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文字数 1,797文字

 ライアンは傍らに置いてあるバスケットから、またひとつスコーンを取った。
 ウィンバック家のコック、マクミラン夫人自慢のレシピだ。いくつだって食べられる。
 座っているのは、路肩に停めた二頭立て馬車の、扉を開けっぱなしにした床だった。そこに外向きに腰かけ、足をぶらぶらさせながら今週見た人間の話をする。
 これが、今のライアンの副業だった。
 いつもはわざわざタウンハウスまで訪ねていくのだが、今日は趣向を変えてみるらしい。
 その副業を依頼してきた男爵家のお坊ちゃま、レイモンド・ウィンバックは内部の絹張りの座席に腰掛け、手にしたステッキの宝石飾りを手でいじりながら、ライアンの下町訛りの激しい口調に耳を傾けている。
 屋根つき馬車の陰になっているその表情はライアンからはよく見えなかったが、時おり抑えた笑い声が聞こえるので、話を楽しんでいるのは間違いないようだった。
 もう一時間ほど、こうしている。
 最初は珍しがって覗きに来ていたライアンの仕事仲間たちも、スコーンをひとつずつ貰ったあとは、さっさと自分たちの持ち場に戻ってしまった。いつまでもたむろっていると、彼らをまとめている親方に売り上げが下がると叱られるからだ。
 ライアンのぶんはレイモンドが前もって見込みぶんを支払ったので、放っておいているだけだった。
 そして通りすがる紳士淑女の面々はと言えば、いったん目を見開いたあとは、まるで見てはいけないものを見てしまったように、すっと目を逸らした。
 裕福な貴族のステイタスである二頭立て屋根つき馬車はこういう街ではあくまで通り過ぎるもので、長い間の停車、しかも見るからに下層階級の少年が座って口をもぐもぐさせているなど、あってはならないことなのだ。
 そんなわけで、まるで昼間の通りに突然現れた幽霊のような反応を受けながら、馬車はそのままそこにいた。馬や馭者は、これ幸いと居眠りをしている。
 やがて勤め人たちが会社のビルから吐き出されるころ、ようやく目当ての人間が現れた。
 モリスだ。
 いつものように下宿先へと歩いて帰るところだった彼は、見知った馬車が我がもの顔で停まっていることに驚いて足を止めた。そして一瞬で状況を見て取ると、他人のふりをして引き返そうとした。

「あ、旦那だ!こっち、こっち!」

 しかし目ざとく気づいたライアンが、食べかけていたスコーンを飲み込み、大声で呼んだ。
 それを合図に、レイモンドが顔を出す。

「どうしたんですか」

 他人のふりは諦め、しかたなく馬車に近づいてから訊くと、肩を竦めてみせた。

「ホッブス夫人に夕食に呼ばれてね。迎えに来た」

 そのこと自体には、あまり驚かなかった。
 レイモンドの推薦もあって、あれからあっさりと下宿が決まったホッブス夫人宅だが、なぜかそれ以来レイモンドもやたらと入り浸るようになっていたからだ。

「待っていればいいじゃないですか。なんでわざわざ?」

 乗り込みながら言うと、レイモンドの目が泳いだ。まるで叱られた子供のようだ。

「お説教が始まったんで、逃げてきた」

 なんと。そのままだった。
 レイモンドには、まだまだそういう子供っぽいところが残っていた。裕福な男爵家の一人息子というだけでなく、赤ん坊の頃は身体が弱かったとかで、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。
 つまり、あまり打たれ強くないのだ。
 もっとも、レイモンドが少年の頃に教育係兼世話役として雇われたというホッブス夫人からすると、そのあたりこそを心配して説教がちになってしまうのだろう。
 悪循環と言えば悪循環だが、そこらへんのおかしな関係ぶりが、まるで実の親子のようでもあった。母親代わりと言われているだけある。

「そんなわけだから、フォローは頼むよ」

「まったく。私を防壁代わりに使うのはやめてくださいよ」

 ぶつぶつ言っているあいだに、当人はさっさとバスケットの中身をすべてライアンに渡して扉を閉めようとした。
 そのときだった。
 突然、ライアンに駆け寄ってきた者がいた。似たような身なりをした、すこし年下の少年だ。半べそをかいている。

「ライアン、おいらの鉢植えがなくなっちまったよう!」

「鉢植えがなんだって?」

 その恰好にはおよそ似つかわしくない単語に、レイモンドが好奇心いっぱいの目つきで、身を乗り出した。
 反対にモリスは肩を落とす。
 どうやら、このまま素直には帰れない気配がぷんぷんしてきたからだ。
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