一人の画家の場合

文字数 2,988文字

 なかなか自分で納得のいく絵が描けなくなってかれこれ三年程経つだろうか。と言っても、私はもう今年で七十二になる老画家だ。これから世界をあっと言わせる絵を描いてやろうなんて大それたことはこれっぽっちも思っていない。だが自分で見ても、なんだかぱっとしない絵しか描けないとなるとやるせない気持ちになるのだ。私が何か天才的な才能を持っているかと言えば、そんなことは無いが企業のデザイナーをやったり、自分の画廊を開いたり、まぁぼちぼちとやってなんとか絵やデザインだけで食べてこれたのだから運は良い方なのかもしれない。
 しかし大学を出て直ぐの頃は、どんな絵を描いて良いか分からず色々描いてみたとて、なんともつまらない絵しか描けなかった。そんな自分で見てもつまらない絵を誰かが買ってくれる訳もなく何度もサラリーマンになってしまおうかと思ったが、それにも踏み切れずアルバイトで生計を立てていた。そんな私に転機が訪れたのは大学を出てから十年以上も経ってからだった。母親が還暦を迎え、その祝いに国内でちょっとした小旅行をすることになった。その時行ったとある寺の池にとっても大きな色鮮やかな鯉がいた。私は珍しくこの鯉の絵が描きたくなった。そして旅行中にも関わらず母親をほったらかして鯉の絵を描いた。自分でも驚くような生命力に溢れた絵が出来上がった。そして私はそれ以来、魚の絵ばかり描いた。
 その内に何枚かの魚の絵も売れ、魚関連の商品パッケージや魚屋さんの看板など、とにかく魚に関する絵を描けば良い絵が描けたし仕事にもありつけた。マグロの群れを描いた絵は私の作品としては最高額の三百万円で売れた。魚の絵ばかり集めた画集も出版し、それなりの部数が発行された。ついには商品パッケージの仕事で知り合ったキンメダイみたいな妻とも結婚もした。そして来る日も来る日も魚の絵を描き続け、これまでに描いた魚の絵は実に四千枚を数えるまでになった。そして気付けば七十を過ぎていた。
 そしてその後はほとんど魚の絵を描いていない。と言うより絵自体を描いていない。それと言うのも、六十八ぐらいの時に描いた巨大なイトウの絵が恐ろしい程の出来栄えだったのだが、それ以来どんな絵を描いても、あのイトウの絵に比べると何ともつまらない絵に見えてしまうのだ。私には絵を描く以外に特に趣味も無いのでこのままではボケてしまうのではないかと思い、何かしらの絵でも描こうと思ったのだがこのイトウの絵をいつまでも持っていては他の絵が描けないと思ったので、名残惜しい気持ちもあったが売ることにした。そして魚以外の絵を描くことにしたのだ。
 ところが、いざ描こうとすると大学を出た直後の様に、どんな絵を描いて良いか全く分からなかった。何せ四十年もの間、魚の絵以外の絵はただの一枚も描いていなかったのだから。私はなんだかよく分からない内に、タコやイカの絵を描いたり、その内に切り身や刺身の絵を描いたりした。もちろんそれが駄目ということでも無いが何を描いていてもいまいち面白くなかった。私が悶々としているのを見て「この際、絵を描くことに拘らなくてもいいんじゃないの」と妻が言った。確かに私は元々、天才的に絵がうまい訳でもないのだし、もう年も年なのだからそんなに躍起になって絵を描かなくても良いのだ。私は妻の言う通りに野菜を植えてみたり、公園で散歩をしたりしてみた。
 そんな折、公園で一生懸命に絵を描いているニジマスみたいな女の子と出会った。初めは若い女の子と話がしたいという下心で絵を見たのだが、その絵を見て私は不思議な気持ちになった。その娘の絵は特別上手という訳では無いのだが、なんだか温かみがあって見ていたくなる絵だった。そこで私もその娘が描いている大きな木を描いてみることにした。次の日曜日には、もう一人知らない爺さんが傍で絵を描きだした。そのまた次の日曜日にはこれまた知らないおばさんが横で絵を描きだした。私もプロの端くれなので、皆私の絵を褒めてくれたが、自分としてはどうもピンと来ずニジマス少女の絵には何があるのか考えていた。
ところでシマアジみたいなおばさんとニジマスはともかくとして、もう一人の爺さんの描く絵と来たら、はっきり言ってそれが風景なのか人物なのか、食べ残しなのか分からないような代物だった。しかし私は公園で三人と一緒に絵を描くのが少しずつ楽しくなってきた。そんな矢先、とんとニジマスが公園に来なくなった。ニジマスがいないとなると私は突然面白くなくなった。そうなると私の描く絵の方もまるで悪くなった魚のようによけいに泥臭くなった。しかも、もちろんおばさんも爺さんもニジマスが何故来なくなったのかは知らなかった。
 それからしばらくして例のイトウの絵が売れた。買ったのは近所でレストランをやっているオーナーとかで、私はあの絵がお気に入りだったこともあって、それを見る為がてら一度その店に行ってみた。あの絵は店内に飾ってあったので私はそれが良く見える場所に座って、焼き魚定食を食べながら暇つぶしに店の主人と絵の事を含めいろいろと話をした。この店の主人と来たら、なんともつかみどころのない、ウナギみたいな男で、「何故レストランを始めたか」と聞けば「流れ上そうなった」。「お店のこだわりは」と聞けば「特に無い」。あの絵を買った理由は「何となく良かった」と来たもんだ。私は横で手伝っている主人の奥さんらしい女性を見つけたので、ちょっと意地悪だが「じゃあ、その奥さんとも何となく良かったから結婚したのかい」と聞くと「そうそう、その通りですよ」とやられた。しかしどうにも憎めない男で私もこの男が「何となく気に入った」ので、ちょくちょく魚の絵を見に来がてらここに来るようになった。
 しかし問題はニジマスが公園に来ないことだ。おばさんやら爺さんなんぞの描く絵など、大して見る気にもならないので、私は暇になると決まって例のレストランで魚を見ながらウナギ店長と話をしていた。するとある日とてもうれしい話を聞くことになった。店長が言うには、一人の女の子が来て突然どうしても私の描いた魚の絵が欲しいと言って成行き上この店で働くことになり、いつかその女の子がこの魚に代わる絵を持って来たら譲るという約束をしたという。私はそんなに自分の絵が欲しいと言ってくれる人がいることが嬉しかった。私は店長に聞いた。「それはニジマスみたいな女の子じゃないかね」すると店長が答えた「ううん、ニジマスというよりはサクラマスかな」。理由は無いが私はそれがニジマスだと確信した。次の日曜日久しぶりに公園に行くと、やはりニジマスが絵を描いていた。この日ニジマスが描いている木の絵は今までで一番良い絵に見えた。そして絵を描くニジマスの顔もとても輝いて見えた。
 私は木の絵をかくニジマスの絵を描くことにした。その日は珍しくキンメダイみたいな妻も一緒で、彼女は私の描くニジマスの絵を見て「あら、とっても良いじゃない」と言った。私は嬉しくなった。そして気付けば妻もとても輝いて見えた。そしてシマアジおばさんも、めちゃくちゃな絵を描く爺さんも皆輝いて見えてきた。私はニジマスみたいな少女とキンメダイみたいな妻とシマアジみたいなおばさんとオキアミみたいな爺さんの絵を描くことにした。
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