第4話
文字数 1,775文字
『姫君がどういう方であったかは分かりません。当時、詳しく聞き出そうとする者はなかったようです。知らなければ追っ手が来ても答えようがありませんから』
後に姫君は土地の者と結婚した。やがて子が生まれ、孫が生まれ――。
『我が家では、恩人である四郎様を大切にお祀 りしてきました。代々未婚の娘が祠の世話をするしきたりになっています』
私たちが会った男性は姫君の子孫にあたるそうだ。先月娘が結婚し、今は妻が管理を代行しているのだと、そんなことまで教えてくれた。
図書館からの帰り道。
若君は気が抜けたようにぼんやりとして、心なしか存在感も薄れて見えた。
「先の学者どのには、お館 さまの面影があった」
ぽつりと若君が言う。
「わしは姫が幼きころから、ずっとおそばでお守りしてきた」
しばらく間を置いて、またぽつり。
「いつであったか。自転車に乗れるようになった、とおっしゃったことがある」
それは彼がお仕えした姫君ではあり得ない。きっとあの男性の娘さんだ。若君が混同するくらいだから二人はよく似ていたのだろう。
「わしは今、その自転車に乗っているのだな」
亡き人の時間の感覚は分からない。亡き人にこの世がどのように見えているのかも。
昔から今に至るまで、たくさんの女性があの祠の世話をしてきたのだろう。彼女たちは入れ替わり立ち替わり、現れては去って行った。そのうちの何人が、姫君との思い出として若君の記憶に紛れ込んでいるのだろう。
「もし、もう一度会いたいのなら」
あの男性の娘さんなら、ちょっと強引ではあるけれど、直接話を聞きたいと頼めば引き合わせてもらえるかもしれない。
そう提案してみると、
「不要」
きっぱりと若君は答えた。
いくら姫君そっくりでも、たとえ生まれ変わりであったとしても、その人は
「嫁がれたのなら、お守りするのは夫君たる男の務め。わしはお役御免だ」
それきり若君は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
前方にアパートが見えてきた。
祠の前にさしかかると、すっと背中から気配が離れた。
「恩義、忘れぬ」
ささやくような声が耳のそばを通り過ぎる。
「この礼は、いずれ必ず……」
若い落ち武者の影が緑の中に消えた。私は自転車を止めて祠に手を合わせた。
月曜日。私は朝7時にアパートを出た。
祠の前に人影はなく、摘んだばかりらしい花が供えられていた。
夕刻。仕事を終え、久しぶりに辺りが明るい内に帰路につく。
祠の前の花はまだ瑞々 しい。
一人暮らしのアパート。
ドアの鍵を開け電気を付けると、靴を脱ぎながら誰に言うともなく「ただいま」と呟いた。
すると
「おお、無事帰ったか」
中から返事が返ってきた。
びくっと顔を上げると、部屋の真ん中に若君が座っている。
小さな烏帽子 に紺の直垂 。おどろおそろしい落ち武者から一転、見違えるように美々しい若武者ぶりだ。
どうせなら最初からこの格好で出てくれればよかったのに。どちらにしろ、ありがたくはないけれど。
「何という顔だ。わざわざ足を運んでやったというに」
ぷくっと不服そうに若君が頬を膨らませた。霊の訪問が嬉しい人はいないと思う。たぶん。
「何のご用でしょう」
「おまえに恩を返そうと思ってな」
「恩、ですか」
「うむ。姫のご無事をお守りするというご下命を果たし、わしは今や自由の身。そこで世話になったおまえに報いるため何ができるか、じっくり考えてみたのだ」
軽く咳払いすると、若君はすっと膝を進めた。
何をしてくださるおつもりか。嫌な予感しかない。
「聞いて喜べ。わしはこれから、おまえを守護することにした」
「な、なん――?」
声が上ずった。おのれ、余計なことを思いつきなさって。
「あの、成仏はしなくていいのですか?」
「急ぐこともあるまい」
「それに、私などのためにそこまでしていただくのは……」
「姫には遠く及ばぬが、おまえもなかなかに見所 のある女子 ぞ。わしの目に狂いはない。自信を持て」
若君が胸を張る。そうではなくて。
「この佐伯四郎公隆、おまえがこの世にある限り全力を尽くして守る所存」
いらない。全力でいらない。
すっと背筋を伸ばして座る若君は、年のいった座敷童のよう。脱力した私を曇りなき眼で見上げている。
――だめだ。お断りの仕方が分からない。
社会人一年目の四月。
私の一・五人暮らしが始まった。
後に姫君は土地の者と結婚した。やがて子が生まれ、孫が生まれ――。
『我が家では、恩人である四郎様を大切にお
私たちが会った男性は姫君の子孫にあたるそうだ。先月娘が結婚し、今は妻が管理を代行しているのだと、そんなことまで教えてくれた。
図書館からの帰り道。
若君は気が抜けたようにぼんやりとして、心なしか存在感も薄れて見えた。
「先の学者どのには、お
ぽつりと若君が言う。
「わしは姫が幼きころから、ずっとおそばでお守りしてきた」
しばらく間を置いて、またぽつり。
「いつであったか。自転車に乗れるようになった、とおっしゃったことがある」
それは彼がお仕えした姫君ではあり得ない。きっとあの男性の娘さんだ。若君が混同するくらいだから二人はよく似ていたのだろう。
「わしは今、その自転車に乗っているのだな」
亡き人の時間の感覚は分からない。亡き人にこの世がどのように見えているのかも。
昔から今に至るまで、たくさんの女性があの祠の世話をしてきたのだろう。彼女たちは入れ替わり立ち替わり、現れては去って行った。そのうちの何人が、姫君との思い出として若君の記憶に紛れ込んでいるのだろう。
「もし、もう一度会いたいのなら」
あの男性の娘さんなら、ちょっと強引ではあるけれど、直接話を聞きたいと頼めば引き合わせてもらえるかもしれない。
そう提案してみると、
「不要」
きっぱりと若君は答えた。
いくら姫君そっくりでも、たとえ生まれ変わりであったとしても、その人は
彼の
姫君ではない。「嫁がれたのなら、お守りするのは夫君たる男の務め。わしはお役御免だ」
それきり若君は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
前方にアパートが見えてきた。
祠の前にさしかかると、すっと背中から気配が離れた。
「恩義、忘れぬ」
ささやくような声が耳のそばを通り過ぎる。
「この礼は、いずれ必ず……」
若い落ち武者の影が緑の中に消えた。私は自転車を止めて祠に手を合わせた。
月曜日。私は朝7時にアパートを出た。
祠の前に人影はなく、摘んだばかりらしい花が供えられていた。
夕刻。仕事を終え、久しぶりに辺りが明るい内に帰路につく。
祠の前の花はまだ
一人暮らしのアパート。
ドアの鍵を開け電気を付けると、靴を脱ぎながら誰に言うともなく「ただいま」と呟いた。
すると
「おお、無事帰ったか」
中から返事が返ってきた。
びくっと顔を上げると、部屋の真ん中に若君が座っている。
小さな
どうせなら最初からこの格好で出てくれればよかったのに。どちらにしろ、ありがたくはないけれど。
「何という顔だ。わざわざ足を運んでやったというに」
ぷくっと不服そうに若君が頬を膨らませた。霊の訪問が嬉しい人はいないと思う。たぶん。
「何のご用でしょう」
「おまえに恩を返そうと思ってな」
「恩、ですか」
「うむ。姫のご無事をお守りするというご下命を果たし、わしは今や自由の身。そこで世話になったおまえに報いるため何ができるか、じっくり考えてみたのだ」
軽く咳払いすると、若君はすっと膝を進めた。
何をしてくださるおつもりか。嫌な予感しかない。
「聞いて喜べ。わしはこれから、おまえを守護することにした」
「な、なん――?」
声が上ずった。おのれ、余計なことを思いつきなさって。
「あの、成仏はしなくていいのですか?」
「急ぐこともあるまい」
「それに、私などのためにそこまでしていただくのは……」
「姫には遠く及ばぬが、おまえもなかなかに
若君が胸を張る。そうではなくて。
「この佐伯四郎公隆、おまえがこの世にある限り全力を尽くして守る所存」
いらない。全力でいらない。
すっと背筋を伸ばして座る若君は、年のいった座敷童のよう。脱力した私を曇りなき眼で見上げている。
――だめだ。お断りの仕方が分からない。
社会人一年目の四月。
私の一・五人暮らしが始まった。