もう一人のユダ
文字数 2,822文字
由梛が登校したのは、始業式から一週間後のことだった。
徹がそのことを知ったのは、クラスメートとの会話だった。
「そういえば、今日橋本見たよ」
登校し、教室の自分の席に着いたところで、徹は前の席の生徒に話をふられた。去年、徹と由梛と同じクラスだった男子生徒だった。
「そうなの?」
徹はどう返すべきかわからず、自分でも気が抜けていると感じるような答えを返す。
「今日校門入ったとこで見たんだよ。つか、お前ら仲良かったじゃん? 知らないの?」
「いや…。一緒に登校とかしてないし…」
「そんなもんか? じゃあ、この頃会ってないん?」
「うん。まあね」
そこまで由梛と仲がいいと思われていることが正直意外だった。
徹は、恐る恐るたずねる。
「どんな感じだった?」
「どうって、べつに普通だけど。話したわけじゃないし」
「…そう」
由梛の教室は、廊下を曲がった先にある。そうなると、意外にも顔を合わせる機会が少ないのだ。
そして、徹はなるべく顔を合わせたくないと考えてしまっていた。
徹と由梛は、内面のことを語り合うようなシリアスな関係ではなかった。
ならば、いつも笑いあっているような関係なのかといえば、それも違う。そもそも、由梛が大爆笑しているようなところなど、徹は見たことが無い。
しかし、徹が微笑んでいるところは、校内で一番見たことがある人だろうと思う。
二人は、そんな関係だった。
そもそも、徹は友達付き合いが苦手なタイプだった。
それをはっきりと意識したのは、中学に入学したころのことだった。
新しい知り合いが増える中で、徹は自分が極度の人見知りであることを自覚した。
初めて出会う人と上手く話をすることができず、緊張のあまり思ってもいないことを口走った。
その結果、性格の悪い人、なんだかよくわからない人と思われ、友達を失った。
徹はその記憶を引きずり続け、中学三年間はまともに友達ができなかった。
不安を抱えながら入学した高校で、徹は由梛と出会った。
最初は、よくあるように、名前順で席が前後になったことがきっかけだった。
話しかけたのは徹からだ。
黒板を消すのが早い先生の授業で徹はノートを書くのが間に合わず、黒板を消されてしまったのだ。
徹は困ってしまい、前の席の由梛の背中をつついた。
振り向いた由梛に徹は言った。
「ごめん。さっきの授業のノート、見せてもらえないかな。すぐ返すから」
由梛は真顔のままで、徹の隣の席の女子に言った。
「こいつにノート見せてやって」
ノートはその生徒に貸してもらえたが、徹は由梛に面倒なやつと嫌われたのだと思った。
しかし、徹がノートを写している時に由梛は言った。
「悪いけど、俺ノートとってないんだ」
不思議なものだが、その時に徹は由梛と仲良くなれそうな気がしたのだ。
今ならわかるが、その時、徹は由梛の本質を理解したのだった。
由梛は人にどう思われるかを気にしていない。
また同時に、人のことを気にしていなかった。
それは、人にどう思われるか気にするあまり緊張してしまう徹にとって、安心できる性格だった。
その日からなんとなく二人は仲良くなり、部活に入っていない同士、一緒に帰ることも多くなった。
そして、一人友達ができた安心感から、徹は他の生徒ともそれなりに話せるようになった。
由梛はその性格上、徹意外に好んで話す人がいなかった。
しかし、徹の方では放課後はともかく、教室では他の明るい友人と話す機会が多かった。
それゆえに、徹と由梛が仲がいいと思われていることが意外だったのだ。
由梛と顔を合わせたのは、やはり放課後のことだった。徹の教室に、ひょっこり顔を出したのだ。
近づいてきた由梛に、徹は言った。
「ああ、ひさしぶり」
ひさしぶりに見る由梛は、少し痩せて、長い前髪が片目を隠していて、表情がよくわからなかった。
しかし、よく考えればそれは大きな変化ではないはずだった。
もともと痩せ型で、前髪も長かった。
だから一番の変化はまとう空気なのだろう。
それは徹以外はなかなか気づかないかもしれない。
しかし、今まで感じていた気安さのようなものが、今の由梛には感じられない。
徹は、それでもなるべく普段通りにしてみようと思った。
鞄を持って声をかける。
「帰ろっか」
由梛は何も答えなかったが、それでも徹と共に教室の外へ向かった。
そのまま下駄箱を過ぎ、校門を通り抜けても、由梛は無言のままだった。
そこまでは、下校する生徒たちの声で沈黙もさほど気にはならなかったが、そこからは無理だった。
この高校は、二つの駅を使う生徒で別れる。
二人が使う駅は、生徒が少ない方の駅だった。全く生徒がいないわけではないが、下校するグループの間隔は大分開いている。裏通りを通るので、生徒意外の通行もほとんど無い。
それゆえに、沈黙が浮き彫りになった。
ちょうど曲がり角を曲がった道で、前にも後ろにも生徒の姿がなくなった。
沈黙に耐えられず、何か言おうと徹が息を吸ったところで、おもむろに由梛が口を開いた。
「誰かが俺を呼ぶんだ」
「…え?」
なんの話をしているのかわからず徹が思わず聞き返すと、由梛はしばらく沈黙した。
しかし、それが答えるための沈黙だと、なぜかわかった。
そして由梛は続けた。
「俺を裏切りものだと言うんだ。そして、自分と同じだと、わたしとお前は同じだと言うんだ」
「…なんの話だ?」
由梛は、徹を見ずに、前を見て続けた。
「行いも同じで、与えられた名も同じだ。それはお前がわたしだからだと言い続けるんだ」
その声は、知っている由梛の声とは違った。
いや、声自体は同じなのだ。
しかし、徹が知っている由梛の声は、もっと自信に満ちたものだった。今は、不安に身を縮める子供のようだ。声を震わせないようにと、気を張る子供の。
徹は不安になった。
「なあ、由梛」
「その名前を呼ぶな!」
徹は急に聞いたことのない大声を出した。それは、強く尖るような声だった。
由梛は息を荒げて続けた。
「その名を呼ぶな。俺はあいつとは違う。二度とその名を呼ぶな」
そして、虚空を見つめて言った。
「最近、思い出せないことがあるんだ。気がつくと、俺の前にパンが散らばっている。そのかけらはいつも12個だ。俺は、なぜそこにパンがあるのか思い出せない。でも、たぶん、あれはあいつが…」
徹は由梛の突然の怒りが怖かった。
しかし、それ以上に由梛に何が起こっているのかが怖かった。
だから、勇気を出して尋ねた。
「その、ゆ、…お前が言ってるあいつって、誰なんだ?」
由梛は答えた。
「イスカリオテのユダだ」
そして、それきり由梛は黙ってしまった。
徹がそのことを知ったのは、クラスメートとの会話だった。
「そういえば、今日橋本見たよ」
登校し、教室の自分の席に着いたところで、徹は前の席の生徒に話をふられた。去年、徹と由梛と同じクラスだった男子生徒だった。
「そうなの?」
徹はどう返すべきかわからず、自分でも気が抜けていると感じるような答えを返す。
「今日校門入ったとこで見たんだよ。つか、お前ら仲良かったじゃん? 知らないの?」
「いや…。一緒に登校とかしてないし…」
「そんなもんか? じゃあ、この頃会ってないん?」
「うん。まあね」
そこまで由梛と仲がいいと思われていることが正直意外だった。
徹は、恐る恐るたずねる。
「どんな感じだった?」
「どうって、べつに普通だけど。話したわけじゃないし」
「…そう」
由梛の教室は、廊下を曲がった先にある。そうなると、意外にも顔を合わせる機会が少ないのだ。
そして、徹はなるべく顔を合わせたくないと考えてしまっていた。
徹と由梛は、内面のことを語り合うようなシリアスな関係ではなかった。
ならば、いつも笑いあっているような関係なのかといえば、それも違う。そもそも、由梛が大爆笑しているようなところなど、徹は見たことが無い。
しかし、徹が微笑んでいるところは、校内で一番見たことがある人だろうと思う。
二人は、そんな関係だった。
そもそも、徹は友達付き合いが苦手なタイプだった。
それをはっきりと意識したのは、中学に入学したころのことだった。
新しい知り合いが増える中で、徹は自分が極度の人見知りであることを自覚した。
初めて出会う人と上手く話をすることができず、緊張のあまり思ってもいないことを口走った。
その結果、性格の悪い人、なんだかよくわからない人と思われ、友達を失った。
徹はその記憶を引きずり続け、中学三年間はまともに友達ができなかった。
不安を抱えながら入学した高校で、徹は由梛と出会った。
最初は、よくあるように、名前順で席が前後になったことがきっかけだった。
話しかけたのは徹からだ。
黒板を消すのが早い先生の授業で徹はノートを書くのが間に合わず、黒板を消されてしまったのだ。
徹は困ってしまい、前の席の由梛の背中をつついた。
振り向いた由梛に徹は言った。
「ごめん。さっきの授業のノート、見せてもらえないかな。すぐ返すから」
由梛は真顔のままで、徹の隣の席の女子に言った。
「こいつにノート見せてやって」
ノートはその生徒に貸してもらえたが、徹は由梛に面倒なやつと嫌われたのだと思った。
しかし、徹がノートを写している時に由梛は言った。
「悪いけど、俺ノートとってないんだ」
不思議なものだが、その時に徹は由梛と仲良くなれそうな気がしたのだ。
今ならわかるが、その時、徹は由梛の本質を理解したのだった。
由梛は人にどう思われるかを気にしていない。
また同時に、人のことを気にしていなかった。
それは、人にどう思われるか気にするあまり緊張してしまう徹にとって、安心できる性格だった。
その日からなんとなく二人は仲良くなり、部活に入っていない同士、一緒に帰ることも多くなった。
そして、一人友達ができた安心感から、徹は他の生徒ともそれなりに話せるようになった。
由梛はその性格上、徹意外に好んで話す人がいなかった。
しかし、徹の方では放課後はともかく、教室では他の明るい友人と話す機会が多かった。
それゆえに、徹と由梛が仲がいいと思われていることが意外だったのだ。
由梛と顔を合わせたのは、やはり放課後のことだった。徹の教室に、ひょっこり顔を出したのだ。
近づいてきた由梛に、徹は言った。
「ああ、ひさしぶり」
ひさしぶりに見る由梛は、少し痩せて、長い前髪が片目を隠していて、表情がよくわからなかった。
しかし、よく考えればそれは大きな変化ではないはずだった。
もともと痩せ型で、前髪も長かった。
だから一番の変化はまとう空気なのだろう。
それは徹以外はなかなか気づかないかもしれない。
しかし、今まで感じていた気安さのようなものが、今の由梛には感じられない。
徹は、それでもなるべく普段通りにしてみようと思った。
鞄を持って声をかける。
「帰ろっか」
由梛は何も答えなかったが、それでも徹と共に教室の外へ向かった。
そのまま下駄箱を過ぎ、校門を通り抜けても、由梛は無言のままだった。
そこまでは、下校する生徒たちの声で沈黙もさほど気にはならなかったが、そこからは無理だった。
この高校は、二つの駅を使う生徒で別れる。
二人が使う駅は、生徒が少ない方の駅だった。全く生徒がいないわけではないが、下校するグループの間隔は大分開いている。裏通りを通るので、生徒意外の通行もほとんど無い。
それゆえに、沈黙が浮き彫りになった。
ちょうど曲がり角を曲がった道で、前にも後ろにも生徒の姿がなくなった。
沈黙に耐えられず、何か言おうと徹が息を吸ったところで、おもむろに由梛が口を開いた。
「誰かが俺を呼ぶんだ」
「…え?」
なんの話をしているのかわからず徹が思わず聞き返すと、由梛はしばらく沈黙した。
しかし、それが答えるための沈黙だと、なぜかわかった。
そして由梛は続けた。
「俺を裏切りものだと言うんだ。そして、自分と同じだと、わたしとお前は同じだと言うんだ」
「…なんの話だ?」
由梛は、徹を見ずに、前を見て続けた。
「行いも同じで、与えられた名も同じだ。それはお前がわたしだからだと言い続けるんだ」
その声は、知っている由梛の声とは違った。
いや、声自体は同じなのだ。
しかし、徹が知っている由梛の声は、もっと自信に満ちたものだった。今は、不安に身を縮める子供のようだ。声を震わせないようにと、気を張る子供の。
徹は不安になった。
「なあ、由梛」
「その名前を呼ぶな!」
徹は急に聞いたことのない大声を出した。それは、強く尖るような声だった。
由梛は息を荒げて続けた。
「その名を呼ぶな。俺はあいつとは違う。二度とその名を呼ぶな」
そして、虚空を見つめて言った。
「最近、思い出せないことがあるんだ。気がつくと、俺の前にパンが散らばっている。そのかけらはいつも12個だ。俺は、なぜそこにパンがあるのか思い出せない。でも、たぶん、あれはあいつが…」
徹は由梛の突然の怒りが怖かった。
しかし、それ以上に由梛に何が起こっているのかが怖かった。
だから、勇気を出して尋ねた。
「その、ゆ、…お前が言ってるあいつって、誰なんだ?」
由梛は答えた。
「イスカリオテのユダだ」
そして、それきり由梛は黙ってしまった。