第1話 面会初日

文字数 2,885文字

 弁護人・田中幸輝はタントで、千葉県〇〇拘置支所に向かう。本日は殺人事件の容疑者と面会がある。国選弁護人制度で管轄の裁判所より弁護を任じられた。国選弁護人制度とは、被疑者(刑事事件で拘留された人)が経済的な理由で自らの弁護人を選任できない場合に、法律の規定により国が費用を負担して裁判所が弁護人を選任することをいう。
 まずは私選の弁護人を雇うお金がないとの場合が多いが、お財布にゆとりがあっても、掛かりつけの(知っている)弁護士が居ないとの事情も案外と多い。いざとなった場合、誰に弁護を頼むのか?これは普通の日本国民であれば誰しもが抱える問題だろう。
 これが、裁判沙汰が絶えない訴訟大国・アメリカならば、ひと昔の前の町医者制度のように、その一族、地域に掛かりつけの弁護士が居る。でも、日本では第一、訴訟などは滅多にあり得ないし、普段の生活で弁護士とは遠い存在なのだ。
 日本の被疑者の有罪確定率は99.9パーセントにものぼる。これは優秀な警察・検察機構のお蔭にも見えるが、逆に0.1パーセントしか無罪にならないとも考えられるし、そら恐ろしい数字でもある。ただ、私は無罪です、と初見で断じる被疑者は滅多にいないし、国選弁護人の職務は、おそらくは有罪であろう人物への刑の軽減ないし情状酌量を勝ち取ることに尽きる、と言える。
 拘置所の職員に伴われて面会室にやって来た女性は、まだ二十歳でも通るようなうら若い女子だった。訴状には29歳とある。職歴ではなく、学歴のみ記されている。〇大理化学研究室研究員とあった。大学院での博士課程にあたるようだ。
 検察による訴状は次のようにある。
 
 6月22日午前7時半頃、釣り人たち複数人が、千葉市美〇区〇見川河口近くの海上に水死体を発見、警察に通報した。千葉〇警察署が遺体を回収、所持品から身元が判明する。
 千葉市美浜区打瀬〇×  小林雄一(32)
 所持品と現場検証、司法解剖の結果、同氏は同日午前5時頃に花見川河口付近でシーバス釣りをしていたところ、堰堤より2メートル下の水面に落下し、溺死したものと判明。千葉〇警察署は事故と事件の両面から捜査を開始する。
 6月30日、千葉〇警察署は同事件を堰堤の上で釣りをしていた被害者の背後を押し、夜の海原に落下せしめた殺人事件と断定し、容疑者として滝沢小夜(年齢29)を逮捕した。
 容疑者は〇大学2年間と、同大理化学研究室での3年間を、2歳上の被害者・小林雄一と先輩後輩の間柄で過ごした。専門は、応用化学で基礎化粧品の開発。被害者が3年前に研究室内で発見した物質を特許申請。この特許を巡っては、大手化粧品会社〇社が2億円で購入したい旨の申し出もあった。ところが容疑者は、この物質は自分との共同研究の成果であると主張していた。両者の言い分は食い違う。さらに、永年に亘る痴情のもつれもあり、容疑者は憤懣を募らせて行ったと推量される。
 6月30日未明、被害者が自動車で自宅から200メートル離れた花見川河口まで釣りに出向くのを確認し、被害者宅より跡をつけ、殺害に及んだと推量される。

 検察側の調書では、被疑者・滝沢小夜は逮捕から2日間の身柄拘束では無実を主張、なお、検察に送致してから24時間も無実を訴え続け、10日間の拘留延期でも答えは揺るがなかった。しかし、担当検察官よりさらに10日間の拘留措置延長をちらつかされた時に、とうとう落ちた。殺人を認めた、とある。
 検察官職の長かった幸輝には、この時の被疑者の気持ちもよく分かる。もう13日間連続で、警察・検察より自白を迫られる。毎日8時間、のべつまくなしにだ。誰でもイヤになる。不思議なもので人間は、そうだと断じられ続ければ、そう思ってしまうものらしい。これは、脳が自己防衛反応を起こす。事実を錯誤してでも、不快な環境から逃れようとするのだ。
 こんなことは検察官だったら誰しも認識している。それでも犯人だと確信するには、それ相当の物的証拠が現前としてあるとのことだ。
 ところが調書には、物的証拠は何ひとつとして載っていない。幕張みらい地区と言えば、千葉では有名な高級住宅街だ。防犯カメラはどのマンションにも当たり前のように取り付けられているはず。そのどれにも連れ立った被害者と被疑者の動画が無かった。
 また、釣り道具は被害者一式のみで単独での釣りを物語っている。どの用具にも被害者以外の指紋も見つかっていない。ゲソコンと言ってもコンクリートの堰堤のこと採取は難しいし、普段から人の出入りは多かった場所。
 それでも他殺と断ずるには、事故と断定するような、ずり落ちた跡とか滑り落ちた痕跡が全く見られなかったこと。自殺とするには、滑落した堰堤にしがみつこうとした被害者の爪痕が多数確認されていたこと。遺体のどの指の爪も激しく損傷していたのだ。

 やがて被疑者の女性が面会室の対面の席に着席した。顔に血の気がない。精気も感じられない。質量のない亡霊のようだ。
「はじめまして。わたしは裁判員裁判であなたの弁護を担当する田中幸輝と申します」 
 幸輝はよく聞き取れるようにハッキリとした口調で述べた。経験から耳に蓋をしている人たちも多い。ここまで来るのに、怒鳴られ、なじられ、時にはなだめすかされ、散々になぶられて来た。当たり前といえばそうなる。女性はチラッとこちらを見たが、また下を向いてしまった。

「わたしは国選弁護人です。世間での評価は低い。国から僅かな金額で雇われているので、充分な弁護をして貰えないと思っている方々も多いです。でもそんなことない。わたしの専門は刑法です。知識も経験も充分にあります。信用してください」
 近頃は冷えて来たのに、女性は薄手の紫色のスウェットの上下を着ているし、あまりに味気ない。面会人のリストを調べたが誰も来ていない。家族はどうしたのか? 幸輝は事件とは関係のないことから質問してゆくことにした。
「滝沢小夜さん、ご家族は面会に来ましたか?」 
「両親は他界しています。弟がひとり。でも、殺人犯じゃ、来ないですよね。もともとあまり仲もよくなかったし。スマホも没収されては、知人にも頼めないし、困ります」
 女性の声は小さく、俯き加減だった。
「そうですか。わたしはご覧の通りにお洒落とは縁遠い。でも、女性の普段着ぐらいは分かる。なにか見繕って暖かそうなものを差し入れします。小夜さんは何色がお好きですか?」
「……ピンクかな。
 でも、わたし、弁護士さんって検察の方と同じことを聞くのかと思ってました」
 女性は僅かながら微笑んだ。
 よい兆候だ。たった3回の裁判の審議回数であっても、被疑者と弁護人には信頼関係が必要なのだ。裁判では真実のみが解き明かされる。そこには筋書、虚偽、思惑があってはならない。弁護人は検察と相対する被疑者の代弁者なのだ。
 初回の面会は、好みの色と拘置所での生活で最低限必要な物だけを聞き出した。次回はあさって、それらを差し入れする。一歩ずつ先進する。孤立無援から少しでも解放してやらぬばならない。真っ当な人間に戻すために。
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