弐
文字数 3,257文字
後藤栄治。身長一八七センチ。体重一四二キロ。総合格闘家。
もともとは、重量級のグレコローマンスタイルで将来を嘱望されたレスラーだった。
グレコローマン、などと改まって言うとわかりづらいかもしれないが、ようするに腰から下の攻防を禁止した投げ技中心のアマチュアレスリングのことである。
路地裏の小競り合いに飽きて、気まぐれに手をつけたのが十五の年。生来のフィジカルスペックの高さと勝負勘のよさで、高校タイトルを総なめにしたのは高二の頃だ。
「それで、いつになったら始まるんだい?」
砂利を敷きつめた足場をスニーカーで慣らしながら、後藤は小さく息を吸って同じように吐く。胴間声を響かせた体躯も、あの頃からたいした変わりはない。一回りや二回りは太くなっているだろうが、物心ついた頃には勝手に図体ができあがっていた。
持ち前の力だけで勝てるのだから、練習だの筋トレだのは大嫌いだった。
それを理由にアマレス界を追われたのは、鳴り物入りで迎えられた実業団で、五輪強化選手へとの声が上がった時期だ。素行不良と言い渡されたから、日頃から取り立たされていた傍若無人のふるまいも、お偉いさん方の心証を害したのかもしれない。
「いつ、って聞かれてもねぇ――」
嘲笑まじりの痩せぎすの声が、後藤の思考を寸断する。
「境内に入ったときから始まってたから、おしゃべりに付き合ったのはサービスだったんだけど……やっぱり、ゴングとか鳴らしたほうがいいのかな?」
大仰に肩をすくめる素振りは変わらず癪に障ったが、その手を食うつもりは最早ない。そんな化かし合いなら、表の世界で十二分に味わってきた。
そうかよ……ぎりり、と奥歯を軋らせて、後藤は空手衣に視線を戻す。
問題はない。平常心とまではいかなくとも、臨界を突き抜けた猛りが澄み切ってゆくのがわかる。明度の高い灼赤色の激情だ。あとはその矛先をあそこに向けてやればいい。
視線の先には、押すでも引くでもなく、青年がただ立っていた。
人懐こそうな顔立ちの中から、茫洋とした傍観者の眼がうつむき気味に見返している。どことなく寂しげに見える表情は、癖の強い三白眼の加減らしかった。
確か、古流の使い手だと聞いていたが……。
薄暗がりに白く浮かぶ空手衣は、フルコンタクト仕様のものだった。肘のあたりで断ち落とされた袖が二度三度と細い幅で巻き上げてあり、軽くひきずった下衣の裾から、屋根職人が履くような薄いゴム底のズックが覗いている。
妙な、違和感があった。
確かに屋外での立ち合いだ……ズックはいいとして、なぜ古流の人間がフルコン仕様の空手衣を着ている? だとすれば、情報はブラフだったのか? あるいは空手衣のほうがブラフ……狐目が弾いたそろばんなら、それもありそうな話だ。に、しても――
――小っせぇし……ヒョロいな。
それも気にかかるところだった。大雑把に見積もっても、青年の身長は後藤より三〇センチ近く下回っている。狐野郎と比べても一五センチは低い。小さいから弱いとは言わないが、体格差が勝負に影響するのは常識だ。絶望的なこの状況をどう捌く?
とはいえ、ここまでくれば関係はない。
「……なら、こっちのタイミングでいかせてもらうぜ」
堂々巡りする疑念にふたをして、後藤は浅く腰を落とした。軽く握った拳は、顎を挟むように畳んで胸の前に置く。
ブラフというなら、きっとすべてがブラフなのだ。
第一、なにか仕込んであったとして、この体格差でどう負けろという? こんなもの、ガブって押し潰しちまえば一発だ。
そう腹をくくったとき、狐目がまた絶妙のタイミングで口を挟んだ。
「毎度あり。健闘を期待してるよ……無双さん」
お前は五月蠅い、少し黙っていろ。そういうお前の物言いが、あいつを思い出させてむかつくんだ。
あいつ? そうか、この狐目のやり口はあの男にそっくりなんだ……。
散漫になりかけた意識をつなぎとめ、じりり、と、後藤は一足間合いを詰める。
それでも乱された思考は、遠い昔の記憶を脳裏に呼び起こしてくる。
「吉祥寺で、小さな道場を開いていてね。手っ取り早く看板選手がほしいんだよ」
客分扱いで構わないから……。
そう言ってそいつが声をかけてきたのは、食い詰めて行き場をなくした後藤が、裏の世界に爪先を突っ込みかけていたときのことだった。
一見流れの食客。
地まわりヤクザのお抱え用心棒。
腕に覚えさえあれば、腰抜けばかりのこの国で食い扶持に困ることはない。度胸さえあるのなら、〝それなりの選択肢〟というものが非合法の世界には存在する。そんな覚悟を決めた矢先に降って湧いた、天上からの蜘蛛の糸にも等しいスカウトだった。
新崎 ……なんといったろうか?
名前は憶えていない。というより、初めから憶える気もなかったのが正解か。男はシュートスタイル・プロレスの黎明期、草分け団体の旗揚げに立ち会ったルチャドールという経歴をもった、すこぶるの変り種らしかった。
「どうかな? 後藤くん。そこらでメシでも食いながら」
もとより選択肢が残っていないのだから、後藤に断る理由はなかった。メシというから期待してみれば、連れて行かれたのはどこにでもある牛丼屋だった。
もっとも新崎のみすぼらしい身なりを見れば、それでも僥倖と言えたのかもしれない。
レジを囲むカウンターにならんで、後藤は特盛りで牛丼を二杯食った。
新崎は、壜ビールを舐めながらニコニコとそれを眺めていた。
――どうにも、やりにくいヤロウだな……。
食いながらと言うわりに、交渉が始まる気配は一向になかった。
毒を抜かれたというか、ペースを取られたというか、結局メシを食い終わる頃には、なし崩しに後藤は新崎とつるむことになっていた。ほんの六年ほど前の話だ……。
なりゆきとはいえ、始めてみると総合系のリングは案外と居心地がよかった。
元来センスに頼るところが多いスタイルの後藤だったから、ルールの制約は少ないほうが向いていたといってもいい。より過激さを求める風潮も相まって、凄惨なまでに血なまぐささを極める後藤の試合は、注目を集めるのにさほどの時間もかからなかった。
それがお前のウリだからね……悪戯坊主のように笑って、新崎もそれを容認した。
邪気のない、明け透けすぎる笑みだった。
「どうだい? 強そうでいいだろう」
自慢げに言って、無双の名で後藤を売り込んだのも新崎だ。
善し悪し云々は別として、無双の知名度が上がる度に試合のギャラは吊り上ったし、比例して道場に転がり込む銭の額も大きくなっていった。
本名よりその名で呼ばれることに慣れ始めた頃、かび臭い雑居ビルの二階にあった道場は中目黒に自社ビルを構えるまでになっていた。当初は数えるほどしかいなかった門下生も、いまでは一、二階をぶち抜いたジムに収まりきらないくらいになっている。
――それを、あのヤロウ……。
じりり――後藤はさらに半足ほど間合いを詰める。
空手衣は、いまだ動く素振りすら見せてはいない。
「だいぶ調子づいてるみたいだからね。お灸を据えてやるといいよ」
半年ほど前――これは、後藤に試合を持ちかけてきたときの新崎の台詞だ。
対戦相手は柔道から転進した、有望株のルーキーだという。世事に疎い後藤ですら名前と顔くらいは知っている、国体を三度制した五輪の銀メダリストだ。
今回は、やけに嗾けるな……。
訝しくも思ったが、間を置かず後藤は快諾した。
似かよった経緯にありながら明暗をわかつ優等生に少なからず嫉妬心はあったし、なにより是が非でもと懇願する新崎の熱意に、どんな形であれ応えたかったからだ。心酔こそしていないが、この男には引き上げてもらった恩がある。報いなければなるまい。
「そうしてくれると、俺も助かるよ」
そう言って、やはり新崎は笑っていた……。
もともとは、重量級のグレコローマンスタイルで将来を嘱望されたレスラーだった。
グレコローマン、などと改まって言うとわかりづらいかもしれないが、ようするに腰から下の攻防を禁止した投げ技中心のアマチュアレスリングのことである。
路地裏の小競り合いに飽きて、気まぐれに手をつけたのが十五の年。生来のフィジカルスペックの高さと勝負勘のよさで、高校タイトルを総なめにしたのは高二の頃だ。
「それで、いつになったら始まるんだい?」
砂利を敷きつめた足場をスニーカーで慣らしながら、後藤は小さく息を吸って同じように吐く。胴間声を響かせた体躯も、あの頃からたいした変わりはない。一回りや二回りは太くなっているだろうが、物心ついた頃には勝手に図体ができあがっていた。
持ち前の力だけで勝てるのだから、練習だの筋トレだのは大嫌いだった。
それを理由にアマレス界を追われたのは、鳴り物入りで迎えられた実業団で、五輪強化選手へとの声が上がった時期だ。素行不良と言い渡されたから、日頃から取り立たされていた傍若無人のふるまいも、お偉いさん方の心証を害したのかもしれない。
「いつ、って聞かれてもねぇ――」
嘲笑まじりの痩せぎすの声が、後藤の思考を寸断する。
「境内に入ったときから始まってたから、おしゃべりに付き合ったのはサービスだったんだけど……やっぱり、ゴングとか鳴らしたほうがいいのかな?」
大仰に肩をすくめる素振りは変わらず癪に障ったが、その手を食うつもりは最早ない。そんな化かし合いなら、表の世界で十二分に味わってきた。
そうかよ……ぎりり、と奥歯を軋らせて、後藤は空手衣に視線を戻す。
問題はない。平常心とまではいかなくとも、臨界を突き抜けた猛りが澄み切ってゆくのがわかる。明度の高い灼赤色の激情だ。あとはその矛先をあそこに向けてやればいい。
視線の先には、押すでも引くでもなく、青年がただ立っていた。
人懐こそうな顔立ちの中から、茫洋とした傍観者の眼がうつむき気味に見返している。どことなく寂しげに見える表情は、癖の強い三白眼の加減らしかった。
確か、古流の使い手だと聞いていたが……。
薄暗がりに白く浮かぶ空手衣は、フルコンタクト仕様のものだった。肘のあたりで断ち落とされた袖が二度三度と細い幅で巻き上げてあり、軽くひきずった下衣の裾から、屋根職人が履くような薄いゴム底のズックが覗いている。
妙な、違和感があった。
確かに屋外での立ち合いだ……ズックはいいとして、なぜ古流の人間がフルコン仕様の空手衣を着ている? だとすれば、情報はブラフだったのか? あるいは空手衣のほうがブラフ……狐目が弾いたそろばんなら、それもありそうな話だ。に、しても――
――小っせぇし……ヒョロいな。
それも気にかかるところだった。大雑把に見積もっても、青年の身長は後藤より三〇センチ近く下回っている。狐野郎と比べても一五センチは低い。小さいから弱いとは言わないが、体格差が勝負に影響するのは常識だ。絶望的なこの状況をどう捌く?
とはいえ、ここまでくれば関係はない。
「……なら、こっちのタイミングでいかせてもらうぜ」
堂々巡りする疑念にふたをして、後藤は浅く腰を落とした。軽く握った拳は、顎を挟むように畳んで胸の前に置く。
ブラフというなら、きっとすべてがブラフなのだ。
第一、なにか仕込んであったとして、この体格差でどう負けろという? こんなもの、ガブって押し潰しちまえば一発だ。
そう腹をくくったとき、狐目がまた絶妙のタイミングで口を挟んだ。
「毎度あり。健闘を期待してるよ……無双さん」
お前は五月蠅い、少し黙っていろ。そういうお前の物言いが、あいつを思い出させてむかつくんだ。
あいつ? そうか、この狐目のやり口はあの男にそっくりなんだ……。
散漫になりかけた意識をつなぎとめ、じりり、と、後藤は一足間合いを詰める。
それでも乱された思考は、遠い昔の記憶を脳裏に呼び起こしてくる。
「吉祥寺で、小さな道場を開いていてね。手っ取り早く看板選手がほしいんだよ」
客分扱いで構わないから……。
そう言ってそいつが声をかけてきたのは、食い詰めて行き場をなくした後藤が、裏の世界に爪先を突っ込みかけていたときのことだった。
一見流れの食客。
地まわりヤクザのお抱え用心棒。
腕に覚えさえあれば、腰抜けばかりのこの国で食い扶持に困ることはない。度胸さえあるのなら、〝それなりの選択肢〟というものが非合法の世界には存在する。そんな覚悟を決めた矢先に降って湧いた、天上からの蜘蛛の糸にも等しいスカウトだった。
名前は憶えていない。というより、初めから憶える気もなかったのが正解か。男はシュートスタイル・プロレスの黎明期、草分け団体の旗揚げに立ち会ったルチャドールという経歴をもった、すこぶるの変り種らしかった。
「どうかな? 後藤くん。そこらでメシでも食いながら」
もとより選択肢が残っていないのだから、後藤に断る理由はなかった。メシというから期待してみれば、連れて行かれたのはどこにでもある牛丼屋だった。
もっとも新崎のみすぼらしい身なりを見れば、それでも僥倖と言えたのかもしれない。
レジを囲むカウンターにならんで、後藤は特盛りで牛丼を二杯食った。
新崎は、壜ビールを舐めながらニコニコとそれを眺めていた。
――どうにも、やりにくいヤロウだな……。
食いながらと言うわりに、交渉が始まる気配は一向になかった。
毒を抜かれたというか、ペースを取られたというか、結局メシを食い終わる頃には、なし崩しに後藤は新崎とつるむことになっていた。ほんの六年ほど前の話だ……。
なりゆきとはいえ、始めてみると総合系のリングは案外と居心地がよかった。
元来センスに頼るところが多いスタイルの後藤だったから、ルールの制約は少ないほうが向いていたといってもいい。より過激さを求める風潮も相まって、凄惨なまでに血なまぐささを極める後藤の試合は、注目を集めるのにさほどの時間もかからなかった。
それがお前のウリだからね……悪戯坊主のように笑って、新崎もそれを容認した。
邪気のない、明け透けすぎる笑みだった。
「どうだい? 強そうでいいだろう」
自慢げに言って、無双の名で後藤を売り込んだのも新崎だ。
善し悪し云々は別として、無双の知名度が上がる度に試合のギャラは吊り上ったし、比例して道場に転がり込む銭の額も大きくなっていった。
本名よりその名で呼ばれることに慣れ始めた頃、かび臭い雑居ビルの二階にあった道場は中目黒に自社ビルを構えるまでになっていた。当初は数えるほどしかいなかった門下生も、いまでは一、二階をぶち抜いたジムに収まりきらないくらいになっている。
――それを、あのヤロウ……。
じりり――後藤はさらに半足ほど間合いを詰める。
空手衣は、いまだ動く素振りすら見せてはいない。
「だいぶ調子づいてるみたいだからね。お灸を据えてやるといいよ」
半年ほど前――これは、後藤に試合を持ちかけてきたときの新崎の台詞だ。
対戦相手は柔道から転進した、有望株のルーキーだという。世事に疎い後藤ですら名前と顔くらいは知っている、国体を三度制した五輪の銀メダリストだ。
今回は、やけに嗾けるな……。
訝しくも思ったが、間を置かず後藤は快諾した。
似かよった経緯にありながら明暗をわかつ優等生に少なからず嫉妬心はあったし、なにより是が非でもと懇願する新崎の熱意に、どんな形であれ応えたかったからだ。心酔こそしていないが、この男には引き上げてもらった恩がある。報いなければなるまい。
「そうしてくれると、俺も助かるよ」
そう言って、やはり新崎は笑っていた……。