第1話 アマビエ

文字数 3,682文字

疫病伝承とソーシャル・メッセージ
Saven Satow
Aug. 12, 2020

「だいじょうぶだぁ」。
志村けん

第1章 アマビエ
 新型コロナウイルスのパンデミックに伴い、現在の事態の改善につなげようと、世界各地で過去が再発見されている。日本も例外ではない。影響が広範囲に及ぶため、その見出される対象も幅広い。その中には民間伝承も含まれる。

 太路秀紀記者は、『熊本日日新聞』2020年4月10日16:00更新「『アマビエ』、厚労省の感染拡大防止アイコンに 熊本ゆかりの妖怪」において、厚労省の啓発事業について次のように述べている。

 新型コロナウイルスの感染拡大防止の鍵を握る若者に行動自粛を呼び掛けようと、厚生労働省は「疫病を沈静化させる」と伝えられる熊本ゆかりの妖怪「アマビエ」を使ったアイコン(記号化された図形)を作成し、7日夜から公開している。若者の一部では「アマビエを国が認めたよ」「厚労省公認の妖怪に出世したね」などと話題になっている。
 アマビエは江戸時代後期に肥後の海中に現れ、「疫病が流行したら自分の姿を絵に描いて人々に見せるように」と言い残して姿を消したと伝わる妖怪。新型コロナの感染が拡大する中、会員制交流サイト(SNS)で話題となり、若者の間で、絵を描いたり、コスプレしたりする動きが広まっている。
 同省のアイコンはアマビエの絵に「知らないうちに、拡[ひろ]めちゃうから」とのメッセージを添え、無症状者や軽症者に感染拡大防止を促している。同省対策本部は採用理由を「ネット上で若者の目に留まりやすく、分かりやすく注意喚起できると判断した」としている。

 「アマビエ」は海中から光を放って出現し、豊作や疫病に関する予言をする超自然的存在である。これは、江戸時代後期に制作されたと見られる瓦版と思しき印刷物にその姿を描いた絵と次のような文章によって伝えられている。

肥後国海中え毎夜光物出ル所之役人行
見るニづの如く者現ス私ハ海中ニ住アマビヱト申
者也当年より六ヶ年之間諸国豊作也併
病流行早々私シ写シ人々二見せ候得と
申て海中へ入けり右ハ写シ役人より江戸え
申来ル写也

弘化三年四月中旬

 引用した瓦版の内容は以下のようなものだ。肥後国(現熊本県)で、毎夜、海が光るので、役人がそれを確かめに行くことになる。その役人の前に海から「アマビエ」と名乗るものが現われる。「当年より6年間、諸国で豊作が続く。しかし、同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ」といった主旨のことを言い残し、海へと戻っていく。なお、アマビエの絵を祀れば、疫病が沈静化するとは記されていない。

 ただ、「アマビエ」についての史料はこの瓦版しか伝わっていない。ほぼ同様の内容の「アマビコ」という伝承が天保期から明治中期までの史料で確認でき、その範囲も熊本のみならず宮崎にも及ぶ。こういった事情から、「アマビエ」は「アマビコ」のヴァリエーションではないかと見られている。

 「アマビエ」史料に記された弘化3年4月中旬は、西暦で言うと、1846年に当たる。1841年に始まった天保の改革が43年に終わって、およそ3年後である。1830~43年の天保年間には全国的な凶作による物価高騰、天保の大飢饉、農村から都市への人口流入、百姓一揆・打ち壊しの頻発などが起きた時代である。こうした状況下、1836年には甲斐国における天保騒動や三河加茂一揆、翌37年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件、1840~42年にはアヘン戦争など国内外から幕政を揺るがす大事件が相次いでいる。この1846年はこうした天保年間が終わって3年後であり、1854年に黒船が来航する8年前、1862年に江戸時代最大の麻疹騒動が発生する16年前である。

 凶作の時代の天保を踏まえれば、民衆が豊作の予言に期待する気持ちはよくわかる。もし少しでも豊作の朝貢があるなら、それを希望にして仕事に励みたいものだ。しかし、アマビエあるいはアマビコがなぜ豊作と疫病を同時に予言するのかが腑に落ちないな。るほど「好事魔多し」の警告とも捉えられるだろう。また、熊本には、四国八十八ヶ所と並ぶ加藤清正公祠という霊場がある。家族は疫病の患者を巡礼に旅立たせることが多く、定住者も少なくなかったとされる。禍として疫病が選ばれたのはこういった熊本の事情が踏まえられている可能性もある。

 だが、やはり豊作と疫病の組み合わせがよくわからない。飢饉に苦しむ社会が疫病に見舞われるなら、納得がいく。災害を記録した日本の古典として鴨長明の『方丈記』が知られている。そこに飢饉と疫病の関連する記述がある。疫病について独立した章はないものの、町名は「養和の飢饉」において次のように述べている。

また養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。あるいは春・夏日照り、あるいは秋、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うる営みありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、あるひは地を捨てて境を出で、あるひは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらさらそのしるしなし。
京のならひ、何わざにつけても、みな、もとは、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、道のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。
前の年、かくの如くからうじて暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには、笠うち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤、山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹つき、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを尋ぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。

 1181~82年の養和年間に亘って飢饉があり、多数の死者を出している。旱魃や大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷はさまざまな加持祈祷を試みたけれども効果がなく、翌年には疫病が発生している。この記述からは疫病が何かはわからないが、致死率が高い疾病と思われる。

 飢饉の後に疫病に京都が襲われた理由はこう考えられるだろう。飢饉が起こると、食糧事情が悪化、人々の免疫力が低下、感染症に社会が弱くなる。農業を始めとする生産従事者が生活の糧を求めて都市や山中に移動し始める。それを受けて都市の人口密度が高まる。都市は地方に食糧・エネルギー・材料などを依存しているので、その供給が不足する。こうした変化により、都市は、食糧事情のみならず、公衆衛生など生活環境が全般的に悪化していく。この状況は感染症の拡大リスクが高い。飢饉が疫病につながるのはこうした理由からと推察できる。

 なお、飢饉や疫病によって多数の犠牲者が出て、遺体が鴨川の河原に溢れていることには理由がある。平安京は一条から九条までと東西の京極の4角形部分が浄の場所とされ、不浄なものを忌み嫌う。そのため、遺体は外に出さなければならない。羅生門はその境界にあり、芥川龍之介の小説においてその2階に遺体が置いてあるのはこうした習慣による。

 豊作であるならば、食糧事情や衛生環境も良好だろうから、感染症流行のリスクが高くなるとは思えない。ところが、江戸時代は平安時代末期よりもそうした条件がよいはずなのに、感染症の流行が周期的に起きている。ただ、栄養状態はともかく、感染症の流行には人の移動が大きな原因となることは確かである。近代と違い、移動の自由が認められていない時代であっても、人は動く。それは困窮したからだけではない。経済成長すれば、物流は言うに及ばず、人的移動も盛んになる。人の動きを活発にする豊作が疫病をもたらすこともあり得る。実際、江戸時代は平安時代より人口も増加して経済成長し、人の往来も盛んである。それが感染症の流行を繰り返す条件の用意につながったと考えられる。そうであるなら、豊作が疫病に関連して起こることもあり得る。
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