文字数 2,772文字

 ワサワサとざわめく樹々の群が、蒼く照らされた境内に鬱蒼たる陰翳を落としていた。
 外界との狭間に薄黒く蠢く境界線は、彼岸と此岸の間隙にある人外の住処を連想させ、点在する常夜灯が映し出すおぼろげな情景は――幽玄、というよりはむしろ――幽鬼の息づかいすら錯覚させる、不穏な気配を漫然とあたりに漂わせている。
 天上には、皓々と光を湛えた白い月が浮かんでいた。
 数多の星を抱く闇空に大きく真円を穿ったような、存外に見事な満月であった。
 七月も末に差しかかり、梅雨明けの草木が放つ芳香も青々となりつつある六観音山(ろっかんのんざん)であったが、やはり深夜ともなれば肌に刺す夜気はまだ幾分に冷たい。
 もっとも、それは山脈を日本海側に下った土地柄もあるのだろうし、一〇〇〇メートル足らずの標高とはいえ、山頂に位置する大観音堂という場所柄のせいもあるだろう。
 追い討ちをかける風が一陣。
 ざわりと葉音を伴いながら吹き抜けていった。奥羽の山から吹き降ろす、身体の芯の温度を奪い取る、冷え冷えとした風だった。
「で? この兄ちゃんをぶっ倒せば、間違いなく渡してくれんだな――その」
 男が――
「『裏五輪(うらごりん)』とかって……ヤツをさぁ」
 男が、参道を挟んで対峙する、空手衣の青年を睨めつけたまま言った。妙に場の雰囲気になじんだ、歪に潰れた鼻をした狛犬顔の男であった。
 擦り切れた、かつては濃紺であったろうTシャツを着ている。
 黒地に太いラインの入った、ナイロン製のジャージを穿いている。
 脅しつける枯れ声が野太かったが、全身にのたうつ筋肉も鉛を鋳込んだように太い。その表面を、適度に薄い脂肪層がのっぺりと鎧っている。青銅の像に硬質ゴムをコーティングしたとすれば、あるいはこんな具合に仕上がるのかもしれない。
 ならば、鋳像の表題は『暴走する破壊衝動』とでも名づけようか。
 そう思わせるほど圧倒的な質量を持つ立ち姿に向って、まぁね……と、薄ら惚けたイントネーションで、軸線をはずした横合いから合いの手がかかった。
「それが、〝裏商店会〟の正式な規約だからね――」
 受けて答えたのは、空手衣ではなく立会人を名乗る痩せぎすの男である。
 ことさら夜気を嫌うのか、頸元までジップアップしたフライトジャケットは、薄手ながらも着丈が長い。軽く人差し指で胸元を二度叩くと、コツコツと虚ろに反響する乾いた音がした。ここにあるから安心しろと、そう言いたいのだろう。
 聞きとがめた男の鼻孔から、ふん、と小さく侮蔑の息がこぼれ落ちた。
「商店会……ねぇ」
 視線は、依然として空手衣から逸らせていない。逸らさぬまま、ぐつぐつと肩先で笑う。片腹痛くて堪らない、そういう類のあざけりだ。
 ――野心と面子の売りと買い……。
 そんな恥ずかしげもない謳い文句が、男の嘲笑を誘っている。
 いかにも田舎者の腕自慢が好みそうな、人を食った与太話である。
 まるで、ガキのドツキ合いの前口上だった。荒唐無稽の極みと言っていい。いまさらに込み上げる虚脱が、男の興を削ぎ始めていた。といって――。
 こんなところまで呼びつけられて、手ぶらで帰るわけにもゆくまい。
「一応、確認させてもらえるかい?」
 噛み殺して、男が言う。
 ゆっくりと空手衣から転じる男の視線を受け止めて、痩せぎすは口の端をぬけめなく吊り上げた。新しいおもちゃをひけらかす、得意げな悪ガキの笑みだった。
「ずいぶんと、慎重なんだね」
「あとで、すっ惚けられても困るからな」
 夜目での判断がどこまで定かかには疑問も残るが、そうして屈託なく笑むと、痩せぎすは思いのほか年若いようにも見えた。
 二〇代の半ばは、越えているだろうか?
 三十路にこそ届いてはいなさそうだが、膝の抜けたジーンズの着こなしは、さすがに過ぎた若作りに思えなくもない。どうであれ、気を抜けば足元を掬われる。その手の生々しいしたたかさを感じさせるのだけは確かであった。
「心配しなくても大丈夫だよ、そんな無粋なマネはしないから」
 さぐる気配に気づいてか、あくまで軽々しさを強調した口振りで言い、痩せぎすは手繰った上着の裾から懐中に手を差し入れる。
 仰々しく懐から引き出されたのは、薄く手垢の乗った古い桐製の木箱である。
「ほら、これでいいのかい――」
 四隅が黒塗りの金具で補強された桐箱は、ちょうど本一冊が納まる程度の大きさで、ご丁寧にもふさのついた紫の編み紐でくくり留めてある。面側には達者な毛筆でなにやら表書きが記されてあったが、男には読み取ることができなかった。
「それが……」
「そう……これが、一読すれば生涯無敗を約束してくれる秘伝中の秘伝書。俺たち〝六観音橋(ろっかんのんばし)裏商店会(うらしょうてんかい)〟が秘蔵する、驚天動地のお宝さ――」
 そして、男にとっては相応の銭を産む〝飯の種〟。
 男の双眸が細められた一瞬を見透かして、痩せぎすが継ぐ。
「――でもね、正確には『裏五輪』じゃなくて『二天宮本流(にてんみやもとりゅう)秘中ノ巻(ひちゅうのまき)』っていうんだ。挑戦する側の礼儀としてさ、そこはちゃんとしようよ……ねぇ、無双(むそう)さん」
 瞬間、男の視界がカッと怒りに染まった。
 芝居がかった言いまわしは、きっと意図的なものだろう。
 ならべた口上が安い挑発なのは賢しく細めた狐目が雄弁に語っていたし、ひらひらと箱を振るしぐさにも、さめざめとした苦笑を覚えずにはいられなかった。
 笑い飛ばすのも億劫なくらい、陳腐で拙い戯言。
 仕向けられた狛犬男にしても、本来なら乗せられてやるほどウブではない。いつものように軽く往なしてやれば、それでいいだけの話であった……が。
 しかし――
「……こざかしい駆け引きをするじゃねぇか、会長さん」
 巧みに仕込まれた呪詛の棘は、思わぬ先制の楔となって男の凶相をたわませる。意に反して引きつる己の言葉尻も、無性に神経を逆撫でした。
「なんだ、見かけによらず意外とナイーブなんだね……無双さん」
 痩せぎすは、追い討ちのように呪詛の名をくり返す。
 笑みからは、すでに無邪気さは消えていた。
 達者な口先で焚きつけて、勝負の流れを空手衣のほうに向かわせる。恐らく、そういうルーティーンがマニュアルとして組み上がっているのだろう。
 そのあざとさこそが、この一見してなんの心得も持ちそうにない若僧を、集団の長たらしめている要因に違いない。
 赤黒く昂ぶる殺意の底で、男は戒めの名を一度だけ噛み締める。
「……いい気になるんじゃねぇぞ、小僧」
 無双……。
 それは男が――後藤栄治(ごとう えいじ)がかつて名乗った、屈辱に汚されたもう一つの名であった。

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