第4話 聞込み 初日

文字数 4,028文字

 田中幸輝は築40年もののUR賃貸住宅に事務所(兼住居)を構える。同居人は老ネコ一匹。国選以外の弁護を担当しない彼の元に来訪者はほとんど居ない。被疑者は拘置所に居ることが多いからだ。そんなこともあって、事務所とはいいながら、雨天時の洗濯物用に物干しロープが一本、接客ソファー上に吊り下がっている。
 キッチンには片手鍋以外の調理器具はない。カセットボンベを装着する簡易コンロで湯を沸かし、麺類のみを茹でる。大抵の食材はチンで済ませる。お蔭で腹が出ずにスマートな体型を保てている。これは日頃の無精の賜物だと苦笑する。
 この日は裁判所や拘置所に行く用がないので、昼前からソファーに寝転び、膝の上に載りたがる飼い猫を腹に載せる。それから新聞を拡げて地域面に目を通す。傷害に暴行、窃盗に詐欺と、国選の事案が掲載されている。事前のチェックも仕事のひとつ。
 ニュースを見ようとテレビをつける。最近のお昼のワイドショーは例の「〇見川河口殺人事件」、夜釣りの際中にお相手の背中を押して海に突き落とし、溺死させた事件で持ちきりになっていた。恋仲の男女間での事案とあってセンセーショナルだ。
 番組では、実に巧妙に事実を歪曲、脚色して主婦の心を鷲掴みにする。幸輝はバカバカしいので普段はテレビを切ってしまうのだが、芸能記者の新ネタに耳をそばだてる。

 ―被害者は塾経営と言っても、いつもひとりで講師を務めていました。塾の評判はよかったようです。千葉新都心の幕張みらい地区近辺には塾が5つあるのですが、常にトップの生徒数を維持していました。高学歴、高身長で、高級分譲マンションの一室に居住していたのでお金持ち。こうなると、ママさんたちは黙ってはいない。
 ワイドショーらしい内容になってきたが、次の言葉に興味が沸いた。
 ―ところが、つい最近、塾がSNSで誹謗中傷されて窮地に陥っていたようです。
 その内容と言うのが、
 「塾長は小児性愛者。お子さんは大丈夫??」
 とのいち文に、小学1年の女子児童の手をひいて人気のない道を歩いている講師の動画が添付されていた。事件のふた月前に、学校クラスのLINEメールとXにつごう4回投稿されたようです。大騒ぎとなって、その日から塾には人気が無くなった模様。彼は思いも寄らない危機に遭遇していた。

 番組では、これも被疑者の元恋人の仕業と疑ってかかっていた。ただ、幸輝には初耳の出来事だった。警察・検察の調書にも載っていないし、この前の小夜のメモにも記されていない。これは調べてみるべき事案。元検事の幸輝は直感した。
 事件とは、AとBが出会って偶発的に起こされるものではない。両者には人柄、生活環境、人間関係があり、その多くが交じり合わなければ、ましてや殺人などとても起きるものではない。(それでも起きるのを無差別テロと呼ぶ) 今回は被害者の一端を知ることが出来た。
 被疑者である小夜の背景は、警察・検察の調書や面会からある程度は推量出来る。ただ、被害者となると検察の管轄。被疑者の弁護人ではまるで知る由もない。ここはひとつ、自分の脚と眼で確かめる必要がある。幸輝はまずは、塾のホームページで被害者の情報を探りはじめた。

 塾の名前は「ホーリーホック」 所在地 幕張みらい地区〇□
 対象は小学生
 指導科目 国語 算数 理科 社会 英語
 指導内容 個別指導 中学受験対策 英検対策
 指導時間 月~金 15:30 ~ 22:00  土日祝も応相談
 講師 小林雄一(32) 〇大理化学研究所博士課程修了

 ネットの口コミ情報からは、4.5点(5点満点中)、個別指導で分かり易い、誰にでも優しい、一学期で成績が向上した、英語もペラペラ、とにかくイケメンで恰好いい、とある。

 海浜幕張駅に降り立つと、近代的な高層ビルが林立していて新都心の名に相応しい。有名な大手の企業も多くここに本社を構えている。幸輝はスマホナビを頼りに、まずは被害者の塾を訪ねることにした。

 塾は、みらい地区のスペイン風石畳メインストリートの中ほどの、お洒落な5階建てマンションの1階店舗に在った。事件からひと月以上経過しているものの、塾名の看板はそのまま残って居る。ウィンドウガラス越に覗いて見る。教室もそのままの状態だった。壁には世界地図やら英検のポスターなどが貼ってある。
 すぐ真向いにコンビニがあった。幸輝は聞込みに向かう。名の在る大抵の弁護士事務所はこのような時には提携の探偵事務所やらを使う。幸輝にはそんな余裕もないので、弁護士の資格証を見せて自ら行うようにしていた。
 検察官出身の彼には現場での刑事の職にも精通していた。聞きたい情報を絶好の相手より訊きだす。事件捜査の極意。手腕が試される時でもある。ここは、すでに当局の捜査、マスコミ連中の取材で慣れっこになっていた。店長からは、淀みなくスラスラと塾の様子、講師の人間像が入って来た。
 やはり、かなりの賑わいを見せていた塾のようだ。自転車置き場は常に満杯だったそう。平日では間に合わずに祝祭日も開塾していたようだ。先生は独身で、住まいは塾のあるマンションの2階の1室だそう。このマンションは分譲物件で、所有物だったことになる。これで小夜の供述(特許を取得していて裕福)のひとつが裏付けられた。また、趣味が釣りであったことも店長は知っていた。この辺りではルアーを使ったシーバス釣りが盛んに行われているとのことだった。
 教師はいわゆるイケメン、この辺りでは目立つ存在だったようだ。高学歴、高身長、お金持ち
と三拍子揃うと子供の母親には特段の人気があったようで、着飾った母親が子供と塾に入るのを何度も目撃したと語った。
 コンビニの防犯カメラ映像は警察に押収されたままだそう。ここでの収穫は以上だが、幸輝はさらに粘った。その群がっていた母親のうちの誰かを知らないか、と尋ねた。店長はしばらく頭を捻っていたが、ある女性の情報をくれた。
 地雷系スタイルの母親―
 幸輝は何を言っているのか分からない。ここはスマホで検索してみた。
 

 なるほど。こういうことか。次に、この女性の行きつけだったという花屋に行く。コンビニの三軒隣だった。幸輝は身分を証し、たったいまコンビニの店長から聞いた情報を投げかけてみた。危なっかしい話しだったが、アルバイトの女子にはそれが誰のことかがすぐに分かったようだった。それだけ、この女性のスタイルは有名だとのことだ。
「あ、吉野さん、このマンションの3階の人ですよ。うちの常連さんです。若い子の衣装なんで、30歳を超えて、あのスタイルは貴重ですから…」
 これはいち部皮肉もまじっている。わたしから聞いたとは言わないでくれと口留めされた。
 さすがに高級分譲マンションとのこともあり、オートロックの玄関ドア横の郵便受けには各家庭の名前が入っていた。幸いにも吉野さんは在宅だった。
 インターフォン越しに身分と用向きを伝えると、「お家には子供が居るので、そちらに向かいます」と言われた。やがて、白黒のフリルワンピ姿の女性が現れた。なるほどこれが地雷系。膝上丈にハイソックスにはちょっと年齢には不釣り合いなものを感じたものの、まあ、個性を引き出すお洒落のいち手法なんだろうか。
「すいません。お手間をとらせます」
 幸輝は礼を陳べる。
「あのう、弁護士さんとは、あの犯人の女性のってことですよね?」
「はい、そうです。もうすく公判が始まりますので、陳述内容の精査に当っています」
 幸輝は上手くお茶を濁した。
「あの先生が亡くなってしまうなんて、信じられません。恨みをかうなんてことは在り得ない人物ですよ。本当にやさしくて。わたしの息子は頭が悪いんですが、何とか成績があがるように親身になって相談に乗ってくれました」
「そうですよね。ネットでの口コミも申し分ないですしね、お仕事では評判は良かった。ただ、お聞きしたいのは普段の彼の生活の様子なんです。何かお気づきになったことはありますか? わたしは弁護人なんで、被疑者の情状酌量の余地を探っています」
「真向いのマンションの2階で独り暮らしされてました。特段、目立つようなことは。何しろ。塾の運営だけで休日も返上されてたし。
 まあ、お部屋の様子はわたしなんかより上原さんがよく知ってるんじゃなですかね…。彼女はよく手作りのお弁当を届けていました。あの方はシンママだし、相当お熱がはいっているように見えましたが…」
 吉野さんの眼付きが一瞬、険しくなったのを見逃さなかった。つまり、上原さんに嫉妬していたわけだ。ママ友同士の諍いにはありそうなことだ。
「あ、それから、小林(講師)さんは子供食堂の運営にもタッチしていました。全く違う地区ですげど。〇見川を隔てたさざなみ地区で。そこのことに関しては、わたしはまったく分かりませんけどね」
「もうひとつだけ。誹謗中傷にもあって居ましたよね。テレビ報道で知りましたが…」
「ああ、事件のふた月まえぐらいですね。最初の2、3日は保護者もだいぶ警戒しました。まぁ、辞めて違う塾に通い出す子供も確かにいましたけど、ほとんどの親はそれまでの先生のお人柄を知ってますからねぇ。
 人の噂もなんとやらで…しかも、いま、流行の誹謗中傷だと同情する声もあがって、徐々に沈静化しだしましたけど。動画に映っていた児童の親も、あれは不登校の児童を塾に連れて行って貰った時の様子、と釈明してくれましたし。それでも、先生は穏やかではなかったでしょうね。普通に考えれば、何処かに、恨む親も居るとのことですからね…」
 幸輝はこの日、誹謗中傷事件のいきさつ並びに小夜以外にガイシャ宅に出入りしてた人物(生徒の母親)が居たことを知り、さらに子供食堂のことを聞きだした。大きな収穫だ。おそらく警察も犯人ありきで、このような被害者の身辺情報は探っていないと思われる。
 事件はまだまだ初動捜査の段階にあるのだ。
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