BWV852 私に羽が生えた日

文字数 1,907文字

 私に羽が生えた日。私は脊髄に傷があった。私は祭壇に安置されていた。
 私はろくに動けなかった。満足に立つこともできなかった。助けはあっても、救いはなかった。そんな言い種はわがままであるのかもしれない。でも、それが実感だった。泣くことはできるようだった。不器用ながら。でも、泣くことにも飽きた。哀しくなくなったわけではない。外から見たら、区別はつかないだろうけど。泣くことに飽きたなんて、だれに伝えられるだろう。胸の内側のだれかに向かって呟いて、それ以上は広げない。広げられるわけもない。そういう呟きを、祈りというのだろうか。私の祈りは不細工で不恰好で醜かった。それでも呟かずにはいられなかった。切れ切れに、細く細く。潰れてしまわないように。
 私に羽が生えた日。私は窓から空を見ていた。空と私に、どんな関係があるのか考えていた。雨であろうと晴れであろうと、外に出ない私には直接関わりのないことではあるが、その日は雲ひとつなく晴れていた。窓という枠から見えるかぎりは、そうだった。
 その青空は、なんのために存在するのだろう。私はなんのために生まれたのだろう。しきりにそんな疑問が浮かんだ。
 空があるのは、鳥が飛ぶためだ。空があるのは、人間が見上げるためだ。空があるのは、光を届けるためだ。そんな具合に、空の存在理由を十も二十も数え立てた。考える暇はいくらでもあったから。
 私の方の存在理由は、なかなか思いつかなかった。最初のひとつが出てこない。最初のひとつにすら躓いてしまう。自信が持てないのだ。他人に対しての自信ではない。他人のことなんて関係ない。自分に対して自信が持てない。これが私の存在理由だ。私はどんな理由を掲げれば、そんなふうに自分自身に啖呵を切ることができるのだろう。
 疑問に意味がないことはわかっていた。存在することになぜもなにもない。ただ存在するというだけだ。ただ生まれたというだけだ。理由なんてない。成り立ちや由来や経緯はあるが、なぜ、という問いへの答えなんてない。どんな理由を掲げても、私は納得できないだろう。空があるのは、鳥が飛ぶため。確かにそうかもしれないが、それは無数の答えのひとつであって、要するになにも言っていないに等しい。鳥が絶滅しても空はあるだろう。私が死んでも空はある。当たり前のことだ。私と空は、いまのところ、なんの関わりもない。
 それが、その日、そのとき、私に羽が生えた。
 寝ている姿勢だった私の上半身が、背中からゆっくりと持ち上げられた。寝床と私の背中のあいだに、いつのまにかなにかが挟まっていて、みるみる膨らんでいった。わさわさと背後でなにかがざわめいている。寝床の外までそれは広がって、上下にひゅんひゅん動いているようである。
 私は平仮名の「く」のような姿勢のまま、どうやら宙に浮かんでいるらしいことを発見した。天井がすごく近いのである。とはいえ頭をぶつけることもなく、その場にふわふわ私は漂っている。
 困ったことになったなあ、と私は天井を睨みながら考えた。相変わらず私はろくに動けない。しかし身体が宙に浮いている。こんなところを人に見られたら、どう説明すればいいのだろう。
 しばらくのあいだそんなふうに逡巡していたが、浮いているのは私のせいではないのだから、説明しなくてもいい、という結論に達した。なんだか知らないが浮いているのだから、仕方がないだろう。
 とはいえ新たな悩みの種に気づいた。この角度からでは、窓から空が見えない。私の疑問のキャンバスであった空が、私の視界から失われてしまった。
 すると私の背中のわさわさした気配は、その考えを察知したかのように、妙な具合に動きを変えた。天井がゆっくりと離れていく。私の高度は少しずつ下がって、窓から空が見える角度まで下りてきた。
 ちょうどそのとき鳥が通りすぎた。目が合った、と私は感じた。あちらからはどう見えたのだろう。飛ぶことに慣れていない新参者か? 無性に恥ずかしかった。
 とはいえ説明する義務はない。なんだか知らないが浮いているのだから、説明は私を浮かばせているなにかに任せればいい。鳥が説明しないように、空が説明しないように、私は私の存在理由を説明しなくていい。微妙な間隔で浮き沈みしながら、やけくそのようにそう思った。
 息をするために、私はここにいる。強いて言うならば、そういうことだろうか。
 私に羽が生えた日。それが希望につながるなにかなのかもよくわからないまま、窓から空を眺めて、空と私はどうやらなにかしらの関わりがあるようだという想いがこみ上げて、私は私の背中の羽を、どうしようもないままもてあましていた。
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