第2話 面会2日目

文字数 3,791文字

 2回目の面会の折に、フランネル素材のピンクのスウェット上下と、若い女子に人気のプチプラな基礎化粧品、それにスイーツを差し入れた。滝沢小夜は何ともいいようのない表情をした。子供がまったく予期していないサプライズプレゼントを手にした時のようだ。
「ありがとうごさいます。でも、どうして…」
 小夜の声は初回時よりもトーンが上がった。
「お金のことなら国から貰った費用で、品物については娘から教わった」
 彼女は納得の表情を浮かべた。
「あのう、わたしの罪は何年の刑期でしょう?」
 小夜がふいに訊ねた。
「罪状が殺人だから、およそ7年から20年、最悪は無期懲役だと推量される」
「やっぱり、検事さんと同じ喋り方ですね」
 小夜はニヒルな笑みを浮かべた。幸輝はも経験上、この手の話しでは、決しては言葉を濁さないことにしていた。正直に正確に伝える。それが被疑者のためになることだと信じて疑わない。
「そうですか。検事さんは自白すれば、5年以下で済むとも言ってたっけ。…やっぱりわたしは騙された」
 小夜はまた俯いた。
「検察が自白を強要するなんてことは、あってはならないことだけど、当たり前にあることだよ」
 幸輝はこれもまたぶっきらぼうに答えた。
「あれ、ずいぶんと、バカ正直なんですね」
「わたしのよいところだと自認している」
 小夜は微笑んだ。
「田中さんはわたしを犯人だと思ってますか?」
「それは白紙だよ。君の言い分にかかる」
 小夜はフランネルのスウェットを顔に押し当てた。
「ああ、いい匂い。これ、娑婆の匂いって奴ですよね、きっと。なんかの推理小説で読んだことがある。娘さんはおいくつなんですか?」
「君より、ふたつみっつ年上かな。この管内の裁判所で判事補をしている」
「えっ、判事さん? もしかして、わたしの裁判を担当したりして」
「それはありえる」
「ラッキーです。わたしは無罪にしてもらえるかもしれない。なんたって、弁護士さんに判事さんも味方なら無罪を勝ち取れるかも」
 小夜は、今までない普通の喋り方をした。これが彼女の素の声か。
「滝沢小夜さんは、無罪を主張するでいいですね」
 幸輝は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ問うた。
「…でも、いまさら、そんなこと通用するんですか」
「君は勘違いをしている。罪を決めるのが審判の場、裁判だよ。真実を主張するのが君の役割だ。君が無罪を訴えるならば、わたしは弁護人としてそれを立証しなければならない」
 こうして、滝沢小夜の本来の主張が判然とした。
 幸輝は事件の概要をゆっくりと考えて、書面に記すように促した。今では忘れたり、いや、忘れさせられたりした事柄も多いはず。また、本人を取り巻く人間関係も、事細かく記すように依頼した。おおよそ刑事事件とは被害者、被疑者だけでは成し得ない、様々な事象が複雑に入り込んでいる。
 幸輝は少しでも手掛かりが欲しい。警察の現場検証、検察の調書には記されていない事柄。警察や検察に訊かれなかったことを知りたい。たくさんあるように思う。特に、被害者との関係性は重要。それをじっくり想い出して欲しいのだ。

 2日後の3回目の面会の時に、詳細なメモを受け取った。

 基礎化粧品の開発。優秀な商品には莫大に利益がもたらされます。基礎化粧品とは、ファンデーション、口紅、眉墨、アイシャドウなどの化粧品と呼ばれるものに対して、洗顔料、化粧水、美容液、乳液、保湿クリームといった皮膚を健やかに保ち、肌質を整えることを目的としている。
 特に、保湿化粧水(乳液)は女性なら年齢を問わずに憧れるもの。そのシェアを巡って、化粧品製造各社はしのぎを削っています。その中で、近年めきめきと頭角を現して来た化粧水があって、名前は「オーガスト」。その主成分に使われている「αプティCX」を発見したのが被害者・小林雄一。彼は〇大理化学研究室でわたしのふたつ先輩でした。
 化粧水の成分開発は多くの研究者が目指すところですが、その発見は運としか言いようがないのです。途方もない素材物質と酵素の組み合わせの中から偶然それを見つけました。たまたま、実験室で発見した小林は、そのことを研究室の誰にも言わなかった。
 公然と口に出せば、研究室を仕切る名誉教授の諸星精一先生に、研究室の成果か、或いは自分の研究成果にされかねないと、小林は危惧したんです。あと半年で博士課程も修了し社会に出る彼は、敢えて秘匿した。そして、卒業後に、研究室と相互互恵関係にあったA社に持ち込んだのでした。
 A社は小林と連携し、特許を申請し、新化粧水の開発に成功しました。

 ぷるり、つるり、しっとり、土台からかわる、新感覚な化粧水(乳液)―

 コマーシャルに起用した有名女優の人気と相まって、瞬く間に業界売上第1位に輝く。こうなると、面白くないのはあの名誉教授です。大学院を出立ての小僧に出し抜かれた。怒り沸騰に達して、小林雄一に対して、こう脅したそうです。
「いまにお前をこの業界から抹殺してやる」
 当然、提携関係にあった企業にも怒りは及び、提携関係は抹消され、別の企業に鞍替えしたそうです。

 肝心のわたしと小林雄一との関係は、先輩後輩関係以上恋人未満、そんな感じでした。わたしの方が常にお熱で、彼はいつも誰かほかの女性を見てる、そんな印象でガッカリしたものです。
 小林雄一の方は卒業後も何処にも就職せずに、しばらく定職にもつきませんでした。ほら、何しろ特許料としてA社から数億が入る訳だから。しばらくして彼は地元で、小学生相手の塾を始めました。
 学習塾じゃ、儲かっても、たかがしれてますよね。まあ、バックにはA社が控えている訳だし、彼にはそれとは別に生い立ちから来るホスピタリティー精神に溢れていました。
 彼は児童保護施設出身なんです。詳しい事は語りたがりませんでしたが、恐らくは児童虐待とかなんかでしょうか。元々、母子家庭だったようです。
 わたしは教員免許証も持っていますので、2年ほど前からたびたび彼の塾を手伝うようになりました。段々と人気が出て来て、コマ割りがどうしても足りなくなったんです。個別指導がモットーな塾でしたので、対面授業は生命線のようなものです。わたしも子供好きで、触れ合うのが楽しかった。
 あの事件があったのは祝日で、朝から大人数の児童が押し寄せて来ました。わたしは休日返上で一生懸命講師の仕事をこなしました。そんなわたしを彼は労ってくれました。普段は22:00までの処を20:00に終了して、慰労のための食事会を披いてくれたんです。
 驚いたことに彼は、自宅の食卓に幕張みらい地区の最高級ホテルのディナーを再現してくれました。シェフ自らの出張サービス付きで豪華な夕餉を堪能しました。シャンパンもMOETで、てとも美味しかった。酔いの勢いも手伝って、このままコクってくれれば、どんなに幸せか、と思ったものです。ひざ元から、婚約指輪が飛び出すのを今か今かと待っていたんです。(笑) だけど、とうとうなかったです。お話しの内容も塾や子供たちのことばかりで、ガッカリもした。
 こ一時間ほどで、わたしは酷く眠くなりました。お酒にはめっぽう強い方で、こんなことは今までに一度もなかったです。そのあとのことはよく覚えてません。起きたら、私はあてがわれていた部屋のベッドに寝かされていました。
 彼は不在でしたので、いつもの釣りに行ったんだと思いました。彼の唯一の趣味は魚釣り。何が面白いのか分かりません。獲物はスズキ(シーバス)です。釣ってもその場でリリースしてしまうので、食すことはないです。写真で1メートルを超える個体を自慢げに見せて貰ったことがあります。

 東京湾沿いはシーバス釣りにはもってこいの場所らしいです。あ、塾は、学校のある午前中は暇ですから、深夜~早朝の釣りから戻って来て寝るそうです。
 その日は平日でしたので、わたしはその朝、彼の自宅から海浜幕張駅まで歩き、京葉線で銀座にある会社に出勤しました。事件を知ったのは、お昼のニュース。社員食堂のテレビに流されていました。愕然として、膝頭が震えていたのを覚えいてます。
 警察から連絡があったのは事件から3日後のことでした。わたしは彼の塾のことが心配でもあり、ほら、生徒たちの身の振り方を考えねばならないでしょう。ところが塾の方へは、警察が家宅捜索を始めて居て入れません。仕方なく、スマホで生徒や保護者とやりとりしていました。
 任意の事情聴取に指定された千葉〇署にタクシーで向かうと、薄暗い取調室に連れて行かれ、年配の刑事さんから幾つか質問をされました。
 前の晩に、被害者宅に居たことを確認され、何のために居たのかなど執拗に聞かれました。また、小林との関係についてもかなりしつこく、失礼なほどに尋ねられました。また、彼が泳げるかどうかなども質問されました。
 そして、3時間後に、別の刑事さんと婦警さんが入室して来て、逮捕令状を指し示し、逮捕する旨を告げられました。その場で婦警さんに、片腕を抱きかかえられ、留置場に連れて行かれました。
 わたしの知ってることは以上です。
                                   滝沢小夜 記                                                         
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