第1話(1)

文字数 3,283文字

  カジノにハマったのは、冒険者ギルドの職員として働き始めて一年が過ぎようとした頃のことだ。
 きっかけはちょっとした憂さ晴らしだった。
 遠慮のない我儘で横暴な冒険者の相手や適当な理由で私のもとに回ってくる大量の仕事、そして私の陰口で花を咲かせる同僚先輩たちの姿に私の心は疲弊しきっていた。
 そんな私に夢を見せてくれたのが街のカジノである。
 そこはホコリ一つない清潔な店内にきらびやかな内装と設備、そして金貨の山を客が手にするその光景は、荒んだ私の心を潤してくれるテーマパークのような場所だったのだ。
 幸運なことに、初めてカジノに訪れた時、私は大当たりを引いた。
 ビギナーズラックというやつだ。
 一ヶ月汗水流して稼いだ賃金の倍以上の額を手に入れるまでにかかった時間は、たったの一時間。
 冒険者としてやっていく腕っぷしも、何かのプロフェッショナルとしてやっていく恵まれた才能もない私にとって、カジノに夢を抱くには十分な額だった。
「……ふふ」
 大量の金貨を前に笑いが止まらなくなったのを、今でも覚えている。

 そして、仕事終わりにカジノへと通うようになって早一年。
 終わりは突然だった。
「嘘。え?」
 手にした財布を前に驚愕の声が漏れる。
 給料日直後で大小の銀貨に満たされていたはずの革袋の中身がカジノを出る頃には空っぽになっていたのだ。
 銀貨どころか、銅貨の一枚すら見つけられない。
 まだ今月の家賃すら支払っていないのに……。
「……」
 人間、頭が真っ白になると声の一つさえ出なくなるらしい。
 きっとこれは悪い夢。
 寝て起きれば、きっと財布の中身は元通りになってるはず。
 そうすれば、またカジノに行ける……。
 私は頭の中でそう何度も呟きながら帰路についた、はずだった。
 
「あれ……?」
 家に向かっていたはずなのに、たどり着いたのは月の光さえも届かない狭い裏路地。
 こんな路地は初めて使った。
 そもそも、どうしてこんな道を使おうと思ったのか。
 影で真っ黒に塗りつぶされた路地の先が私の家の方面に繋がってるかなんて当然分からない。
 けれど、一つだけ分かることがある。
 心が異様なまでにざわめいているのだ。
 ここは危険だ、早くここを離れろ、そう言っている。
 私は踵を返し、全速力で路地を駆けようと足に力を込めたその時……。
「グラァァァ!」
 路地の地面から何かこちらに向かって飛び出した。
「――っ!?」
 腹部に走る重い衝撃。
 私は声にならない悲鳴を上げるのもつかの間、腕を噛み付かれたという感覚と激痛が走ると同時に視界が真っ黒になった。

 呼吸ができない。
 まるで水の中だ。
 だけど、あの路地に私の身体がすっぽりと収まるほどの深い水はなかったはずだ。
「がはっ……!?」
 理由が分からぬまま、地上へと引っ張り出されると、そこは見慣れた街ではなかった。
 薄暗い林の中だった。
 ここはどこか、なんて考えている暇はなかった。
 犬に似た四足獣の身体に鮫の頭とヒレが付いたおぞましい見た目を持った化け物が私を睨みつけているのだ。
「……魔物」
 一瞬で直感した。
 私はこの化け物が行使した力、魔術によってあの裏路地に誘き寄せられたのだ。
 理由はごく単純。
 私を喰うためだ。
 そうなると、ここは……。
 背後から複数の足音。
 恐る恐る振り返ると、そこには二頭の鮫犬の姿があった。
 私を襲った個体よりも二回りほど小さな彼らは口からダラダラと唾液を垂れ流し、無数に生える三角形の無数の歯を露わにしている。
 獣の中には親が捕まえてきた弱った獲物を練習台にして狩りの仕方を子供に教えさせる種がいるという話を聞いたことがある。
「……まさか、私でそれを?」
 全身の血の気が一気に引いて、ガタガタと震えだした。
 逃げなきゃ、逃げないと……死ぬ。
 そう分かっていても、実際に身体が動くかは別問題だった。
 冒険者や衛兵によって守られた街から殆ど出たことのない小娘が魔物を前にできることなんて、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら命乞いをするくらいである。
「来ないで。来ないで」
 どうして今日は悪いことが続くのだろう……。
 有り金を全部失って、魔物に襲われて。
 運の尽き、ということなのだろうか……。
「グラァァァ!」
 鮫犬の子どもたちが私めがけて一斉に飛びかかる。
 誰か、助けて……!
 私は目蓋をぎゅっと閉じる。
 ……?
 想像していた激痛はいつまで経っても感じることはなかった。
「若いのは活きが良いね」
 聞き覚えがあるようなないような、そんな女の声が直ぐ側から聞こえた。
 助けが来た……?
 私は目蓋をゆっくりと持ち上げる。
 そして、声を失った。
 そこにいたのは、月光で光り輝く銀色の髪をもった女であった。
 だが、この女、シルエットは確かに人間だが、人間にはあってはならない被膜の翼が背中から生えている。
 そう、この女も魔物であったのだ。
 それを認識した瞬間、私の背筋はさらに凍りついた。
 魔物にも格がある。
 人型の魔物は人間並みの知能と高い戦闘能力を持った最上位の魔物だ。
「おっと、暴れるんじゃない。楽に殺せないだろう」
 女の枝のような細い腕で首を鷲掴みにされて宙吊りになった鮫犬の子どもたち。
 女から逃れようと全身を滅茶苦茶に振り回すが、女の腕はびくともしない。
「悪いけど。仕事だから、ねっ!」
 女がそう叫んだ直後、鮫犬が爆発した。
 飛び散った血が女に降りかかり、銀色の髪を赤く染める。
「さて、次は――」
 女が振り返る頃には、親鮫犬は女に飛びかかっていた。
 女の頭はすでに大きく開かれた鮫犬の大顎の内側。
 回避不可能な距離である。
「……おっと」
 絶体絶命であるはずの女の口角は上がっているように見えた。
 ガチン。
「ひっ!?」
 空気が震えるほど衝撃に私は思わず目を背けた。
 あれを食らえばいくら魔物であれ即死だろうことは、生きている魔物を殆ど見たことのない私でも理解できた。
「あれ?」
 女の生死を確認しようと女がいた場所に目を向けた時、二つのおかしな光景に私は思わず声を漏らした。
 まず、女の姿がないことだ。
 鮫犬に頭を食いちぎられたとして、首から下は残るはずなのに、それすらどこにも見当たらない。
 もう一つは、女に襲いかかった鮫犬の姿も見当たらないことである。
「一体どこに?」
「下からごめんよ!」
「きゃっ!?」
 地面から女の声がしたと思った次の瞬間、地面に伸びる私の影から二つの何かが飛び出した。
 女と鮫犬である。
 この女も鮫犬と同様に影の中に潜る魔術の使い手だった。
「おら、くたばれ!」
 女は鮫犬の身体を掴み、そのまま鮫犬の頭部を地面に叩きつける。
 地面を割るほどの一撃に鮫犬は絶命した。
「シャークハウンドの群れの討伐で良かったんだよな……よしよし、依頼完了っと」
 ブツブツと呟く女の手には一枚の羊皮紙があった。
 その羊皮紙には見覚えがあった。
「それ、ギルドの依頼書ですか?」
 それは冒険者ギルドが発行する冒険者宛の依頼書だった。
「……さあ、何のことかな?」
 女は豊満な胸の谷間に依頼書を隠して、すっとぼけた。
「私は冒険者ギルドの職員です。見間違うはずはありません」
「まあ、そうだろうね。真面目な君を誤魔化すのはちょっと厳しいよね」
 女はニヤニヤと笑みを浮かべながら、こちらの様子を伺っている。
「あなた、何者ですか?」
「分からない?」
「質問を質問で返さないでください」
「……仕方ないな」
 すると、女の身体を漆黒の闇が覆った。
「これが人間に化けている時の姿だ」
 身体を覆う闇が消え失せると、一糸まとわぬ人間の裸体が目の前に現れた。
「え?嘘……?」
 腰まで届く金色の長髪に、鮮血を思わせる真紅の瞳孔、色白で傷一つなく真っ白い肌を持つ細身の身体についた豊満でハリのある胸という同性さえも羨んでしまう肉体をもった女。
 その女はよく見知った人物だった。
 女の名は……。
「エリザベートさん」
「正解。バードック管轄区冒険者ギルドで最強の冒険者っていうのは私のことだよ」
 人型魔物の女もとい冒険者エリザベートはニヤリと笑みを浮かべてそう言った。
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