第15話 父と浜波町。

文字数 2,002文字

 メモの住所は、浜波町月舟とある。

 浜波町かぁ、懐かしいな。

 今にも潮の薫りがしてきそう。

 私は父の事を思い出していた。


 私の父が若い頃、親の漁師の仕事を手伝っていた事があり、そこでお世話になった『小川』という民宿があった。そこが浜波町であった。

 父が50歳の頃に受けた腰の手術での輸血が原因でC型肝炎ウイルスに感染してしまった。そして肝硬変と進行、腹水の貯留を繰り返し、その病状は徐々に悪化していった。75歳を迎えたころ、父は私に、自分が死ぬ前に一番行きたい場所があると教えてくれた。それが、浜波町にある『民宿小川』だと。
 頑固で大きかった父がだんだんと小さくなっていく。私は、その父の願いを叶えたくて、まだ小学生だった美保と香里とともに、浜波町まで父を連れて行ったことがあった。

 手術を繰り返した腰は歩くこともままならず、車椅子生活となった父を載せ、私は浜波町まで車を走らせた。浜波町といっても範囲は広く、父の記憶を頼って、迷いながらもやっと『民宿小川』のあった場所にたどり着いたのっだった。

 そして降りた場所に立っていた電信柱の公告下を確認すると、そこには『網代』と表示があり、

 「じいちゃん、ここ浜波町あみしろ?あみだい?って書いてあるよ。ここでいいの?」

 「あぁ、あじろだ。そうだ。間違いない。ここだ。」

 車の窓から見えた景色を食い入るように見た父は、かすれた頼りない声で、香里にそう答えて車椅子をカタカタと揺らした。

 「わかった、今降ろすから。その前に、この家の人に聞いてくるから。ちょっと待ってて。香里、美保、じいちゃん見ててね。」

 父がここだと、指さした古い木造の家。

 2階の窓の下には、文字がほとんど消えたトタンの板がかかっていた。
 
 玄関前には、簡単な流し台があり、年季の入ったまな板が立てかけてある。

 ドアホンなどは無く、私はガラスの引き戸越しに大きな声で声をかけた。

 するとエプロンをした若い女性が出てきた。ここへ訪ねた経緯を話すと、祖父が分かるかもと、奥へ呼びに行ってくれた。

 その間に、私が父を車から降ろしていると、父と似たような年齢の白髪の男性が、杖をつきながら父のところに寄ってきた。

 「もしかして、よっちゃんかい?あの時はまだ二十歳前だったな。一緒に船に乗ってた和夫だよ。まるで浦島太郎だな。お互い一気におじいさんだ。いいね、娘さんと、お孫さんかい。」

 父は、うんうん頷いて、顔もまともに見ないでポロポロと泣くばかりだだった。

 「良かったね。じいいちゃん。でも、じいちゃんが、よっちゃんって可愛い。」

 あの時、おじいちゃん子だった香里が、そう言いながら甲斐甲斐しくティッシュで鼻水や涙を拭いていたのをよく覚えている。

 「確か…義吉さんだっけ。」

 「そうです。里田義吉です。すごい50年以上も前なのによく覚えててくださって。ありがとうございます。ごめんなさい。父は最近、涙もろくてすぐ泣いてしまうんですよ。」

 『民宿小川』は、もう二十年ほど前にたたんで、建物を少し手直し、今は三世帯で家族が住んでおり、トタンの看板は、今日みたいに懐かしい人がたまに訪ねてくるので、目印として残してあるとのことだった。

 そして体格のいい和夫さんの息子さんが、車いすの父をリビングまで連れていってくれた。

 父は、和夫さんが持ってきた、古いアルバムに何度も涙を流しながら、懐かしい時間を過ごすことができた。父は、この4年後に思い残すことも無く旅立っていった。

 今は、香里が亡くなってから建てた墓に、父も一緒に入っている。
 
 香里、世話焼いてるのかな。友達もいるし、向こうは賑やかねきっと。

 
 だた、このメモの住所の月舟という地名は聞いたことがない。


 父を連れて行ったとき、地図をひたすら見ていたし、この後も観光地が多いこの辺りを何度か通っているが、月舟という地名は聞いたことがなかった。

 私は、メモに書かれていた電話番号にかけてみた。

 柔らかな中年らしき女性の声だった。

 部屋はさっきキャンセルが入ったところで、明日から3日間なら開いているとのことだった。

 「じゃ、明日から1泊2日でお願いします。あの住所なんですけど、月舟という場所で合ってますか?」

 「お客様はおひとりですね。月舟で大丈夫ですよ。確かに地図には載ってないんですけど、お泊まりしていただければ分かると思いますので。浜辺の唄の案内板も立ててありますから、迷わないと思いますよ。」

 「分かりました。よろしくお願いします。」

 キャンセルなんて、ラッキーね。やっぱり、夢の中でのことはこじつけでないかも。

 でもなんで、1人ってわかったんだろう?私、何も言ってないけど…。

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