第3話 新興教団訴訟

文字数 2,572文字

 この日、判事補・青木玲奈が担当する裁判はない。午前中は審議終了事件の判決文作成のために、地下の資料室に籠って、過去の判例に目を通している。
 判決文の作成にあたって大抵は判例に準拠する。量刑判断の参考にするのはもちろんのことながら、可笑しな日本語の言い回しは避けたいとの想いが籠っているのだ。裁判官の数は多けれど、国語力や作文能力に秀でた人物を捜すのは大変なこと。自信がないから過去の判決文に頼る。無難な線を狙うわけだ。
 ただ、判決文は報道されることも多い。被告に贖罪を促すと同時に、揺るぎのない正義感と憐憫の情を誘う説諭には感動させられるものだ。過去の判例をベースにして、如何に的を得た訓戒に仕上げるかが腕のみせ処となる。また、判事を補佐する判事補の力量の場とも言える。
 過去の判例に六法全書と広辞苑、机にはノートを拡げる場所すらない。

 午後からは担当している裁判の証人尋問を行わなくてはならない。裁判所でもその裁量に必要とあらば独自に証人尋問をする。
 尋問者は吉田奈々子(37)千葉県〇市〇×並びに安藤冴子(42)千葉県〇市〇×。
 事件とは、新興宗教「真正主義協会」内での暴力事件で、協会の広報部長秘書・赤井裕子(35)が信徒の水木奈緒(18)の頭部、腹部、左腕を如意棒(仏具の一種)で複数回殴打し、全治3ヶ月の重症を負わせたもの。訴えは被害者の両親から起された。
 千葉〇警察署は被害届を受理。教団施設を捜査し、被害者、教団から事情を聴取し、凶器の如意棒を押収し、そこから被害者の指紋と加害者の血痕並びにDNAを確認した。しかしながら、殴打事件は確かに存在し、被害者も入院していたにもかかわらず、加害者は黙秘を続け、被害者も被害の認否を保留し続けていた。
 それでも警察は検察に事件送致し、検察も裁判所に事件を提起した。しかしながら、第1回公判時には、被害者はあろうことか、暴力の事実はなく、教団の階段から滑落した際におきた傷であると主張した。階段からの転落では説明のつかない傷もあるが、階段から落ちたとの1点張りだった。
 親が怖くて言い出せない、あとの報復が怖くてムリ、とネグレクトや暴力団事件では普通にあることなので、裁判所も慎重に判断し今回の証人尋問と相成った。証人尋問は法廷ではなく、裁判所の会議室の一室で、法服を纏った担当判事と判事補の玲奈、それに書記官1名が相対した。
 吉田奈々子は「真正主義協会」の現信徒で、事件現場に居合わせた人物だった。裁判長は本人かを確認する「人定尋問」をはじめる。
 整理手続により申請された「証人カード」を見ながら、
「住所、氏名、職業、年齢は『証人カード』に記載された通りですね」
 証人が同意すると、裁判長は、
「では、お手元の宣誓書を朗読してください」
「宣誓、良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」
〇裁判長
―では、〇月〇日〇時、「真正主義協会」内で起こったことをありのままに口述して下さい。
 はい、その日は大掛かりな室内設備の移動がありまして、A室からB室に長机を二人ひと組で持ち上げ移動していました。ちょうど階段に差し掛かった処で、水木奈緒さんがバランスを崩して机ごと階下に落下してしまいました。赤井さんは、何とかそれを防ごうとして如意棒で机が落下するのを支えようとしていました。教団の階段はらせん構造をしてまして、机の落下には手すりと壁にひっかかって時間がかかるのです。
―と言うことは、水木さんの傷は如意棒からの殴打ではないというのですね。
 はい、転落の際に運んで来た机と階下にある掲示板の角に頭部と左腕をぶつけた。
―今のあなたの説明では、水木さんの傷の現状とは客観的に一致しないのですが?
 わたしは医師ではありませんので。そのあたりのことは分かりかねます。ただありのままをお話ししたに過ぎません。
 次に、会議室には入れ替わりに安藤冴子が入室して来た。この人物は「真正主義協会」の元信者で、いっとき「真正主義協会」被害者の会代表も務めていた。教団への損害賠償訴訟にも参加している。人定質問・宣誓に続いて証人尋問に入る。
〇裁判長
―今回の事件をどのように解釈されてますか?
 典型的な新興教団と信者とのトラブル。暴力事件です。しょっちゅうあることですよ。
―被害者・水木奈緒さんは暴力を否定しています。そればなぜ?
 報復が怖いんです。それに、まだ彼女は教団を信じているんじゃないでしょうか。教団に残れれば居場所のないこの社会から逃れられる。そう、信じて疑わないんです。わたしも以前そうでしたから、気持ちはよく分かります。
―ただ、ご両親は心配されてます。そのあたりのことは。
 ご両親の心配はごもっとも。ただ、信者は両親のそばに居ても幸せにはなれなかったから、協会に入信するんですよ。こればかりはどうにもなりません。
―本事例のようなことは何度も繰り返されてるんでしょうか?
 たびたびのことです。だから被害者の会がある。信者に目を覚まさせるのは並み大抵では適いません。
 判事と玲奈は顔を見合わせた。これ以上の審議は意味をなさない。裁判所は罪を裁く場だ。被害者・加害者ともに傷害事件を認めようとしないのでは裁きようもない。民主主義国家では国民の自由は保障されている。罪を冒さない限りは何をしても自由なのだ。

「理解に苦しむ。全治3ヶ月の怪我させられても黙ってるなんて…」
 ここは、職業上の不満を述べ合ういつものカフェ。対面には同じ判事補の同僚・優紀が座る。
「あれって霊感宗教でしょう。このままでは祟られるとか、地獄に堕ちるとか、難癖つけられてお金をむしり取られる。たまったもんじゃないね。まだ、イケメンに貢がせられる方がいいか」
 彼女は目下、二股中である。弁護士の彼に、検事補のイケメンさん。
「社会で居場所を持てない人間は多い。若い女子には社不の人は確実にいる。優紀と違って、容姿に自信が持てない、はてまた勉強が出来ない、運動・音楽おんち、とか、女子は自信をなくす理由が多いよね。霊感宗教はこれら女子を狙う」
「それを言えば男子だってそうでしょ。引きこもりは男子の方が多いし…」
 どうにも納得のゆかない事案は新興(霊感)宗教には付き纏う。
 この日のコーヒーはエスプレッソ、ほろ苦い味がした。

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