3 大江健三郎と内向の世代

文字数 1,458文字

3 大江健三郎と内向の世代
 内向の世代の作家は大江健三郎とほぼ同年代である。学生作家として華々しくデビューした彼は、戦後文学派の継承者と戦後民主主義者を自任し、その課題を作品に吸収した上で、日本近代文学の集大成を試みる。この巨大な作家の存在は、書きうるものが残されていないと同年代の文学青年たちを抑圧する。内向の世代の作家はまさにそういう若者たちである。

 日本近代文学の集大成を成し遂げようとした大江だったが、大きな社会的・歴史的変化によってそのプランの有効性自体が疑われる状況に直面する。日本近代文学が前提としていた「風景」が変容したからである。

 1960年に始まった池田勇人内閣が掲げる所得倍増計画実施のため、急速な工業化が進展して、日本社会は高度経済成長に突入し、64年10月10日、アジアで初の五輪が東京で開幕する。農業を中心とする第一次産業から第二次産業・第三次産業へ、すなわち農村から大都市への大量の職業移動が起こる地域移動が発生している。

 その後を継いだ佐藤栄作内閣は全国総合開発計画を打ち出し、地域間の均衡ある開発を促進するため、全国のインフラ整備を推し進める。それに伴い、日本列島の風景が一変していく。高度経済成長により農村を中心とした伝統的な生産手段・生産様式が衰退し、都市と農村の対立は終わり、日本中で都市化=均質化が始まる。

 近世の初めの17世紀、徳川幕藩体制が確立し、戦乱の時代が終わり、日本全国各地で、さまざまな規模で開発が推進される。それは大開発の時代とも呼べるもので、あまりの乱開発ぶりのために、幕府が規制令を出すほどである。この開発によって生まれた景観は、近代に入っても残る。それが変貌したのがこの高度経済成長である。

 1965年、「社会階層と社会移動全国調査(SSM調査: The national survey of Social Stratification and social Mobility) 」の第二画調査が行われる。多くの人々は自分が「中流」に属しているという意識を持ち、中流社会が成立していると報告している。それは四代目桂米丸が落語でとりあげるような家庭である。

 さらに、1972年、日本列島改造計画を訴える田中角栄内閣が発足する。この間、日本の自立を唱えた新左翼運動が退潮し、公害問題といった高度経済成長による歪みが露呈している。加えて、ベトナム戦争は泥沼化し、米中が接近、ドル・ショックやオイル・ショックなどにより、戦後の世界体制の構造が揺らぎ始める。

 風景に結びついている日本近代文学は、そのため、変わらざるをえない。大江が『万延元年のフットボール』で描いた「根拠地」はもはやない。と同時に、柄谷行人が『日本近代文学の起源』の中で明らかにしているように、内面も風景と密接に結びついている以上、新たな文体が必要となる。

 内向の世代は、こうした社会的・歴史的背景の下、登場する。日本近代文学において、「近代的自我の確立」は主要なテーマであるが、内向の世代はその不可能性を明らかにする。内面は確かな実体を持ったアイデンティティではなく、関係性そのものにほかならない。はっきりとした超えるべき悩みを抱え、それと格闘する若者に代わり、彼らの作品では、病んだ心の持ち主が主人公となるのは当然であろう。

 大江にとって、「われらの時代」のように、主語は一人称複数形であるが、彼らにはそれを使うことはありえない。「内向の世代」には”My Generation”がふさわしい。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み