんだよ」
「何それ、変なの」
立夏にその中年の男の気持ち、行動原理は分からない。
なんなら分かりたくもなく、気持ち悪いぐらいに思っていた。
しかし、なおも道化を演じ、さらんは今の今まで自身を見守ってくれていたその男を、心のそこから嫌いになることはできなかった。
「ねえ、もう1つ聞いていい?」
「ああ、いいよ」
「日中、バイオリンを弾いてだでしょ?私、あの曲知ってる気がするの」
「知っているとも、君は」
「私、何故かバイオリンを持った瞬間、何かを思い出したように無意識にバイオリンを弾いていた」
「君には才能があるからだよ」
「だけど、私の奏でる音色はまだ美しいとは思えなかった。まだ理想には、程遠いかな」
「伸びしろがあるってことだね、きっと」
立夏と中年の男は、星空の下で2人、空に吸い込まれるように仰向けになりながら日中の出来事の話を続ける。
「浮遊霊になった私。生前人を殺したらしい私。何を償えばいいのか分からない私。だけど、もし時間が許すのなら、その、私にバイオリンをもっと教えて貰えないかな?」
立夏はその男に、バイオリンを教えて貰えないか頼んだ。変てこで奇妙な男だけれど、あの音色の美しさは本物であった。
少し悔しさもあった。
だから……
「喜んで、コーチングさせてもらうよ、立夏」
「ほ、本当!?」
その中年の男は、可愛い小さなお姫様に、バイオリンのコーチを約束した。
「う、嬉しい!!や、やった!」
「ふふ。初めてそんな純粋な笑顔を僕に見せてくれたね」
「え、そんな顔、してた?」
「ああ。本当に、本当に、楽しそうな顔をしているよ、立夏……」
中年の男は立夏を優しく抱擁した。
立夏は内心、「やっぱりキモイ!」と心の中で思った。
しかし、同時に彼が涙を浮かべていることが分かった。
なぜこの男が良く泣くのか分からなかった。
なぜ自分を大事にしてくれるのか分からなかった。
少々大人に過度に愛情を受けると感じるこそばゆさと嫌悪感を感じた。しかし、数時間であるが看病してくれたその男に少し心が開けたような気がして、彼女はその気持ちを無下にすることはできなかった。
「立夏、もう少しの間、僕と一緒にいておくれ」
「まあ、許してあげる」
「ありがとう」
夜空に広がる満天の星空が、2人が包み込む。
悟という名前のその中年の男は、立夏としばらくの間、星の数を数えたり、星座を見つけてはくすくすと笑ったりを繰り返しながら、静かに夜が明けるまでを過ごしたのであった。
------------------------------------------------------------
「さて、じゃあバイオリンのコーチングを始めちゃうぞ、立夏ちゃん!!」
「どんとこい!!」
中年の男は立夏にバイオリンのコーチングを始めた。
「ん、ここが少し難しいかも」
「そこはこうすると上手くいくよ」
立夏はその男に優しくバイオリンのコーチングを受ける。男は優しく、しかし時に厳しく立夏に指導を続ける。
「ねえ、今更だけどさ、なんでそんなにバイオリン上手いの?」
「僕は生前、ずっとバイオリンのインストラクターをしてたんだ」
「へえ、だからそんなに上手いのね」
静かな公園に、バイオリンの優雅で美しい音色が響き渡る。浮遊霊の奏でるメロディー。もしもこの音色が生きている人間にも聞こえているとしたらホラーそのものであるとも立夏は思った。しかしそんな考えは直ぐに忘れて、その中年の男の奏でる音色に耳を傾けて練習に努める。
「もっともっと上手くなりたい」
「大丈夫、上手くなるよ」
「うん、頑張る!!」
その日、次の日、そして1ヶ月、月日が流れるのは早い。
中年の男は一緒に親身になりながら立夏にバイオリンを教える。
10月になった。
立夏は今日も中年の男と一緒にバイオリンを奏でる。2人は楽しそうに音楽を享受し、一緒に芸術を作り上げていく。
「ねえねえ、ちょっとさお願いがあるんだけど」
「お、いいぞ立夏。どうしたんだい?」
「ずっとこの公園にいるのはあれだからさ、ほら、私浮遊霊だけど、年頃の女の子じゃん。だから、ちょっと街中に行ってみたいというかさ」
「いいぞ、連れてってやる」
立夏は男に要望する。街中に行ってみたいと。
「じゃあ行ってみるか、立夏」
街は人で溢れかえるも、浮遊霊である2人の姿は誰にも見えない。
「べろべろばー、べろべろばー。見てみて、悟!この人私の事見えてないから、こんなことしても怒られないよ!えへ、べろべろばー」
「こら、立夏。僕たちが浮遊霊だからって、そんなことしちゃだめだよ、もう」
「ふふ、分かってるよ」
2人はだんだんと打ち解け合った。バイオリンを奏でては生きている年頃の女の子のように遊びに出掛けてはまたバイオリンを奏でる日々が続く。
1月になった。
「ねえねえみて悟!雪が降って来た。かまくらを作ろう、作ろう!!」
「お、いいな立夏。一緒に2人の入れる大きなおっきな、かまくら作りをしようか」
「うん!!」
4月になった。
「ねえねえ見て悟!可愛いお花が咲いてる。もう4月か、早いね」
「月日が流れるのは早いな立夏。小さなお姫様はもう立派なバイオリニストになってきたようだし、子供の成長は早いな」
「浮遊霊だから身体は成長しないけどね、悟!へへ」
「幽霊ならではのブラックジョークだな、立夏!」
立夏のバイオリンの上達速度は速く、段々と自身の理想の音に近づくようになっていた。それもこれも悟のおかげであった。
「ありがとう、悟!もっともっと上手になる、私」
「ああ、もっと上手くなれるぞ立夏。一緒に頑張ろうな」
「うん!」
そして8月になった。1年があっという間に過ぎてしまった。
浮遊霊になった2人を拘束するものは何もなかった。楽しい時間を過ごすと人は時間を短く感じる。立夏と悟も同じく、2人が歩んだ1年間はあっという間に感じてしまう程であった。
立夏がむくっと起きる。いつもの公園で。スタイリッシュ菩薩様に連れて来られ、そして中年の男である悟と出会ったその場所で。
初め立夏が悟と出会った時、気持ちの悪い変てこな男だと感じた。首元まで隠れたその全身タイツは、関わってはいけない人物リストに入れるべき変態そのものであった。
しかし立夏はその日、彼の奏でるバイオリンに魅了された。私も彼のように弾きたい、奏でたいとそんな風に思わせてくれた。
「むにゃむにゃ、うーん、よく寝たなあ、ってあれ、まだ夜中か。生活リズムが崩れちゃったかな、えへ」
立夏は悟と出会い、1年を過ごした。すっかり仲良しになった。バイオリンを優しく教えてくれる、好きな場所に連れていってくれる、そんな悟とはすっかり打ち解けあった関係となった。
時々鬱陶しい所は変わらず、やはりちょっと反抗期的に反発することもある立夏であるが、しかし優しい悟のことを信頼していることは変わらなかった。
だから今日も悟と一緒に、バイオリンを奏で……
「あれ、悟、そしてスタイリッシュ菩薩様?」
久しぶり、そう立夏は思った。初日、菩薩様にこの公園に立夏が連れてこられて以来、2人は1度として会っていなかった。なぜこのタイミングで。
「何でスタイリッシュ菩薩様がここに……しかも悟、その身体……」
悟の身体が淡く、ぼんやりした姿に変貌していたのだ。
「さ、悟!ど、どうしたの、その身体!!か、身体が、身体が!」
淡くぼんやりと霧のように薄れていく悟の身体。しかし、何故かその顔は嬉しそうに満足したような顔をしていたのだ。
「さあ、小さなお姫様。よく1年間頑張ったな、立夏。お前は立派なバイオリニストだ」
立夏は悟が消えてしまう、そう直感的に感じ取った。
「1年、そう期限は1年だった」
菩薩様が口を開いた。
「この悟という男が未練として残したのは、立夏、お前の成長を見届けることができなかったというものだ。1年前、この男とお前が死んだその日から、次のお盆の季節がやって来るこの日まで、その未練・悔恨を解放するため、お前に指導し続けたのだ」
「どういうことだよ、菩薩様!そんな急に言われても、分からないよ!」
立夏の成長を見届けることができなかったことが、悟の未練。その意味が分からずにいた。
「悟、悟!!消えちゃやだよ!!」
「立夏……」
「悟!」
悟が静かに口を開いた。
「よく、1年間頑張ったな。これでお母さんも喜ぶぞ。ああ、そうに違いない」
「どういうことだよ、分からないよ!!」
立夏は理解できない。悟の言葉全てが。
「僕は立夏の成長した姿を見れて嬉しい。1年で子供はこんなに成長するんだな」
「待って、消えないで悟、お願い、もっと、一緒にいたいよ、悟!!」
消える、悟が消えてしまう。
そう感じて立夏は悟に手を伸ばした。しかし、足元がおぼつかない立夏は転んでしまし、悟の首元の全身タイツの開口部に指を引っかけてしまった。
そして立夏が啞然と口を開き叫ぶ。
「な、なんだよこれ!!!」
悟の首元が露わになった。首元まで覆う変てこなタイツが破れて、肌が露出した。
しかし立夏はそれが本当に肌なのか最初疑ってしまった。
なぜなら……
「なんだよ、この縛られたみたいな縄の痕は!!」
ガチガチに縄に縛られたような痛々しい痕が悟の首元に刻まれていた。
縄の痕が首に刻印されている。
痛そうな縛られた苦しそうな痕が悟の首元に刻まれている。
「立夏、よく聞くんだ」
悟が消えそうなその身体を立夏に近づけて、そっと頭を撫でてあげた。
「よく頑張った。僕は嬉しい、立夏の成長を、1年間だけれども、見届けられて。本当に幸せだよ。お母さんも喜ぶに違いない。いや、絶対に喜ぶ、立夏のこの姿を見て。よく頑張った。そしてよく僕にこんな立派な姿を見せてくれた」
「悟……」
「……これで、僕は、立夏を、少しでも幸せに、してあげられたか、な……」
悟はまだ薄暗い夜空を背に預け、1人笑顔を崩さずに旅立っていった。
立夏は泣き崩れてしまい、悟の残したバイオリンを握り締めて歯を食いしばった。
「どういうことだよ、菩薩様!」
「まだお前の償いは終わっていない」
「これ以上、私にどんな苦痛を与えれば気が済むんだよ!!」
立夏は思い出す。
母の名は恵。
お兄ちゃんの名前は湊。
そして顔も思い出せずにいたお父さんの名前は、そう……
「悟、いや、お父さん……」
「起きたかい、立夏……」
「起きて初めて見る顔が中年男性の顔って、いい気分じゃないかも」
「そんな冗談を言えるってことは、もう身体の具合は大丈夫かな」
「うん」
立夏はどうやら数時間の間、気絶していたようであった。
外はもう真っ暗であった。暗く、漆黒の闇が町を覆っていた。
しかしその闇の中に、ぽつりぽつりと灯りが見える。
「中年男に夜空満天の星空か……プラスマイナスが相殺された、風情が0になってるよ」
「おい、それは僕のこと言ってるのかい?」
小さな少女、立夏。そんな小さな子供に罵詈雑言を吐かれて、なお笑っていられる中年の男は何者なのだろうと彼女は思った。いや、大人なのだから気持ちに余裕がなければ大人ではないのかとも思った。
「私の看病してくれてたの?」
「ん?ああ、ずっと心配だったぞ、立夏。よこで見守っていたよ」
「そう」
立夏は現在草むらに横になって、夜空満天の星空を首元まで覆う全身タイツの中年の男と一緒に眺める形となっている。この情景だけ切り取れば最悪であるが、しかし、この状況に至るまでこの男が立夏のことを看病・見守ってくれていたことを考えると、温かな優しさが確かにそこにはあった。
「ねえ、なんでそんな変てこな恰好してるの?しかも、日中はにゅーんとか変な声発してたし」
「はは、それはね立夏。小さなお姫様である君に面白可笑しく笑って欲しいからなんだよ」
「何それ、変なの」
立夏にその中年の男の気持ち、行動原理は分からない。
なんなら分かりたくもなく、気持ち悪いぐらいに思っていた。
しかし、なおも道化を演じ、さらんは今の今まで自身を見守ってくれていたその男を、心のそこから嫌いになることはできなかった。
「ねえ、もう1つ聞いていい?」
「ああ、いいよ」
「日中、バイオリンを弾いてだでしょ?私、あの曲知ってる気がするの」
「知っているとも、君は」
「私、何故かバイオリンを持った瞬間、何かを思い出したように無意識にバイオリンを弾いていた」
「君には才能があるからだよ」
「だけど、私の奏でる音色はまだ美しいとは思えなかった。まだ理想には、程遠いかな」
「伸びしろがあるってことだね、きっと」
立夏と中年の男は、星空の下で2人、空に吸い込まれるように仰向けになりながら日中の出来事の話を続ける。
「浮遊霊になった私。生前人を殺したらしい私。何を償えばいいのか分からない私。だけど、もし時間が許すのなら、その、私にバイオリンをもっと教えて貰えないかな?」
立夏はその男に、バイオリンを教えて貰えないか頼んだ。変てこで奇妙な男だけれど、あの音色の美しさは本物であった。
少し悔しさもあった。
だから……
「喜んで、コーチングさせてもらうよ、立夏」
「ほ、本当!?」
その中年の男は、可愛い小さなお姫様に、バイオリンのコーチを約束した。
「う、嬉しい!!や、やった!」
「ふふ。初めてそんな純粋な笑顔を僕に見せてくれたね」
「え、そんな顔、してた?」
「ああ。本当に、本当に、楽しそうな顔をしているよ、立夏……」
中年の男は立夏を優しく抱擁した。
立夏は内心、「やっぱりキモイ!」と心の中で思った。
しかし、同時に彼が涙を浮かべていることが分かった。
なぜこの男が良く泣くのか分からなかった。
なぜ自分を大事にしてくれるのか分からなかった。
少々大人に過度に愛情を受けると感じるこそばゆさと嫌悪感を感じた。しかし、数時間であるが看病してくれたその男に少し心が開けたような気がして、彼女はその気持ちを無下にすることはできなかった。
「立夏、もう少しの間、僕と一緒にいておくれ」
「まあ、許してあげる」
「ありがとう」
夜空に広がる満天の星空が、2人が包み込む。
悟という名前のその中年の男は、立夏としばらくの間、星の数を数えたり、星座を見つけてはくすくすと笑ったりを繰り返しながら、静かに夜が明けるまでを過ごしたのであった。
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「さて、じゃあバイオリンのコーチングを始めちゃうぞ、立夏ちゃん!!」
「どんとこい!!」
中年の男は立夏にバイオリンのコーチングを始めた。
「ん、ここが少し難しいかも」
「そこはこうすると上手くいくよ」
立夏はその男に優しくバイオリンのコーチングを受ける。男は優しく、しかし時に厳しく立夏に指導を続ける。
「ねえ、今更だけどさ、なんでそんなにバイオリン上手いの?」
「僕は生前、ずっとバイオリンのインストラクターをしてたんだ」
「へえ、だからそんなに上手いのね」
静かな公園に、バイオリンの優雅で美しい音色が響き渡る。浮遊霊の奏でるメロディー。もしもこの音色が生きている人間にも聞こえているとしたらホラーそのものであるとも立夏は思った。しかしそんな考えは直ぐに忘れて、その中年の男の奏でる音色に耳を傾けて練習に努める。
「もっともっと上手くなりたい」
「大丈夫、上手くなるよ」
「うん、頑張る!!」
その日、次の日、そして1ヶ月、月日が流れるのは早い。
中年の男は一緒に親身になりながら立夏にバイオリンを教える。
10月になった。
立夏は今日も中年の男と一緒にバイオリンを奏でる。2人は楽しそうに音楽を享受し、一緒に芸術を作り上げていく。
「ねえねえ、ちょっとさお願いがあるんだけど」
「お、いいぞ立夏。どうしたんだい?」
「ずっとこの公園にいるのはあれだからさ、ほら、私浮遊霊だけど、年頃の女の子じゃん。だから、ちょっと街中に行ってみたいというかさ」
「いいぞ、連れてってやる」
立夏は男に要望する。街中に行ってみたいと。
「じゃあ行ってみるか、立夏」
街は人で溢れかえるも、浮遊霊である2人の姿は誰にも見えない。
「べろべろばー、べろべろばー。見てみて、悟!この人私の事見えてないから、こんなことしても怒られないよ!えへ、べろべろばー」
「こら、立夏。僕たちが浮遊霊だからって、そんなことしちゃだめだよ、もう」
「ふふ、分かってるよ」
2人はだんだんと打ち解け合った。バイオリンを奏でては生きている年頃の女の子のように遊びに出掛けてはまたバイオリンを奏でる日々が続く。
1月になった。
「ねえねえみて悟!雪が降って来た。かまくらを作ろう、作ろう!!」
「お、いいな立夏。一緒に2人の入れる大きなおっきな、かまくら作りをしようか」
「うん!!」
4月になった。
「ねえねえ見て悟!可愛いお花が咲いてる。もう4月か、早いね」
「月日が流れるのは早いな立夏。小さなお姫様はもう立派なバイオリニストになってきたようだし、子供の成長は早いな」
「浮遊霊だから身体は成長しないけどね、悟!へへ」
「幽霊ならではのブラックジョークだな、立夏!」
立夏のバイオリンの上達速度は速く、段々と自身の理想の音に近づくようになっていた。それもこれも悟のおかげであった。
「ありがとう、悟!もっともっと上手になる、私」
「ああ、もっと上手くなれるぞ立夏。一緒に頑張ろうな」
「うん!」
そして8月になった。1年があっという間に過ぎてしまった。
浮遊霊になった2人を拘束するものは何もなかった。楽しい時間を過ごすと人は時間を短く感じる。立夏と悟も同じく、2人が歩んだ1年間はあっという間に感じてしまう程であった。
立夏がむくっと起きる。いつもの公園で。スタイリッシュ菩薩様に連れて来られ、そして中年の男である悟と出会ったその場所で。
初め立夏が悟と出会った時、気持ちの悪い変てこな男だと感じた。首元まで隠れたその全身タイツは、関わってはいけない人物リストに入れるべき変態そのものであった。
しかし立夏はその日、彼の奏でるバイオリンに魅了された。私も彼のように弾きたい、奏でたいとそんな風に思わせてくれた。
「むにゃむにゃ、うーん、よく寝たなあ、ってあれ、まだ夜中か。生活リズムが崩れちゃったかな、えへ」
立夏は悟と出会い、1年を過ごした。すっかり仲良しになった。バイオリンを優しく教えてくれる、好きな場所に連れていってくれる、そんな悟とはすっかり打ち解けあった関係となった。
時々鬱陶しい所は変わらず、やはりちょっと反抗期的に反発することもある立夏であるが、しかし優しい悟のことを信頼していることは変わらなかった。
だから今日も悟と一緒に、バイオリンを奏で……
「あれ、悟、そしてスタイリッシュ菩薩様?」
久しぶり、そう立夏は思った。初日、菩薩様にこの公園に立夏が連れてこられて以来、2人は1度として会っていなかった。なぜこのタイミングで。
「何でスタイリッシュ菩薩様がここに……しかも悟、その身体……」
悟の身体が淡く、ぼんやりした姿に変貌していたのだ。
「さ、悟!ど、どうしたの、その身体!!か、身体が、身体が!」
淡くぼんやりと霧のように薄れていく悟の身体。しかし、何故かその顔は嬉しそうに満足したような顔をしていたのだ。
「さあ、小さなお姫様。よく1年間頑張ったな、立夏。お前は立派なバイオリニストだ」
立夏は悟が消えてしまう、そう直感的に感じ取った。
「1年、そう期限は1年だった」
菩薩様が口を開いた。
「この悟という男が未練として残したのは、立夏、お前の成長を見届けることができなかったというものだ。1年前、この男とお前が死んだその日から、次のお盆の季節がやって来るこの日まで、その未練・悔恨を解放するため、お前に指導し続けたのだ」
「どういうことだよ、菩薩様!そんな急に言われても、分からないよ!」
立夏の成長を見届けることができなかったことが、悟の未練。その意味が分からずにいた。
「悟、悟!!消えちゃやだよ!!」
「立夏……」
「悟!」
悟が静かに口を開いた。
「よく、1年間頑張ったな。これでお母さんも喜ぶぞ。ああ、そうに違いない」
「どういうことだよ、分からないよ!!」
立夏は理解できない。悟の言葉全てが。
「僕は立夏の成長した姿を見れて嬉しい。1年で子供はこんなに成長するんだな」
「待って、消えないで悟、お願い、もっと、一緒にいたいよ、悟!!」
消える、悟が消えてしまう。
そう感じて立夏は悟に手を伸ばした。しかし、足元がおぼつかない立夏は転んでしまし、悟の首元の全身タイツの開口部に指を引っかけてしまった。
そして立夏が啞然と口を開き叫ぶ。
「な、なんだよこれ!!!」
悟の首元が露わになった。首元まで覆う変てこなタイツが破れて、肌が露出した。
しかし立夏はそれが本当に肌なのか最初疑ってしまった。
なぜなら……
「なんだよ、この縛られたみたいな縄の痕は!!」
ガチガチに縄に縛られたような痛々しい痕が悟の首元に刻まれていた。
縄の痕が首に刻印されている。
痛そうな縛られた苦しそうな痕が悟の首元に刻まれている。
「立夏、よく聞くんだ」
悟が消えそうなその身体を立夏に近づけて、そっと頭を撫でてあげた。
「よく頑張った。僕は嬉しい、立夏の成長を、1年間だけれども、見届けられて。本当に幸せだよ。お母さんも喜ぶに違いない。いや、絶対に喜ぶ、立夏のこの姿を見て。よく頑張った。そしてよく僕にこんな立派な姿を見せてくれた」
「悟……」
「……これで、僕は、立夏を、少しでも幸せに、してあげられたか、な……」
悟はまだ薄暗い夜空を背に預け、1人笑顔を崩さずに旅立っていった。
立夏は泣き崩れてしまい、悟の残したバイオリンを握り締めて歯を食いしばった。
「どういうことだよ、菩薩様!」
「まだお前の償いは終わっていない」
「これ以上、私にどんな苦痛を与えれば気が済むんだよ!!」
立夏は思い出す。
母の名は恵。
お兄ちゃんの名前は湊。
そして顔も思い出せずにいたお父さんの名前は、そう……
「悟、いや、お父さん……」