九、分からない世界

文字数 3,128文字

 時々人が慌ただしげに通り過ぎる廊下に備えられた長椅子で、深志は座り込んだまま膝に肘を付けていた。両手は硬く組まれ、額を近付けて深く俯く。ここで待つよう言われてから、時間がひどく長く経っているような気がする。心臓の騒ぎは収まらず、今にも喉から出てきそうだった。
「その動きは祈りだね、深志さん。君の生まれた世界では存在しない文化だと聞いたけど」
 隣にいた二条の言葉に思わず顔を上げ、手をゆっくりと下ろした。確かに昔は、この世界にも神と呼ばれる存在が信仰されていた。それが理性を重視する思想の登場や科学技術の発展により、神のような不確定な超自然的存在はやがて信じられなくなっていた。人間が全てを為せると確信した時から、世界は変わってしまった。深志も当たり前のように、科学は絶対で不可能などないと言い聞かされ、信じていた。
「それならなぜ、君は祈っているの? 科学を信用しているなら、どんと構えて終わるのを待っていれば良いのに」
 自分の両手がまだ絡んでいたと気付き、深志は息をついて斜め前の扉を見上げた。まだ状況が変わる様子はない。いまだに心臓は騒ぎ、不安が収まらない。二条の言う通り、いつもなら医療行為を行う機械も安心して任せておけるのに。
「それほどあの人が大切なんだね。目に見えない存在を頼るほどに」
 同じく扉の向こうで起きていることを案じているだろう二条が微笑む。その眼差しには優しさだけでなく、わずかな悔いも滲んでいるように見えた。


「二条さん、まだ見つかっていないみたいですね。彦根さんが焦っていて」
 買い物袋を片手に下げ、林が遅れて歩く深志を振り返る。自宅から遠くない大型の商業施設で、大晦日の今日は買い出しを進めていた。インターネットでの購入も出来るだろうに、なぜわざわざ寒い外へ出向かなければならないのか、深志は怪訝に思いつつ下りのエスカレーターに乗る。周囲にはマスクを着用した買い物客の姿がちらちらと見えた。
 久遠の二条元家にまつわる件は、想像していたより大事になってしまった。かつて彦根の言っていた通り、自分が責任を持って姫路を管理していれば、こうはならなかっただろうか。
 しかし姫路の気持ちも、深志には理解できた。死者の願いを叶えたい、あるいは蘇らせたいと、自分も昔は強く思っていた。だが今は、それが分からなくなっている。先にエスカレーターを下りた男を目で追い、深志は下唇を噛む。もし姫路が自分と同じような悩みを抱えているかもしれないなら、やはり止めた方が良かっただろうか。
 深志もまた、二条には恩があった。科学技術が故郷より「中途半端」な日本に呆れ、より最新の科学を根付かせるべく移住したまでは良かった。しかし勤めた会社は退屈で、今後に悩んでいた時に二条と出会ったのだ。彼が久遠を教えるべく弟子たちを集めた「同志の会」の施設を初めて訪ねた時は、その設備や人員の心許なさに呆れて激怒した。そこで大改修を行って久遠研究所を作り、二条にはまたも世話になった。しかし自分たちが久遠を普及させようと勤しむ中、彼はどこか不安げだったと深志は今になって思い出す。機械に囲まれて育った自分では浮かばない懸念を持っていたのだろうか。
「ほら、百ちゃん。早く帰らないと『第九』に間に合いませんよ。あれをちょろっとでも聴かなきゃ、年が越せません」
 いつの間にか一階におり、夫には出入り口である自動ドアの前で急かされた。買い物袋を持ち直し、深志は小走りで彼に追い付く。
「別に『第九』とやらを聴かなくても、時間は誰にも平等に流れるでしょう。あなただけが正月を迎えられないということにはならないんだから」
「そういう問題じゃないんだよ」
 何やら呆れる夫に、深志は首を傾げる。自分は間違ったことを言っていないはずなのに、夫は別の答えを求めていたようだ。やはりこの世界の人間は、故郷とは別の価値観を基準に生活している。日本もあそこのように機械化が進んでくれれば、少しは理解し合えるだろうか。今の状況は少しずつ人を介さない方向へ向かっていると、先ほど店で使ったセルフレジを思い出す。
 林の言う「第九」とは、合唱付きの交響曲だったか。感染症拡大が危惧されている今、歌う行事を開催できるのか、施設近くの駅へ向かう夫へ問う。どうやら予定通り開催するらしい。その行動に納得がいかず、深志は呟いた。
「別に危険を冒してまで、人間が集まって歌うことはないでしょうに。人工音声による歌も普及しているのでしょう?」
「でも人による合唱を聴くのも楽しいですよ。生だと迫力があるし」
 林は深志へ歩調を合わせつつ、足を軽やかに動かしている。相変わらずこの世界の価値観は理解し難いと、深志は改めて思った。機械化を進めながら全てに取り入れようとしないでいれば、ますます遅れてしまうのに。
「百ちゃんもさ、もう少し人の良さを信じてみ――」
 笑って言おうとした林が、咄嗟に口を噤んだ。そして小さく首を振って歩きを遅くする。
「いや、こんなのわたしが言えることじゃなかったですね」
 わずかに俯く夫に、胸が鋭く痛んだ。眼前に昔見た廊下が蘇り、息が浅くなりかける。もう終わったことだと言い聞かせ、深志は駅へ入ろうとする。何も悪いことはしていないと思いたいのに、なかなかそれが出来ない。
 人間といえば、故郷で起きている騒ぎも気掛かりだった。人より久遠が優れていると見做したい気持ちは分かる。久遠は疲れも知らず食事も必要がなく、労働力としてはうってつけだ。だがその素晴らしさを推すあまりに人間を虐殺するのはどうなのか。「新世界ワイド」でも連日掲載されている報道をいったん振り切ろうと、深志は改札へ向かった。そこで先を行っていた林が、近くにいた人の落とし物を慌てて拾うのを認める。相手へ渡す際、彼の手が落とし主の手へわずかに触れた。
「人付き合いは、得意になってきた?」
「まだ怖いよ。少しは慣れてきたけど」
 電車を待って尋ねた深志に、林は自信なさげに答えた。身近な人と接する時は、特に緊張するのだという。自分や二条は別だと後で付け加えられたが。
 彼が付き合いを悩んでいるのは彦根のことか、深志は思い至る。研究所でも久遠の普及には用心深い立場を示し、二条の騒ぎでは強い抵抗を見せていた。いつまでも久遠へ警戒されたままでは、林もやり切れない。わずかに夫の袖を握って引き寄せ、深志は小声で提案する。
「せめて彦根君には、あなたの本当のことを伝えるべきじゃない?」
 予想通り、林の顔が強張った。彼は重い事実を抱えながら研究所で過ごしてきた。今まで隠していたのだから、明かすことへの懸念が強いとは分かる。だがいつまでも人間に――彦根に怯えたままではいけない。それではずっと林は苦しいままだ。周りに聞かれないよう言葉を選び、深志はゆっくりと諭す。
「彦根君も初めはあなたの話なんか信じないで、否定するかもしれない。でも仲の良いままでいたいなら、いずれ受け入れてくれるはず。――あなたのような人も、将来増えるかもしれないでしょう」
 そう言いつつ、胸の中に迷いが去来する。ここで選択の正しさを悩んでいては、自分の信じているものが崩れそうだ。彦根にはこちらから話を伝えておくので、林は何もしなくて良いと伝えた。この件については、自分の方が詳しく知っている。
 アナウンスが流れ、電車が近付こうとしていた。急に聞きたくなって、深志は口を開く。
「今、あなたは幸せ?」
 隣の男はまっすぐに深志を見据えると、目を細めて強く頷いた。
「うん! 百ちゃんといるのはすごく楽しいし、幸せです!」
 電車が到着する中、彼の横髪に付いた飾りが揺らめき、夕日を受けて輝きを放った。
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