文字数 1,972文字

 大都会の片隅にある総菜屋、一人の青年がもくもくと、とうきびをむしっている。惣菜のコーンサラダに入れるためのとうきびである。「健太君、今日も真面目に働いてるわね」奥から来た店のお上さんが声をかけた。「はい、僕にはこれくらいしかできませんから」健太と呼ばれた青年はとうきびから目も逸らさずに答えた。実際、この青年にはこのくらいのことしか出来ないのであるが、この作業に関して言えば、むしろこの青年にしかできなかった。
 彼は小学生の頃から通知表では3が取れれば上出来で、大半が1と2という具合であった。かといって運動も得意では無かった、というより運動しようという考えがこの青年には無かったと言った方が正しいかもしれない。しかし両親は彼を不出来な子供などとは思わなかったし、素直で真面目ないい子だと思っていた。しかし社会は、彼に対してそれ程甘くは無く、なかなか定職にも就けなかった。そんな彼にとって偶然近所で始めたこの、とうきびむしりのアルバイトは正に天職であった。
 それは朝から晩までただひたすらとうきびをむしるというだけの仕事である。普通の人なら一週間も続けば奇跡で、今までにも何十人という人間がとっかえひっかえ始めては辞めていった。ところが彼はもう半年もの間、一日も休まず小言一つ言わず、とうきびをむしっている。しかも専門的に言えばこの工程がこの惣菜屋のネック工程であり彼がとうきびをむしればむしる程、出来高が増えるとうい状況であった。その為、店の主人にとっても彼は願ってもいない逸材であった。
 健太には趣味も特に無かったが、アオミドリという名の亀を飼っており、とにかくこれを大事に育てていた。彼のささやかな夢は何処かでアオミドリの奥さんを見つけることぐらいだった。ところがアルバイトを始めて八ヶ月が過ぎた頃、彼にもう一つささやかな幸運がやってきた。彼と同い年の女の子がイカに切り目を入れるアルバイトにやってきたのだ。彼女は果穂といった。お世辞にも美人とは言えない彼女だったが、健太には一生懸命に切り目を入れている彼女がとても可愛かった。それから二月が過ぎ果穂もイカの切り目入れにも慣れ、今はシイタケにも十字の切り目を入れていた。ただ健太も果穂も人見知りで二人の間には挨拶程度の会話しかなかった。しかし健太にとって同じ机の上でこうやって果穂と一緒に仕事が出来ることが何よりも幸せだった。
 そんなある朝、お上さんが健太を事務所に呼んだ。健太は内心早く作業場に行って果穂に「お早う」と彼らの間の数少ない挨拶を交わしたかった。しかし彼に待っていたのは、そんな彼の小さな幸せを壊してしまうものだった。「健太君、実はね今度とうきびをカットする機械を買うことにしたの。それだとね維持費が一月に千円なの。だから、その、申し訳ないんだけど、健太君、仕事辞めてもらいたいの」お上さんは、なんとも言いにくそうにもごもごしながら言った。「え、あの、ぼ、僕おかず摘めるだけでも、えっと、洗物でもやりますので」健太の答えを遮る様にお上さんは言った「ご、ごめんね、今ウチも結構きつくてアルバイトも今の人数でギリギリなのよ。健太君にはずっと働いて貰ってたのに、本当、ごめんね」「そうですか。わかりました」健太は答えた。それから機械が来るまでの一週間だけ健太はこれまで通りとうきびをむしり続けた。
 健太には今の仕事が出来なくなるよりも果穂に会えなくなることが特に辛かった。一週間後、健太は「ありがとうございました」とだけ挨拶し出て行った。本当は果穂に言うことを前の日の夜に一生懸命考えていたが、良い言葉も思いつかなかったし、何も言えなかった。ラインのIDなんて知らないし、電話番号なんて知っている訳もなかった。ただ知っているのは彼女が「かほちゃん」だということだけだった。実際、健太は彼女の名字だって知らなかった。健太はただ一人とぼとぼと家に帰ってアオミドリにエサをやりながら話しかけた。「もう、かほちゃんに会えなくなっちゃったよ。それに仕事も無くなっちゃった。でもお前にエサも買ってやらないといけないし、また何か捜さなくっちゃ」。両親は彼のことを思い「まぁ、ちょっとくらい休めば」と言っていたが、健太は家でじっとしていると果穂のことを思い出すので翌日から気晴らしも兼ねアルバイトを探しに行った。極度の人見知りの健太にとってはコンビニの店員は難しかったし、スーパーのレジ打ちもレジの打ち方を覚えるのが無理だったので出来なかった。とうきびむしりは彼にとって正に天職だったのだ。一度、駐車場の管理人をやったことがあったが、酔っ払いに喧嘩を売られ、買ってもいないのに揉め事になり直ぐにやめた。これといって良いアルバイトも見つからずその日は家に帰ってアオミドリにエサをやった。
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