文字数 2,224文字

 そしていま、こうしてここで、後藤は空手衣と向かい合っている。
 無論、古の剣豪の秘伝書など真に受けたわけではない。
 真に受けたわけではなかったが、ただ、どこの世界にも好事家というのはいる。そういう輩が、『裏五輪』とやらに懸賞をかけたのだ。放浪して流れついた後藤を雇った神戸の親分衆も、そんな物好きの中の一人だった。
「ただし、な……きっちり相手をブチのめして、ってことやで」
 おまけに、お前の身体でモノの真贋を確かめろ。そんなご丁寧な注文までついてきた。二週間ほど前、アブソリュート・ボクシングの佐久間(さくま)が空手衣に不覚を取るに及んで、不敗神話の信憑性が増したという理屈らしい。間の抜けた話である。
 しかし、仕事は仕事だった。
 するべきことは、するべきだろう。
 まして、目の前に立っている空手野郎は絶好のカモにしか見えなかった。これで生涯無敗を嘯くのだから、笑わせてくれるにもほどがある。
「まぁ、こっから先は、直接拳固で確かめてやるよ」
 ぼつり、と呟いて。
 じり、と、もう半足だけ後藤は間合いを詰めた。
 空手衣の青年は、依然としてのらくらと立ち尽くしている。
 彼我の距離、およそ五メートル――。
 もしもリングの上であったなら、ほぼ端から端に相当する間合いだ。さすがの後藤といえども、射程に捉えるためにはもう一足ばかり深く踏み込む必要がある。
 ――つっても、セオリーどおりに考えりゃあ……。
 重対軽の対戦において、軽量側が身軽さを利して撹乱を狙ってくるのは定石だ。悠長に構えて先手を取られでもすれば、先の展開が面倒にならないとは言い切れない。
 ならば、牽制を一つ挟んで畳みかけてやるか……。
 そう判断して――。
 後藤は、一息に地を蹴った。予備動作の一切ない、不意をつくような突進だ。
 蹴り足から生まれた瞬発力を腰の回転へ。
 腰の回転で増幅した勢いを振り出す手首のスナップへ。
 が、リードの役割を担う送り足が浮いた、寸分違わぬその刹那――
「ぐ……が……!」
 バチッ――。
 と、湿った音を立てて、拳大の石くれが後藤の顔面を打ち抜いた。固形質な痛みが頭の裏側に突き抜けて、意思を無視して緩んだ涙腺がわずかに視界を滲ませる。
 人中……。
 正中線にならぶ、鼻頭と上唇の間にある人体必討(じんたいひっとう)の急所への一撃であった。とっさに飛び退りながら上げたガードの上を、さらにもう一つの石くれがしたたかに打つ。
「ちいぃぃぃ!」
 気づかぬうちに、舌打ちが洩れていた。
 事態の把握に若干のタイムラグが生じたが、ジンジンと後頭部に残る鈍い疼痛は明らかに拳打によるカウンターを示唆していた。初撃と二撃目の間隔から見て取って、コンビネーション・ブローというより左右の正拳を一つずつといった印象だ。
 だとして――。
 直前の空手衣に動く素振りはなかった筈だ。仮に出足のタイミングを計られたとして、それなら五メートルからの距離を一瞬で詰めてきたということか?
 ――んな、馬鹿なことがあるわきゃねぇ!
 踏ん張った姿勢のままガードを固め、後藤は前腕の隙間から慌ただしく周囲をさぐる。
 俄かには認めがたい事実であったが、やはり視線の届く範囲からは空手衣が消えていた。同時にそれは、後藤が死角を取られたという不覚な現状をなにより如実に物語っている。
 ――クソッ、いったいなにがどうなってやがる……。
 得もいえぬ悪寒が、後藤の背筋を駆け抜けた。
 当然あるだろう追撃に対し、全身の筋肉を強張らせて最低限の防御を試みる。
 が、しかし。
「へぇ……総合系の人が打たれ強い、ってぇのは聞いてたけど」
 予想をあっけなく覆し、頓狂な声は後藤の右側やや後方――先刻登ってきたばかりの、薄ら長い石段のほうから聞こえてきた。弾かれたように振り向いた視界の端に、山門を背にして立つ白い空手衣の影が飛び込んでくる。
 ただし今度は、ただ立っているだけではなかった。
 スタンスを広めに取り、一応の構えらしき体勢を取っている。前傾するほどに背を丸め、だらりと垂らした両腕の指先は、なるに任せて軽く曲げられていた。
「あれを平然と凌いじまうとは思わなかったなぁ、ちょっとだけビックリしたよ……」
 心底意外という口振りで、青年は継ぐ。
 狐目のような賢しさは微塵も感じない、酒やけなのか、ヤニやけなのか、ブルースでも唄わせたら似合いそうな、少しばかり皺枯れたキーの高い声だった。
「てめぇ――!」
 なにをしやがった――という問いはすんでのところで呑み込んで、後藤はガード越しの隙間から用心ぶかく眼前の敵を注視する。
 にやけるでも、煽るでもなく、空手衣の青年は飄々とその視線をただ受け止めている。
 ――どうして、追い討ちをかけてこなかったのか?
 ――どうやって、瞬時にロングレンチの間合いを詰めたのか?
 一切の事柄が、後藤の常識からハミ出していた。
 たちの悪い冗談だ。
 そんな言い訳じみた思いさえ、気圧された心中には湧き上がっている。
 しかし、起きてしまったことをいまさら考えて、どうなるものでもないのは確かであった。
 ただ、一つだけハッキリとしていることは……。
 自分が手玉に取られてコケにされたという、屈辱的な現実だけである。暴発寸前に膨れ上がった感情をなだめ賺し、後藤は努めて冷静に観察をつづけた。


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