結論

文字数 7,215文字

 以上3章にまたがり誤った環境保護思想に批判を加えてまいりました。
 みなさまお待ちかねの結論へ入りましょう。

1 資源は有限、つまりは……
 まずこの事実をしかと受け止めてほしいのであります。税金であれ個人の資産であれ、環境を守るためには先立つものが必要です。あれもこれも欲張ってやろうとしても、遠からずリソースは底をついてしまう。
 環境問題全般に取り組まなくてよいといっているわけではなく、本当に解決すべき優先課題を費用便益分析に基づいて決めましょうよと、こう主張したいのですね。
 なぜだか知りませんが、環境問題だけはあらゆる課題のなかで絶対的な地位を占めていると考えている人がいます。なにをおいても最優先、最重要、これをおろそかにする者、人にあらず。こうした主張に正当性がないことは、ここまで本論をお読みいただいた読者にとって自明の理でありましょう。
 多様な生物種の維持や外来種の侵入を阻むというのは、特段の害が見られない以上率直に申しまして、差し迫った優先度は低いと判断せざるをえません。でもちょっと待ってください、優先度の高低を①誰が、②どのように決めればよいのでしょう。選択に恣意性が混じれば意思決定者の利害関係が入り込みますし、ましてや大切な税金をじゃぶじゃぶ使われたのではたまりませんよね。

 まずはどのようにから。乱立する政策に順位づけが必要な場合、もっとも有効なツールはずばり、費用便益分析であります。コストとベネフィットを考慮し、費用対効果の高い政策を実行する。そうはいっても誰の便益を考慮するのかという問題は残る。
 税金を投入する以上特定の個人を優遇するわけにもいきませんので(昨今は国家を母親と同列にみなし、特定の個人が優遇されようと躍起になって泣きついているようですが)、当然対象は〈みんな〉となります。このみんなという三人称はまこと悩ましい。みんなのための政策。みんなのための環境対策。はっきりいってこんなもんは存在しません。
 温暖化対策を例にしてみましょう。一見これをしないよりするほうがよいに決まっているように思える。海抜の低いオランダは海面の上昇で水没するかもしれず、沖縄などの熱帯よりの地域はマラリアが流行するかもしれず、沿岸地域はハリケーンでメタメタになるかもしれない。
 しかし酷寒地域に住む人びとにとっては恩恵になりうるのですね。ヒトは寒さにはてきめんに弱い。夏よりも冬のほうが死亡者が多いのはそのためです。主として体温調節機能がまともに働いていないお年寄りがバタバタ亡くなっていますね。温度差だけで見た場合、気温の上昇によって全体的な死亡者数は減るというデータもあるほどです。
 さらに二酸化炭素の増加は作物の収穫増を期待できます。なんといってもそれが光合成の原料なのですから。3章で述べた農業の生産性としてはむしろプラスに働きます。食糧増産は第三国の栄養状態を改善するでしょう。
 単純にレジャー部門でも勝ち組が出てくるでしょう。マリンスポーツはより長く営業できるようになるし、3,000メートル級の日本アルプス登山なんかも雪に閉ざされた期間が短くなって集客効率が上がる(若者が登山なんかをやりたがるかどうかは別問題ですが)。
 以上のことからわかる通り、個々の意見を全部取り入れた玉虫色の解決策などという都合のよいものはないのであります。そこで次善の策として、みんなという抽象的な三人称を幸福度と呼ばれる値に定量化し、これがもっとも最大になる政策を優先しようということになりました。これがいわゆる最大多数の幸福、功利主義という考えかたですね。
 むろんこのやりかたにも欠点はある。そもそも幸福度なんか数値化できるのか、国民全員に政策メニューを提示して順位づけをしてもらうのかなどが反論の最右翼ですね。こういうのはツッコミ出したらきりがないので、功利主義的には幸福=金銭的に裕福であるとざっくり決めてしまいました。

。異論はあろうかと思いますが、かなり真実に近いでしょう。
※どうでもよい蛇足:〈金持ちなら幸せである〉が真実でないことは、対偶を用いればすぐにわかります。この文言の対偶は〈金持ちでないなら幸せでない〉ですので、これは真実からは程遠い(と信じたい)。金持ちをざっくり年収1,000万円所得者とすれば、日本は不幸者の巣窟みたいになってしまいますよね。
 まとめますと、政策決定は功利主義的観点からの費用便益分析でおこなう。みんながいちばんお金持ちになる選択が優れているとみなし、コストとベネフィットを計算し、差し引きで万人の幸福度上昇が高いものを選ぶ。ここまではよろしいでしょうか。

 さて問題は誰が、ですね。これはもうどうすることもできません。日本は議会制民主主義国家ですので、当然政治家が決めるのであります。
 ここでああもうだめだ、そんなんじゃお先真っ暗だよとお嘆きになった人は、よくよく反省しなければなりませんよ。なにを反省しろというのか? そうすべきは無能な政治家諸君であってわれわれではない。ちがうか?
 政治批判をするのはたやすいものです。景気が悪いのも新型ウイルスが流行るのも全部政府の責任だ、なにしてんねんおまはんら、しゃきっとせんかいボケ、ホンマ使えんやっちゃなあ、エトセトラ、エトセトラ。
 でもよく考えてください。そうした人たちを選挙で選んだのは誰ですか。いや選んでへんよ、選挙なんていってへんもん。この手の意見はもっとも愚かな回答のひとつです。選挙に参加しなかったことにより、ますます新進気鋭の政治家が選ばれるチャンスが減少していくのです。なぜ政治家はみんな似たようなことばかりのたまい、がつんとパンチのある革命をやらかす人材がいないのか?
 投票率の高い高齢者に任せておけば、いつまでたっても彼らに有利な政策をぶちあげる政治家しか選ばれないに決まっています。農業や医療が補助金や公的保険漬けになり、ほとんど資本市場の圏外にあるのはそのためです。政治家は決してバカではないので、彼らはもっとも票の稼げる層にコミットするでしょう。ますます特定の年齢層にしか恩恵のない政策が選ばれていくでしょう。
 そうした傾向が加速度的に進展し、現在のような過保護国家になってしまった。なんでも国がなんとかしてくれる、否、すべきだなどという要介護論まで噴出する始末であります。
 いまこそわれわれ若者が立ち上がらないといけない。そうしなければ最大多数の幸福なんて夢のまた夢です。政界には選ぶに値するろくな人材がいないと嘆く向きもあるでしょう。それは(わたしを含めた)国民のレベルがお粗末だからです。ポリティカル・リテラシーの低い人間に合わせなければならないのなら、政界には二流の人材しか集まりません。一流どころはもっと刺激のある分野へ腕試しにいってしまうのですね。
 政治家は単なる代表者なんですから、あくまで母集団の実情に沿った人材が供給されるのは自明の理であります。老人票が圧倒的の現日本で、年金廃止をマニフェストに掲げればどうなるかを想像すればわかりやすいでしょう。たちまち泡沫候補の仲間入りであります。
 われわれ国民の選択肢は次のうちいずれかです。①従来通り意思決定は人任せにする、②主体的に意識を高め、意思決定者に適切な選択をさせる。
 ①ですべきことはとくにありません。カウチに座ってポテチをつまみながら、エロ動画を漁っていればよい。その代わり政治の質の低下にケチはつけられませんよ。カウチポテト族からはカウチポテト族政治家しか生まれないのですから。
 ②を達成するには歯の浮くような議会制民主主義のお手本国民になる必要があります。みずから政策メニューの正当性を評価し、適切な選択をする候補者へ票を入れる。1回ではなにも変わらないでしょうが、何度もこの過程がくり返されるうちに政治へ流れる人材の質は向上し、やがては目先だけの利益に惑わされない万民のための政策が選ばれるようになる。
 これはあくまで理想ですので実現はしないでしょうが、それに近づけるようわれわれ一人ひとりが努力しないといけない。〈費用便益分析で政策を決定するのは政治家である〉というセンテンスは、わたしたちがそうするのと究極的には同じことだし、また同じであるべきなのです。

2 科学は良心とともに
 1章でご説明しましたガイア理論の誤用からわかる通り、環境問題の議論では著しく科学的な視点が抜け落ちているのが特徴です。ほとんどが論者の直観に基づいており、証拠で自説を補強するという当たり前の努力を怠っているのですね。
 環境問題にはさまざまな分野が横断的に関与しております。生物学や遺伝学のようなハードよりの自然科学はもちろんのこと、経済学などのソフトな社会科学まで含まれており、カバーすべき範囲は非常に広い。
 ですから科学をないがしろにしたような主張は、はなから相手にしなくてよいはずなのです。わたしの敬愛するリチャード・ドーキンスという動物学者は、あるときを境に創造論者(生物が神の創造物であると盲信している人びと)と議論するのを放棄しました。
 彼らは科学者とディスカッションしたというその事実だけを振りかざして、あたかも自説が同じ土俵にある厳密な理論だというイメージを人びとに植えつけるという手段に訴えたからです。科学的な厳密性のない環境問題煽りも同じで、取り上げれば取り上げるほど勢いづいていってしまう。
 われわれ一般市民がしなければならないのは、なにをおいても科学への理解を深めること、これに尽きます。自然科学はこの世界を記述する根本的な研究であります。通り一遍の教育――ことに科学教育をないがしろにしている日本のそれ――ではとうていカバーしきれません。
 そのとうていカバーしきれていない範囲に環境問題の主眼があるのです。この分野で生産性のある議論をするつもりなら、進化論だけは最低でも押さえておかねばならないでしょう。お気づきかと思いますが、本論でもバッグボーンとして大車輪の活躍をしております。

 生物多様性ではただ単にかわいそうとか、なんとなく生きものが多ければ多いほどにぎやかでよいというような、小学生レベルの主張が目立ちます。ガイア理論を自分たちの都合のよいように改悪しているのも許せない点です。おそらく彼らはラブロック氏の本なんかぜんぜん読んでいないのでしょう。
 外来種についても視野が狭すぎる。生物相が地質年代にわたって大量絶滅をくり返し、その都度ダイナミックに変動していることや、プレートテクトニクス的な観点がすっぽり抜け落ちているのですね。
 なによりお笑い種なのは、人間が勝手に決めた恣意的な行政区分で物事をうんぬんしている点でありましょう。国境を越えるとだめで、越えない移動はよい。国家の離合集散の激しい東欧はどうなるのですか。チェコスロバキアがチェコとスロバキアに分裂した瞬間、生物たちは突如として国境侵犯をやらかした犯罪人になるのですか。
 わたしは細菌やウイルスの防疫についてもおかしいと思っております。国レベルで港や空港を封鎖して防疫だなんだと息巻いているけれども、それは正しい態度なのでしょうか。この分野に限らず、日本にはどうもこの手の思想が蔓延しているきらいがあります。すなわち


 平和憲法護持とかいって念仏平和主義を貫き通した結果、湾岸戦争のおりに各国から顰蹙を買ったことがありました。クウェートへ侵攻したサダム・フセイン率いるイラクをやっつけるため、世界中から勇敢な兵士が集まったけれども、日本は金だけ出していっさい派兵しなかった。
 正直にいって練度の低い自衛隊員を実戦で戦わせるより、お金のほうが武器調達など多用途に運営できて貢献度が高かったのはまちがいないでしょう。でもこういうケースは理屈ではありませんよね。金だけ払ってはいさいならというのはどうにも印象が悪い。
 ウイルス防疫もこれと同じような匂いがします。グローバル時代へ突入して久しい昨今、国境の内外でしか物事を考えられないというのはいかにも視野の狭い見識だと思いますが、いかがでしょうか。
 遺伝子組み換えについては3章で論じた通りです。あまりにも無理解、意図的としか思えない欺瞞、先入観がはびこりすぎている。否定論者のなかに遺伝学に対する素養のある人間がいるとは思えません。率直に申し上げて、彼らの理解度は低学歴で無学なわたし以下です。

 科学を学ぶのは骨の折れる仕事です。ネットでちょちょっとググって調べるというわけにはいきません。ソースのあやふやな情報は信用できないからです(かなり気を遣ってはいるけれども、本論もそうした信用性の低いしろものに分類されるでしょう)。そうなると図書館を利用して、地道にコツコツ読書するしかない。そんなまねは忙しい現代に生きるわれわれにはとうてい不可能でしょう。
 しかしどこかしら空き時間はあるはずです。通勤に1時間かかるなら、漫然とスマホを触るのをやめてみてはいかがでしょうか。帰宅してスーツを投げ出し、さて1杯とビールに手を出す前に、1時間だけ読書の時間を作ってみてはいかがでしょうか。1年も続ければ立派な市民科学者になっているはずです。
 嘘かまことか判然としない情報があふれ返る現代、科学リテラシーを身につけ、責任あるいち市民として的確な判断を下していく。そうありたいものです。

3 本当に価値のあるもの
 本論でご紹介したもの以外にも、環境関連の界隈では解決しなければならない(とされている)問題がごまんとあります。
 地球温暖化、オゾン層の破壊、酸性雨、ダイオキシン、環境ホルモン、その他いろいろ。これらのなかには懐かしい顔ぶれも混じっております。最近ではとんと沙汰の聞かない問題がね。なぜ騒がれなくなったかというと、科学的根拠がなかったのだとのちに判明したからであります(答え合わせをしますと、後者3つがそうです)。
 環境問題は汲めども尽きぬ魔法の泉のようなものです。その気になれば事実上無限に問題をでっちあげられる。だってでっちあげるほうは厳密な調査なんかいっさいしないのですから、想像力さえ奔放ならば、それこそ1日1問題捏造なんてことすら可能です。
 対する科学陣営はといいますと、とてもそんなお遊びに付き合ってはいられません。科学的に検証するのは非常に手間ですし、他人の仮説を検証する追試はあまり評価されない傾向にあるので、ますますいい加減に粗製乱造された環境問題が野放しになってしまう。
 ですからちゃらんぽらんな仮説は最終的に科学者が検証してくれると考えるのは楽観的すぎます。ついに粉砕されないまま残ってしまった俗説がどれだけあることか。それが環境問題にはとくに多い。環境は無条件で守るべきだという誤った信念が世界のすみずみまではびこっているせいです。震源地はレイチェル・カーソン著「沈黙の春」を誤読し、本人が聞いたら卒倒するような拡大解釈をやらかしたウルトラ・環境保護論者たちであります。
 われわれはいままでも、そしてこれからもまったくの与太から真実に近いものまで、種種雑多な環境問題の絨毯爆撃にさらされるでしょう。2節で述べた通り、玉石混交のなかから玉だけを選び出して解決していくのは並大抵の努力ではかないません。
 1節で少しばかり脱線して政治の話題にも触れたけれども、意思決定者は最終的に政治家ではありますが、われわれ自身の希望が彼らの意思決定に反映されていることをぜひとも肝に銘じておくべきです。国民がコロナウイルスをなんとしても封じ込め、いち断片にいたるまで抹殺しなければならないと考えれば、政府はそのように動くでしょう。
 共存していくという妥当な見解は無視され、途方もないコストをかけてそれは実行され、やがて完全撲滅なんかできっこないのだとわかるでしょう。風邪やインフルエンザが撲滅できないのと同じことです。いずれは天然痘のように完全封殺できる日がくるのかもしれませんが、いますぐは絶対に無理です。感染症は都市生活を営む人類にとって避けて通れないものであります。そのあたりの理解が欠けている。
 ウイルスとはなにかと問われて、〈DNAもしくはRNAの断片〉だと正しく回答できる人がどの程度いるのでしょうか。正確な報道をすべきマスコミですら

という言葉を使っているのを見る限り、正答率は絶望的でしょう。厳しい受験を勝ち抜いた者が一流大学に入るというシステムのせいで、がり勉は学生のあいだだけでもうたくさん、というものぐさ人間が量産されたことの弊害がここにある。

 真に解決すべき問題はなんなのか。この地球上で生きていかねばならない以上、これほどの重大事を人任せにしてよいはずがありません。提唱者のネームバリューだけで取り沙汰されている問題もある(某合衆国のもと副大統領の主張とか)。むしろそんなのばっかりな気がします。
 環境問題になるとなぜ冷静な議論ができなくなるのかは尽きぬ謎ではありますが、ここはぐっとこらえて冷静になりましょう。本当に解決すべき問題なのかをいま一度、分析してみましょう。
 そうして初めて、真の環境問題が浮かび上がってくるのではないでしょうか。そのときこそわれわれは一致団結し、それに立ち向かっていくのです。
 ぎゃあつく騒ぎまくるだけの危機感の焚きつけは卒業しましょう。科学的素養を武器にコストとベネフィットを天秤にかけ、取り組むべきかどうかを決められる。最優先か後回しでよいのかの順位づけができる。
 それがスタイリッシュな21世紀型市民の姿であると定義し、本論を締めくくりたいと思います。
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