第51話 北海道採集行:エピローグ

文字数 7,198文字


 俺たちが北海道で虫取りにいそしんでいた頃。
 南日本は台風の直撃を受けていた。もし、当初の予定通り西表島へ向かっていたら、飛行機は飛ばなかったかも知れないし、飛んでいたとしても嵐の中のキャンプに耐えられず、民宿に無理を言って逃げ込むしかなかったかも知れない。
 むろん、そんなことになれば、まったく虫取りなどは出来ない。
 チョウも蛾も飛ばないし、クワガタも見つからない。ただの雨だというなら、釣りとか両生爬虫類の観察とか、海の浅場で生きもの観察も出来たかも知れないが、台風となると、山林や海辺に近づくだけでも危ないわけで、たぶん何にも出来ずに一日中飲んだくれていたことであろう。
 一日中飲んだくれる……それはそれで俺にとっては楽しみなことではあるが、何十万も掛けて旅行してまでやることではなかろう。
 しかもこの台風、念入りにも日本を南西から北東へと縦断してくれたわけだが、速度が非常にゆっくりであった。
 まるで妻と娘が帰る便を待つように停滞し、翌日俺たちが帰る便の前には通り抜けていたのである。
 台風の間隙を縫って飛んだくせに、ほとんど揺れなかったのも不思議であった。
 これは妻の予知能力なのか、俺の晴れ男としての力なのか、はたまた息子の強運のせいなのかと思ってみたが、もしかすると、娘のパワーも大きかったかも知れない。

 娘は幼少時から芸人気質で、一人でも大声で歌うし踊る。
 また、ちょっとした会話でもウケをとらずにいられない。しかも、妻から女王様気質も受け継いでいるという、めんどくさい中学生だった。
 親の欲目ではあるが、すらっとした美少女なのでそのギャップに右往左往している男子も数多いとは思うが、そんな話は家では一切しない。
 この娘は、なんというか神様に愛されているところがあって、なにかと運がいい。
 作文などの出来は、息子と大して変わらない様に思うのだが、表彰されている数は圧倒的に娘の方が多い。日本語能力でいえば、これはもう息子の方が確実に上で、簡潔に確実に要点を分かりやすく伝える、という作業をさせると、大きな差が出る。
 そういえば、三日目の車中でこんなことがあった。
 娘が後部座席からいきなり「『トゥーランドット』って知ってる?」と言い出したのである。
 その日まで、我々が観光地にも行かず昆虫採集ばかりしていたので、よほどヒマだったのだろう。ずっとふて腐れて後部座席から動かなかったのだが、ようやく観光地へ向かおうとする車中で、元気を取り戻したように口を開いたのだ。
 『トゥーランドット』というのは、最近、娘が吹奏楽部の演目で弾いたかなにかで教わった、オペラで使われている曲のことであった。
 俺たちが知らない、と答えると得意そうにあらすじを語り出した。
「トゥーランドットはね、中国のすんごい美人の名前なの」
「何? 中国人にしちゃ変な名前だな」
「絶対変だ。シュウとかウォンとかだろ常考」
 俺も息子もまともに聞く気が無いわけでは無いが、こういう小さな点にどうしても引っかかる。そして、それが娘はいたく気に障る様子。
「だまれ。で、トゥーランドットは美人だったので、結婚相手を探していたんだけれど、問題を出して答えられたら結婚するけど、答えられなかったら殺すってことにしてたの」
「そんな理不尽な。そいつに好かれたら終わりじゃねえか」
「怖え」
「だまれって。で、その問題は三つあったの。まず一番。夜にやってくるのは? 答えてみて」
「泥棒?」
「サンタ?」
「違う!! 『希望』!!
「なんだそれ。ワケわかんね」
「ああ。サッパリ分からん」
「二番。火じゃないのに燃え上がるのは?」
「これは簡単。ガンダム」
「そう。ガンダム」
 即答した俺に息子も同意した。
「バカ違う! 血潮!!
「ハァ? そんな言い方したら、他にいくらでもあるだろ。恋とか情熱とか」
「そう。闘魂とか」
「三番!! 燃える氷は?」
「メタンハイドレートだろ」
「それ以外に無いな。決定」
「ダメ。全部間違い。答えは『トゥーランドット』!!
「ワケ分かんねえ。自意識過剰すぎる」
「バカじゃ無いのかその女。解ける訳ねえし」
「そんで、カラフって男がいて、その人はトゥーランドットと結婚したくなかったんだけど――――」
「だろうな。俺だってイヤだわ。そんな女」
「俺も」
「で!! カラフは三つの問題は解けたの!!
「解いたのか!? すげえな。まあ、殺されたくはないだろうからな。必死で解いたってワケか」
「でも、そしたらトゥーランドットがびびっちゃって、結婚したくなくなったので――」
「めでたしめでたしと」
「違う!! そのカラフが、自分の名前を言えたら許してやるって言って!!
「何を!? 何を許すんだ!?
「トゥーランドットは、カラフのところに仕えていた家政婦さんを拷問に掛けて名前を聞き出そうとしたの」
「またワケの分からんことを始める女だな」
「なにそれ怖い」
「家政婦さんは、カラフのことが好きだったので名前を言わなくて、拷問の結果殺されちゃうんだけど――――」
「ひでえ」
「鬼女だ」
「拷問しているうちにトゥーランドットはなんだかいい人になっちゃって――――」
「変態!? 拷問しているうちにって!?
「つまり結局、カラフは逃げおおせたのか?」
「ううん。トゥーランドットと結婚した。そんで、全部いい人になったので、国の方もなんかいい感じになったって話」
「家政婦さん死に損だな。どうしてそんなもんが名作オペラになるんだ?」
「中国人の感覚はサッパリ分からんな」
「違うの!! これはヨーロッパの作品!! 書いたのはプッチーニって人なの!!
「ますます分からん」
 全く実りのないこのような会話をしつつ、俺たちは層雲峡を後にして、観光地巡りへ……そして北海道大学のオープンキャンパスへと向かったのであった。
 まあ、息子の成績はクラスでも下から数えた方が早かったので、北大なんて夢のまた夢だったが、良い大学の雰囲気ってヤツも知っておくのは悪くない。
 まかり間違って向学心に火が付き、滑り込むことが出来たらラッキーだ、と思ったわけだが結果はそううまくはいかなかった。
 とはいえ、前述のように国語力の高い息子は後に、理系に進んだくせに文系の映像学部に興味を持ち、とある大学に合格した。
 ちなみに、娘の語ったトゥーランドットの物語のあらすじは、肝心なところでいくつも間違っている。
 というか、本人は正しく把握していて、正しく語ったつもりのようだが、上記のような会話の流れでこちらに間違って伝わったというわけだ。
 しかし、ここで正しいあらすじを書き直すと文字数が増えるので、気になった方は調べてみていただきたい。

 さて、オープンキャンパスの日。
 妻と娘を空港に送り、息子を北大へ迎えに行ったのは、もう午後も遅い時間であった。
 つまり、我々に残された時間は少ない。
 ヤツらがいる間は、釣りや網を使ってのガサガサが一切出来なかったが、それをやる時間は、この夕方から、明日空港に行くまでの時間しかなかった。
 しかも、その時点で台風の影響による明日の便の動向は不明であった。つまり、早めに新千歳空港へ行き、出発便の確認をする必要がある。となると、この夕方の時間が非常に大事なのである。
 俺たちは、空港近くのホテルにチェックインすると、すぐに部屋を出た。
 まず探したのは釣具屋である。といっても、釣りをしようというのではない。
 夕暮れは釣り場の様子が分からないから、初めての場所で闇雲に投げても何も釣れない可能性の方が高い。ゆえに、タモ網を買い込んでその辺の用水路で、シグナルクレイフィッシュこと、和名:ウチダザリガニを捕獲しよう、という企みであった。
 ウチダザリガニは、アメリカザリガニよりも一回りでかくて、実にカッコいいザリガニだが、北米原産の外来種であり、特定外来生物指定されているので生きたままの移動は出来ない。
 だがまあ、でかいのが一匹でも採れれば、その場でシメて持ち帰り、ホテルの湯沸かし器でも何でも使って茹でて食おう、ってな計画だったのだ。
 また、うまくいけばフクドジョウやエゾトミヨ、カジカ類といった冷水性の小魚も期待できる。これらは本州ではお目にかかれない種類なのだ。
 しかし便利な時代になったもんで、ナビさえ使えば釣具屋も川もすぐに見つかった。
 さっと釣具屋で網を買い、さっと捕って、さっさとホテルに帰る。
 そんな段取りをしていたのだが、この目論見は、いきなりのホテル前の大渋滞によって、もろくも崩れ去った。
「何だコレは。ビタいち動かんやんけ」
「パパ見て。あれ……救急車……」
 少し先の進行方向に赤い点滅。
 どうやら、かなり大きな事故が起きたらしい。
「く……ッ!! この先の釣具屋はダメだ」
 釣具屋まで、ほんの数百メートルと迫りながら、俺たちは行き先を変更。さっさとUターンすると、少し遠い反対方向の釣具屋を目指した。
 だが、その目的地に到着した俺たちはその場に立ち尽くした。
「これって……釣具屋?」
「釣具屋っていうかこれは……リサイクルショップだ。しかも閉まっている」
 それはなんと『釣り具も扱っている』というだけのリサイクルショップであった。さらに時間外なのか定休日なのかシャッターも閉まっている。
 そうこうするうちに、ますます太陽は傾いていく。
 このままでは何も出来ないまま、貴重な時間が過ぎてしまう、と思った俺たちは、無謀にも最初の釣具店に、裏道から向かうことを選択した。
 広々とした直線道が売りの北海道といえども、千歳はそこそこの住宅街。狭い裏路地を、ナビを頼りにコソコソと走り回り、なんとか釣具屋にたどり着いた時には、太陽は山の端に隠れるところ。
 それでも目的を達成するまでは、やめぬ。という、固い意志の下に、俺たち親子はナビで川を探した。
 見つけたのは、千歳インターの近く、県道と自衛隊駐屯地に挟まれた、小さな川である。
 小さいとはいっても、川幅は五メートル以上あり、流れもそこそこ速い。
 本来ならタモ網が通用するような川幅ではないが、薄暗い川底を透かしてみると、水面近くに鮮やかな緑が見える。どうやら、なにやら沈水性の水草が生えているらしい、ということは、水深は浅く、透明度はかなり高いはず。
「よし。やるぞ」
「どうやって?」
 息子の疑問ももっともである。俺たちの武器は一本のタモ網のみ。
 長靴も足袋も無いのだから、岸から網を伸ばすしかないわけだ。だが、オタマジャクシやメダカ程度の遊泳速度の遅い生きものがうじゃうじゃいるような池ならともかく、こんな流れの速い川で網を伸ばしたところで、捕まるような間抜けな魚はいるはずがない。
「馬鹿者。そんなことで諦めてどうする。貴様に本物の覚悟ってヤツを見せてやる」
 息子に向かってそう言い放った俺は、靴も、靴下も、ズボンすらも脱ぎ捨てて川岸に立った。
 濡れたり汚れたりするくらいなら、脱いでしまえばいい、というわけだ。
 当然、足をケガする危険は増すが、こうした人家の少ない場所にはガラス片などは少なく、中下流域にあたるから石ころも尖っていない、などの計算をした上でのことである。
「息子よッ!! これがビオトープ管理士だッ!!
「いや……でもパパ、これ、知らない人が見たらただの変態だぞ」
「大丈夫だ。もう薄暗いし、そもそもこんなとこ人は通らん。出撃!! うひゃああああ!?
 タモ網片手に川に足を踏み入れた俺は、思わず奇声を発した。
「どうしたパパ!?
「冷たいんじゃ!! こいつは……十℃切ってるかも知れん!!
 恐るべき冷たさであった。
 本州で中下流域の水温というと、この時期二十℃を下回るような場所は少ないだろう。場合によっては三十℃近くいくところもあるくらいだ。
 だが、ここは北海道。本州の常識は通用しないということを忘れていた。
 よく見ると、水中の水草はバイカモである。本州では湧き水や渓流にしか生えていない、冷水性の水生植物だ。
「ぬうう。負けるかぁ!!
 俺は、川岸に覆い被さる草むらの下に網を置き、そこへ追い込むように、裸足の足で川底をかき回した。
 どす黒い濁りが、暗がりでもハッキリと分かった。渓流並みの冷たさといえど中下流域なのだ。落ち葉や枝が溜まり、それが冷たさのせいで分解しきれずに嫌気化しているわけだ。だから上を流れる水は清澄でも、川底は栄養豊富でもある。
「おお。何かいた。上がるぞ」
 正直言って、もう限界であった。両足は皮膚の感覚が無くなり、代わりに骨まで響くような鈍痛を感じ始めている。転んで全身浸かれば、数分で死ねる温度ということだ。
 川岸に持ち上げたタモ網に入っていたのは、なんとヤマメの稚魚。言わずと知れた渓流魚である。中下流域で採れていい魚ではない。
 だが、ウチダザリガニもまた冷水性のはず。いないと決まったわけでもない。
「くそッ!! もう一回だッ!!
 足の感覚が戻るまで待って、再トライ。
 川岸の草を踏みしだいて川へ向かうと、泥炭化した植物のヘドロが足にまとわりつく。薄暗くて気づかなかったが、川岸は小さな湿原のような状態だ。
 だが、何度やっても採れてくるのはヤマメの稚魚ばかりでウチダザリガニは採れない。
 その他に期待していたフクドジョウもエゾトミヨも採れなかった。
 これらの本州では見られない珍しい小魚を、ぜひとも息子に観察させたかったのだが。
 そのうち完全に日が暮れ、もはや危険な状態となった。足でも滑らせて倒れたら、その場で心臓麻痺で死にかねない、というわけだ。
 仕方なく俺たちは、その辺で戦闘終了せざるを得なかったのである。
 翌朝。
 リベンジを誓った俺たちは、早朝にチェックアウトし、レンタカーを海の方へと走らせた。
 飛行機の時間は昼過ぎだが、台風の影響が心配だし、すでに欠航になった午前の便の乗客も加わって混雑するはず。
 更に言えば、どうせ必ず妻から電話が入るだろう。
 空港にいるとウソをつくのは簡単だが、空港にいるならアレとコレとソレを買ってきてくれ、と、土産の購入を指示されるのも確実であるから、買えない、などと言うわけにもいかない。
 レンタカーの返却を十時半くらい、戦闘時間を一時間で設定すると、片道約一時間で行ける場所に行くしかない。
 近場の水辺を探して最初にたどり着いたのは、ウトナイ沼であった。
 だが、白鳥の飛来で有名なこの沼は、自然保護区域に指定されていて、網を振り回せるような場所ではなかった。
 さっさと見切りを付けて走り出す。
 とにかく、千歳であれだけの冷水であったのだから、海の方へ行かねば網で捕獲できるような生き物はいそうにない。そのまま南下して苫小牧に着く。
 そこで、はたと迷った。行くために残されている時間は三十分程度。
 右へ行けば室蘭方面。左へ行けば襟裳岬方面だ。
 室蘭方面なら、白老町があり、ポロト湖とその周辺でフクドジョウやエゾトミヨを採取したことがあるのだが、いかんせんそこまで行くには遠すぎる。
 襟裳岬方面は海沿いの道である。行ったことはないが、いくつか河川も流れ込んでいるようで、河口近くの方が見込みがあるように思えた。
「左へ行く」
「うん。わかった」
 息子は北海道の地理など全く分かっていないわけで、俺に従うしかない。
 だが結論から言えば、この判断が大間違いだった。
 海岸沿いの道は、通る車すべてがえらくスピードを出すとんでもない道で、なかなか停車できない上に、道沿いには森林も山もなく、草原が広がるばかり。
 草原の波の中に、遠くに水面が見えては遠ざかるの繰り返しだ。つまりは、川があっても近寄れないのである。
 ようやく牧場のような場所を見つけて停車し、その周りの溝を見てみるが、水が無い。
 その溝の行く先を追ってみて、小さな沼を見つけたが、入れてみた網に引っかかってきたのは、イサザアミという、小さいオキアミの仲間だけであった。
 この沼は、泥炭が底なしに溜まっているようで、昨日のような戦術、つまりズボンを脱ぎ捨てる技は使えない。頭まで泥に浸かる覚悟をすれば話は別だが、そんなことしても、何も採れない公算の方が高いのでやめた。
 結局、最後のチャンスは完全なる空振りで終わったのであった。
 予想外の結果に、息子も俺も、悄然として空港へ向かうことになったわけだが、息子は気づいているだろうか?
 妻と娘が去った途端に、俺たち二人に不運が襲いかかってきたことに。
 そもそも行き先が西表島から北海道になって台風をかわせたことから始まっている。
 着いてみれば、何故かオフシーズンのはずのオオイチモンジが採れた。さらに、しつこく向かってきた台風の合間を縫ってフライトできた。
 そして二人が去ってから、釣具屋を探すだけのことが不運続き。交通事故渋滞に閉店。
 見つけた川は、とんでもない冷水の川。翌日は採集ポイントが見つからず。
 これはもう、あの二人が幸運の女神であったとしか思えない。
 いればいたで、めんどくさくて厄介なのだが、いないと不運が襲うのではなあ……。
 さて、空港に向かう車中で、予想通り妻から電話。
 内容も、JA美瑛のとうもろこしパンと、じゃがいもを使った北海道限定のとあるスナック菓子を買ってこい、という予想通りのものであった。
 結局、息子が高校の間に、西表島へは行けなかった。
 娘が大学生になってしまえば、今度こそ肩の荷が下りた状態で、息子と西表島へ行けると思っていたのだが、肝心の息子は本業の映像制作にどっぷり浸かっている様子。
 一人で行ってもつまらない西表島だが、妻と二人で行っても、幸運は巡ってくるかも知れないが、ジャングルもキャンプも中途半端になりそうである。
 もう、俺がこの人生で、熱帯で野生化できる機会はないのかも知れない。


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