三 一郎太、猫又に言伝する
文字数 1,307文字
それから、一時間も経ったろうか。
数組の観光客グループを見送り、ぼんやり座っているのも飽きてきたころ、彼女はようやくやってきた。「どんな姿をしていても分る」、と。なるほどこれは、僕でなくとも見えれば分る。
裾つぼまりの袿 に、市女笠 、虫垂衣 。重そうな葛籠 を背負って歩いてくる、妙齢の女性。これはあれだ、壺装束 というやつだ。
絵巻物とか古文の挿絵の知識しかないけど、この格好で葛籠を背負ってるのは初めて見たな。まあ、従者がいなければそうなるのか……。
壺装束の人は、遠巻きに観察している僕の視線に気が付くと、やおら手にした杖を突きつけてきた。
「おまえ、我 が見えているな!」
艶 やかな黒髪の間から猫のような耳が生え、顔が毛むくじゃらになり、鼻先がぬうっと突き出す。鋭い牙の並ぶ口から、真っ赤な舌が覗いている。背後からは、鞭のようにしなる白い尻尾が現れた。先が割れている。
なんと、この人、『猫又 』だ。
「なんとなんと、おまえのような輩に見破られるとは、我が隠形 も地に落ちたものよ……。だが命だけは取らずにおいてやろう、不逞 なる輩 よ、我が眼前より疾 くと去 ね!」
「いえ、あの、あなたに伝言があるのですが……緑の髪の人から」
「なんじゃ? 緑の……? おお、御前 か。御前の使者なれば、まあ相応か。それを早く言え」
猫又はするすると人の姿に戻った。今は、くりくりとした目とふっくらとした頬が愛らしい、十代後半の女の子のように見える。猫っぽい妖艶な美女と言うより、リスっぽい愛嬌のある美人だ。
「それで御前……言伝 られた方はどうした?」
「時間がないから、と先に帰られました」
「おお、そうか! ならば良かった。人身事故で電車が遅れてしまってな。気が急いていたのだ。
そう長いこと、御身 から離しておくわけにはいかんからな」
壺装束の猫又は、葛籠を背負ったまま、どっこらせ、とベンチに腰掛けた。
「いやはや。たまの遠出は疲れるな。街中では仕方ないとはいえ、今様 の衣装はあまり好かんのだ。ようやく慣れた装束に戻ってみれば、おまえのような若輩に、隠形を見破られるしな。
ところでおまえ、水を持っておらんか?」
水か。水筒のお茶の他に、ペットボトルの水を予備として持ってきてはいる。幸いまだ口を切っていなかったので、それをそっと差し出してみた。
「おう。すまんがキャップを取ってくれ。そいつは開けづらくていかん。うん、ありがとう。……いや、染み入るな。助かった。それで、伝言って何?」
頑張って威厳ありげに話していたようだが、終わりの方は、明らかに現代語になっている。古き妖物も、長く市井 で暮らしていれば、おのずと人間の使う折節 の言葉や習慣が混ざってきてしまうものなのかもしれない。面白いな。そういえば、沼のお社様 は相当古い時代から在 す神様だが、古語は全く話さないし、たまに姿を現したまま、現代人の波に完全に溶け込んでいる時がある。あれはあれで、また違う方向の努力が必要なのかもしれないけど。
あ、そうだ。とりあえず、言伝てを。
「あの、『供養塔のあたりにシビトタケが生えてしまった。危ないから御参りはせず、まっすぐ帰ってくるように』だそうです」
数組の観光客グループを見送り、ぼんやり座っているのも飽きてきたころ、彼女はようやくやってきた。「どんな姿をしていても分る」、と。なるほどこれは、僕でなくとも見えれば分る。
裾つぼまりの
絵巻物とか古文の挿絵の知識しかないけど、この格好で葛籠を背負ってるのは初めて見たな。まあ、従者がいなければそうなるのか……。
壺装束の人は、遠巻きに観察している僕の視線に気が付くと、やおら手にした杖を突きつけてきた。
「おまえ、
なんと、この人、『
「なんとなんと、おまえのような輩に見破られるとは、我が
「いえ、あの、あなたに伝言があるのですが……緑の髪の人から」
「なんじゃ? 緑の……? おお、
猫又はするすると人の姿に戻った。今は、くりくりとした目とふっくらとした頬が愛らしい、十代後半の女の子のように見える。猫っぽい妖艶な美女と言うより、リスっぽい愛嬌のある美人だ。
「それで御前……
「時間がないから、と先に帰られました」
「おお、そうか! ならば良かった。人身事故で電車が遅れてしまってな。気が急いていたのだ。
そう長いこと、
壺装束の猫又は、葛籠を背負ったまま、どっこらせ、とベンチに腰掛けた。
「いやはや。たまの遠出は疲れるな。街中では仕方ないとはいえ、
ところでおまえ、水を持っておらんか?」
水か。水筒のお茶の他に、ペットボトルの水を予備として持ってきてはいる。幸いまだ口を切っていなかったので、それをそっと差し出してみた。
「おう。すまんがキャップを取ってくれ。そいつは開けづらくていかん。うん、ありがとう。……いや、染み入るな。助かった。それで、伝言って何?」
頑張って威厳ありげに話していたようだが、終わりの方は、明らかに現代語になっている。古き妖物も、長く
あ、そうだ。とりあえず、言伝てを。
「あの、『供養塔のあたりにシビトタケが生えてしまった。危ないから御参りはせず、まっすぐ帰ってくるように』だそうです」