第3話  名前

文字数 3,510文字

  今朝、浅間さんに連れられ僕はタクシーに乗せられた。タクシーの中は、運転手の加齢臭なのか、ただの香りがきつい芳香剤のせいなのか、温く、気持ち悪い匂いがしていた。けれどそんな事を言える訳もなく。
 10分悩んだ結果、運転手の後ろ姿を横目に「すみません、窓開けていいですか」と息を漏らすように言った。
  運転手は陽気に「あぁ、少し暑いですか。クーラーつけますよ」と、陰湿な僕に追い打ちをかけてきた。
 「いえ、車に酔いやすくて外の空気を、、、」と、何とか窓を開けることに成功した。外から沢山の四季の香りが入り込んでくる。
  恐らく引きこもり人生で初めて外に出たいと思ったに違いない。引きこもりの対処法は、きっと加齢臭だ。と、アニメにでも出てきそうな花畑を見つめていた。すると浅間さんが話しかけてきた。
 「葵くんは乗り物酔いしやすいのかい?」
 僕は自分でついた適当な嘘に嘘を重ねる。
 「まぁ、はい」
  普段は落ち着いている大人のおじさん風な浅間さんは楽しそうに語り出した。
 「知ってるかい? 乗り物酔いは動揺病や加速度病と言ってね、次第に気分が悪くなって吐き気、嘔吐につながるんだ。 夏なんかは脱水があるからより注意しなければいけないんだ。 そもそも、どうして人が酔うのかわかるかい?」
 「全然わかりません」なんか、変なスイッチを押してしまったのかもしれない。
 「それはね、内耳にある三半規管や前庭と呼ばれるところが刺激されると起こるんだ。内耳への刺激が自律神経系や、平衡感覚の乱れを引き起こしてその結果酔ってしまったり、他には視覚や嗅覚からの不快感、精神的ストレスや酔うかもしれないという不安感も乗り物酔いの発現に関与していると言われているんだ。 対処法はー」
 「詳しいんですね」気持ち悪さと、感心の念から楽しそうに話す浅間さんの話を遮ってしまった。
 「ごめんよ、気分が悪いんだったね、また今度にしよう」
  突然、嗅覚からの不快感の元凶が陽気に笑いだした。
  「あははは、浅間さんは凄い人だからね、私みたいな常人とは住んでる世界が違うよ」
 浅間さんは「良してくれ」とあまり嬉しそうではなかった。そんな彼に医者なのか聞いたけれどそうでは無く、itrnというロボット開発の第1人者だと言っていた。
 「AIというのは知っているかい?」
 「まぁ、人工知能ですよね」僕の答えに、浅間さんは嬉しそうに答えた。
 「そう、Artificial intelligence (アーティファクカルインテリジェンス)。そして私が研究しているのは先も言っていたがitrnと言ってね」
 「アイ、ティー、アール、エヌ?」もう、すでに僕の頭では理解出来そうにないと肌で感じた。きっと、これ以上は聞いてもわからない。それこそ、寄ってしまう。
 浅間さんはそれを察してか、それ以上の事はまた、今度いつか興味が出たら聞いておくれと話を続けなかった。代わりに、車酔いに効くツボを教えてくれて、僕は病院に着くまで外の景色を見ながらそのツボを押していた。
  しばらくして、「着いたよ」と語りかけてきた。
  開放感、地面に踏みつけてから前を見ると、とても大きな病院があった。病院なんて何年も来ていないけれど、この病院の独特の匂いや雰囲気は嫌いだったからよく覚えてる。
  昔、母が入院していた頃によく来ていたからかもしれない。母が死んで、父と気まずくなり、施設に行き、浅間さんに拾われる。今思えば、あっという間だった気がする。小学生から今日まで何年も経つのに、僕の時間は止まっているようだった。ズルズル何かをひきずって過ぎている。
  最近では病むことも前よりはあまりなくなった。きっと何年も引きずりすぎて、少しずつすり減ってしまった。すっかり空っぽに。
  けれどたまに、まだ母が見えてしまう。とくに病院だと余計に。
  そんなふうにまた、亡き女を想いながら後をついていくと、エレベーターは12階に止まった。それから看護師と親しげに話した浅間さんは、僕を奥の個室へと案内した。
 そこには、1人の女の子が独りでベッドに横になり、ガラスで仕切られた向こう側にいた。
  とても、異様な気がした。何か心がざわざわと気持ち悪かった。
 「彼女はね、今もこれならも外にでられないんだ」
  浅間さんは寂しそうに日陰の中でうずくまる子供みたいに話し始めた。
 「病気なんですか」当然そうなのだろうけれど、あえて聞いた。
 「そうだね。 生まれ持った、先天性のね。 生まれた時から目が見えず、それから身体の筋力も動かない事で衰えていき、音も声も発せなくなった。 それに加えて酸素濃度によって発作を起こす現代の医学じゃまだ解明出来ていない奇病なんだ。 だなら濃度を保つために外とはこうやって、隔離している」
  僕は、彼女を良く見てみた。髪は無く、頭にはいくつもの線がついていた。点滴が、心拍数と一緒に落ちていた。
 「どうして僕をこの子に合わせたいんですか?」
 その質問に、どうしてか申し訳なさそうに答えた。
 「私は彼女が生まれた時からずっと彼女を見てきた。彼女を、私はいつか救いたいと思っている」
  僕は何も言わなかった。ただ彼女の生命線が涙のように落ちていくのを眺めた。
 「君のお母さんも、病気で亡くなったんだってね。 葵くんはお母さんが好きだったかい」
 「多分、好きでした」なんだか、胸がいたい。
 「私は別に引きこもりは悪いこととは思わないよ」引きこもり、というワードに少しだけ胸を刺された気がした。どこか、身構える。
 「はい、ありがとうございます」
 「私も昔は良く引きこもったからね」
 「え?」と僕は目を見開く、こんな人が、と。
 「ただ私の場合は目的があった。必死に研究に明け暮れてね。だから引きこもる事は悪いとは思わないよ。でもね、それは本当に君がしたい事なのかい」
  本当にしたい事。その言葉は僕にはわからなかった。
 「やりたい事も、何も無いので、本当にやりたい事がわからないんです。 すみません」
 「そうか、なら提案なんだけれど本当にやりたい事が見つかるまで、嘘でやりたいことをして見たらどうかな」
 「嘘でやりたいこと」
 「そう、やりたいって嘘をつく。 葵くんはきっと嘘が得意だろう?」年配の無邪気な笑顔に、苦笑いで返すしかなかった。
 「嘘で、やりたい事を、、、」
 「葵くんは立派に生きてるんだから、見えるめがあって、声があって、歩ける足がある。 彼女は声が出なくなる少し前に頑張って私に言ったよ。 見えないはずなのに外の方を向いてね」
 (死んでもいいから、外に出たい)
  僕は、そんな事を思ったことが無い。外に出たら死ぬという意味合いは、遠く一緒ではあるけれど、それでも僕の外にでたら死ぬと彼女の死ぬとでは天と地との差があった。何も言えない。
  彼女の一言から、不思議と決意のような、脅迫の様な硬いものが感じられて、怖く、自分がどれほど、矮小なのかともおもった。
 「葵くんのお母さんも、きっと葵くんに外を歩いて欲しいと願っていると思うよ。余計なお世話かもしれないけれどね」
 「いえ、、、」
  母の事をまた少し考えてみた。昔、小学生の頃に書いた作文の課題で、お母さんの事を書いた時に聞いた事があった。
  どうして、僕の名前がテルなのか。由来は、日の光の様に明るい人生を、自分だけの為じゃなく、誰かを照らす光に、照らし合わせて、見比べて、沢山の人と幸せになってほしいから。そう言っていた。
  あの時は、ちゃんと考えては居なかったけれど、確かに今の僕は日の光になるどころか、日影でこそこそと生きしのんでいるだねの人生。母は間違いなく悲しむかもしれない。
  ガラス越しの彼女が、少しだけ母と重なって見えた。
  もしかしたら、勇気を貰えたかもしれない。こんなちょっと話しただけでもしかしたら僕の人生は変わるかもしれない、変えてもいいかもしれないと、そう思わせてくれた。
 「分かりました、嘘でやりたいことから初めてみます」
 「それがいい、そろそろ行こうか、1目見せてあげたかった、さぁ、栞が待ってるからね」
  人は、なんて簡単で、何て難しい生き物なんだと、思わされた時間だった。
  それからまた、加齢臭に酔わされながらのタクシーで僕らは栞の待つ家に向かった。
 けれど、帰るという事が、悪い気がしなかった。
 今までとは違う意味で、帰りたくなった。

 気がした。
 
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