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 そうしてまず気づいたのが、構えを取って初めてわかる、青年の背中の微妙な盛り上がりであった。
 後背筋。菱形筋。僧帽筋。
 そういった背筋群がうっすらとせり上がり、呼吸に合わせてかすかな上下動をくり返している。つまり空手衣の体型は、背面の筋肉に特化して磨かれた、瞬発力重視の仕上げだと断定して構わない。なるほど、正面からでは細身に思えたのも頷ける。
 それを踏まえて考察すれば、サカリのついたオランウータンのような奇抜な構えにも合点がいった。カウンター狙いはカウンター狙いに違いなかろうが、下げたガードを餌にしての大技合わせでくるのは疑う余地もない。
 スタンスの幅と前傾姿勢から見当して、中段なら後ろ回し蹴り、上段なら胴回し回転蹴り――俗にいう、あびせ蹴りといったところで間違いないだろう。
 ――じゃあ、答えは簡単だ……。
 心中で呟いて、後藤は肩を怒らせながらさらにガードを上げてゆく。
 その両拳がちょうど鼻頭に触れる高さまで吊り上ったところで、へそを軸に折り曲げるようにして身体を〝く〟の字に畳み込んでゆく。
 ピーカブー・スタイル。
 変形でこそあるものの、元来は打撃系――それも、ショートレンジ偏重のブルファイターが好んで用いる、懐に潜り込むための強行スタイルである。
 しかし――。
 後藤が狙うのは、身を擦り合わせるような近接打撃戦ではない。アルマジロの如くガードを固めて狙うのは、強引に組み伏せてからの投げである。
 このまま摺り足でつめ寄りながらプレッシャーをかけ、業を煮やして突っかけてくるようならキャッチすればよし。もし手品まがいのフットワークを使われたとして、初動さえ見落とさなければ、小兵の一撃でガード越しのKOは絶対にあり得ない。
 ――さて、どう出るよ? 兄ちゃん……。
 後藤の腹の底に、愉悦にも似た興奮が込み上げた。獅子がウサギを、というよりは、猫が虫でじゃれる時のあの残忍な感覚だ。頭の芯にはまだカウンターの余韻も残っているが、この程度なら勝負に影響することもない。
 加えて、ここは……。
 緩衝材に護られたリングではなく、砂利を敷きつめた境内だ。
 地面なり石畳なりに落とせば腰骨ぐらい容易に砕けるだろうし、マウントを取ってぶん殴ってやれば頭蓋骨だって粉々になる。石灯篭の上に直接叩きつけてもいい。
 ――恨むなら、てめぇの馬鹿さ加減を恨むんだな……。
 片頬に、酷薄な引きつりを貼りつけて――
 ざりざりと音を立て、砂利を掻きわけながら後藤は歩を進める。
 カタカタと中指でリズムを取りながら、空手衣はじっとそれを待ち受けている。
 澱んだような。
 歪んだような。異様に密度の高い大気が空間を満たしていた。
 アップライトとノーガード――両腕のポジションの違いこそあれ、奇しくも同じクラウチング・スタイルで、双方が向かい合う形になっていた。
 一足。
 そして、また一足。
 ゆっくりと間合いが狭められるごとに、歪な空間は徐々に圧縮されてゆく。
 その間も後藤は嗾けるように圧力をかけつづけるが、ひたすら指先でリズムを刻むばかりで、空手衣はそこに乗る気配を一向に見せてはこない。
 ――どうしたよ? まさか、怖気づいちまったのかい……。
 ここで仕掛けてこないなら、もう半足詰めたところで後藤の距離だった。
 あくまでカウンターを狙うというのなら、力づくに捕まえてねじ伏せるだけの話である。
 それならそれで構わねぇ――ざりり、と、後藤は靴底を摺り……。
 ト、トン――
 と、空手衣の刻むリズムをはずし、変則なテンポで立てつづけにステップを二度踏んだ。高速で沈み込んだ上体が、地を這う弾道で空手衣の腰下めがけて奔ってゆく。
 低空タックル――。
 そう呼ばれる、アマレス仕込みの組みつきであった。大技の割って入る隙などない、完璧なタイミングで決まった急襲のタックルの筈であった。の、だが――。
「なっ……!」
 後藤の確信は、またしても無情に裏切られた。
 その踏み込みが再度地を踏み締めることはなく、着地の直前に掃い飛ばされた送り足は、横滑りしながら大きく外側に流されていった。
 必然、後藤はつぶれた蛙のように地べたに這いつくばる。這いつくばりながら顔だけで振り仰いだ視界を、照準のように固定された左の掌底が目一杯に遮っていた。
 ――くそ、また嵌められたのか!
 この時点に到って、後藤はようやく得心する。
 下げたガードも、あからさまな前傾姿勢も、すべてが別の意味での餌だったのだ。
 空手衣が目論んだのは大技のカウンターではなく、体格差を埋める据え打ち――その前段階としての、体勢を大きく崩すための下段への攻撃。それも、よくあるローキックなどではない。伝統派の空手家が多用する、横合いから内足で凪ぐ確実で精密な出足払い。
 と、すれば、次にくるのは――。
 目隠しされた指の隙間から、胸板に隠れるほど引きつけられた逆手の右拳が覗いていた。
 それはまるで、教則本に載っている写真を彷彿とさせるような、見惚れてしまうくらいに見事な正拳突きの基本形であった。
「ぐ……う……」
 食い縛った歯の間から、呻きとも呼気ともつかない声が洩れ落ちる。
 戦慄に見開かれた両眼が、断罪を待つ咎人のそれで月下に晒された影帽子を凝視していた。
 よもや、この俺が――。
 この後藤栄治が、教科書拳法なんぞに負けるのか。
 ――六観音橋、裏商店会。
 策士の狐目と、刺客の空手衣と。
 思えば最初から、後藤はこのコンビ二人を相手に立ち合っていたのかもしれない。片方が自軍に有意な場を形成し、もう片方がその利を活かして敵を封殺する。あるいはその手練手管こそ、『裏五輪』とやらの真価だったとしたら……。
 そこまで考えたところで、後藤の残り時間はアップした。
 決着までのコンマ数秒の走馬灯の中、ふと後藤の脳裏をよぎったのは、狐目でも新崎でもなく、皮肉にもあの日のルーキーの姿だった。
 もしこれを因果応報と呼ぶのなら、それもそれで悪くはない。
 そんなふてぶてしい諦観を断ち切るように、ヒュッと空を裂く音がする。
 そして収縮する瞳孔が捉えた、絶対的にして鮮烈な、その最後の光景は――理想どおりの軌道に沿って顔面に振り下ろされてくる、まさに絵に描いたように教科書どおりな、右正拳による順突きの鉄槌の如きシルエットであった……。

〈了〉

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