第7話 噛噛噛(前編)
文字数 1,455文字
あれは確か、水泳大会を数日後に控えた小学4(or5)年生の夏だった。
動物が大好きな同級生のMちゃんと近所の大きな公園で、人様の飼っているわんちゃんにさんざん遊んでもらい、それでもまだどこかモフモフが足りないようなフワフワした気持ちを抱えながらふたりで次の目的地まで移動しているときだった。
1階に美容院が入ったちいさな2階建てアパートから突然、犬の鳴き声が聞こえてきた。動物に関する事件が発生すれば、私とMちゃんは問答無用でそちらを優先させる。
急いで踵を返し、足早に道路をわたってそのアパートに駆け寄ってみた。
物騒なことに、一階の部屋の窓は全開になっていた。
私とMちゃんは顔を見合わせてから、どちらからともなくその部屋をおそるおそる覗き込んだ。
刹那、ウオオオンという鳴き声と共に、怒髪天を衝く勢いで茶色と白と黒の三色入り混じった垂れ耳の中型犬が眼前に飛び出してきた。
気づけば右掌に猛烈な痛みが走っていた。
ほんの一瞬の出来事だったが、窓から急に飛び出してきたのは怒り狂ったビーグル犬だった。
「セイちゃん大丈夫?」
鋭い牙で噛まれた右手からは、止めどなく血が流れ出ていた。
そのうち、患部が熱を帯びはじめてきた。
「イタイイタイ」を繰り返す私。
結局、大事には至らなかった。
母は「どこで噛まれたの?」と何日間も尋問してきたが、私は曖昧に答えておいた。
ビーグル犬の飼い主を訴えたいとは微塵も思わなかった。
むしろ飼い主に一番訴えたかったのは、あのビーグル犬だったに違いない。
不幸な生い立ちなのかもしれない。
けれど、当時小学生だった私があのビーグル犬にしてやれることなんて何ひとつなかった。
もう二度と、動物に手を思いきり噛まれることはないだろうと思っていたが、まさか飼い猫に全力で噛まれる日が来るとは思いもよらなかった。
仔猫時代のモナには収集癖があった。
猫のオモチャはもちろん、人間からしてみればゴミ以外のなにものでもないものまで大事そうに咥えて、せっせこベッド下まで運んでいた。
たいがいのものは咥えている段階で奪取できたが、ひとつだけどうしても咥えて離さないオモチャがあった。
シャラシャラとした紐がプラスティックの棒に結びつけられた猫用オモチャと記憶している。素材との相性が良くなかったのだろう。いや、その逆で良過ぎたのかもしれない。
とにかくそれは、モナの野性的本能をとことん刺激するものだった。
阿修羅の如くぎらついた彼女の瞳はいつもと違って血走っていた。
「一度咥えたら墓場まで何が何でも持っていく!」
それくらい決死の覚悟が伝わってきた。
それでも私は「モナちゃん、ダメ! ダメ!」と叫びながら必死にオモチャを引っ張った。
モナとどれくらい格闘していたかは不明だが、その間はとても長く感じられた。それでも最初は割とすぐに奪うことができたが、こちらが安堵した隙に再び咥えて唸りだしてしまった。
このままでは飲み込んでしまう!
こちらも引けなかった。
そして、ついに引っ張り出せたと思った瞬間、右手の甲を全力で噛まれてしまった。
噛!噛!!噛!!!
バチンと巨大ホチキスで穴を開けられたような激痛が走った。
正直ビーグル犬のときと、どっちが痛かったかと訊かれても即答はできない。
けれど、どちらも激痛だったことは確かだ。
じんじんと傷みが増してゆく。
その日、生まれて初めて猫に噛まれてしまった私は、パニックに陥りながらも近所にある大きな病院へ行く準備を始めた……【続く】
動物が大好きな同級生のMちゃんと近所の大きな公園で、人様の飼っているわんちゃんにさんざん遊んでもらい、それでもまだどこかモフモフが足りないようなフワフワした気持ちを抱えながらふたりで次の目的地まで移動しているときだった。
1階に美容院が入ったちいさな2階建てアパートから突然、犬の鳴き声が聞こえてきた。動物に関する事件が発生すれば、私とMちゃんは問答無用でそちらを優先させる。
急いで踵を返し、足早に道路をわたってそのアパートに駆け寄ってみた。
物騒なことに、一階の部屋の窓は全開になっていた。
私とMちゃんは顔を見合わせてから、どちらからともなくその部屋をおそるおそる覗き込んだ。
刹那、ウオオオンという鳴き声と共に、怒髪天を衝く勢いで茶色と白と黒の三色入り混じった垂れ耳の中型犬が眼前に飛び出してきた。
気づけば右掌に猛烈な痛みが走っていた。
ほんの一瞬の出来事だったが、窓から急に飛び出してきたのは怒り狂ったビーグル犬だった。
「セイちゃん大丈夫?」
鋭い牙で噛まれた右手からは、止めどなく血が流れ出ていた。
そのうち、患部が熱を帯びはじめてきた。
「イタイイタイ」を繰り返す私。
結局、大事には至らなかった。
母は「どこで噛まれたの?」と何日間も尋問してきたが、私は曖昧に答えておいた。
ビーグル犬の飼い主を訴えたいとは微塵も思わなかった。
むしろ飼い主に一番訴えたかったのは、あのビーグル犬だったに違いない。
不幸な生い立ちなのかもしれない。
けれど、当時小学生だった私があのビーグル犬にしてやれることなんて何ひとつなかった。
もう二度と、動物に手を思いきり噛まれることはないだろうと思っていたが、まさか飼い猫に全力で噛まれる日が来るとは思いもよらなかった。
仔猫時代のモナには収集癖があった。
猫のオモチャはもちろん、人間からしてみればゴミ以外のなにものでもないものまで大事そうに咥えて、せっせこベッド下まで運んでいた。
たいがいのものは咥えている段階で奪取できたが、ひとつだけどうしても咥えて離さないオモチャがあった。
シャラシャラとした紐がプラスティックの棒に結びつけられた猫用オモチャと記憶している。素材との相性が良くなかったのだろう。いや、その逆で良過ぎたのかもしれない。
とにかくそれは、モナの野性的本能をとことん刺激するものだった。
阿修羅の如くぎらついた彼女の瞳はいつもと違って血走っていた。
「一度咥えたら墓場まで何が何でも持っていく!」
それくらい決死の覚悟が伝わってきた。
それでも私は「モナちゃん、ダメ! ダメ!」と叫びながら必死にオモチャを引っ張った。
モナとどれくらい格闘していたかは不明だが、その間はとても長く感じられた。それでも最初は割とすぐに奪うことができたが、こちらが安堵した隙に再び咥えて唸りだしてしまった。
このままでは飲み込んでしまう!
こちらも引けなかった。
そして、ついに引っ張り出せたと思った瞬間、右手の甲を全力で噛まれてしまった。
噛!噛!!噛!!!
バチンと巨大ホチキスで穴を開けられたような激痛が走った。
正直ビーグル犬のときと、どっちが痛かったかと訊かれても即答はできない。
けれど、どちらも激痛だったことは確かだ。
じんじんと傷みが増してゆく。
その日、生まれて初めて猫に噛まれてしまった私は、パニックに陥りながらも近所にある大きな病院へ行く準備を始めた……【続く】