第9話 二面性

文字数 1,519文字

 いっしょに暮らす時間が長くなってくると、猫たちも悪知恵がついてくる。
 玄関の前で「行ってくるね!」という言葉とともに私が扉の向こう側へ消えると、しばらくこいつは帰ってこないということを学ぶ。
 だから忘れ物に気づいて数秒、数分で戻ったりすると、ギクッと目を丸くさせて妙な場所で硬直していたりするから面白い。
 扉は扉でも浴室の扉もまた短時間とはいえ、これから監視の目が行き届かなくなる時間帯に入るということを覚える。

 当時、母は仕事でしょっちゅう東京へ来ていた。
 私以外の人間に対して警戒心を抱くモナですら、少しずつ気の緩みが出てくる。いやそれどころか、遠慮がなくなってゆく。家族とならばよけいその傾向にある。
 「ちょっと、シャワーしてくるね」
 この一言を放った瞬間、直前まで体を丸めて深い眠りに就いていたとしてもモナの目が鋭く光る。モナはけっしてチャンスを逃さない。
 私がシャワーをしているあいだ母の声がたびたび扉の向こう側から聞こえてくる。
 むろんはっきりと聞き取れはしないが、「ダメよ、ダーメ!」という類の言葉なのは声のトーンからなんとなく予想がつく。
 モナと母とのやりとりをあれこれ想像しながら浴室から出ると、母の軽やかな笑い声に出迎えられた。
 「ちょっと、モナちゃんすごいよ! あなたが姿を消したとたん私の耳元まで来て突然、ニャー! ニャー! 大声で鳴き始めたのよ。ご飯くれ~って言ってるんじゃない? このおばさんなら、何度かねだれば簡単に落ちるだろうって、私のこと下に見ているんだよ~」
 よく犬は家族に順番をつけて態度を変えると言うが、まさか猫もそのように振舞うようになるとは夢にも思わなかった。
 しかし母は、猫のご飯がどこにあるのか把握していない上に、一度も2匹にご飯をあげたことはなかった。
 たとえ同じシチュエーションでも友だちが泊まりに来た場合、モナ自ら接触しに行くようなことはなかった。 
 その後も母が仕事で私の家に何度か泊まって部屋でひとりになるたび、モナは同じ行動を繰り返した。

 ところがある日、モナの行動が180度変わった。
 いつものように私が浴室にこもった瞬間、ご飯をまたせびられると覚悟する母に対してモナはねだらなくなったのだ。
 ただただ恨めしそうに目を細め、母のほうを見やるだけになった。
 完全に諦めたのかもしれない。
 その翌朝、今度は突然モナが寝ている母の顔を踏むようになった。
 窓際へ行くルートはいくらでもあるはずだが、わざわざ母の顔面を歩いて移動するようになったのだ。完全なる嫌がらせだ。
 「もーやだぁ。モナちゃんってば、このおばさんは何も役に立たないってわかっちゃったんだろうねぇ」
 母はモナに舐められてむしろ嬉しそうだった。

 初めのうちは、私が完全に眠っているときか、母に背中を向けているときに限られた。
 だが数か月後、モナが悠々と母の顔を踏んでいく姿を初めて目撃した。
 「モナちゃん、また踏んで~」と母がまんざらでもない声を出すと、朝日を背にチラッとこちらを一瞥するモナの顔もまた笑んでいるように見えた。
 始まりはご飯をくれない腹いせだったのかもわからないが、もしかするとモナに対する母の甘い声音を引き出すために意図的に取った行動なのかもしれない。
 
 いつしかモナは、私の顔も踏むようになった。
 これかこれか!
 母が言っていたのは!
 と、むしろ嬉しくなった。
 肉球の柔らかさと冷たさとがまるで昨日のことのように思い出される。
 今も空の向こうで何かをわざと踏んだりしているだろうか。
 どこを歩けば自分にとって心地の良い音がするのか、私もたまにはモナを見習って考えてみるのも良いかもしれない。【続く】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み