第1話
文字数 2,290文字
スナックのドアをおそるおそる開けた私を、ママはひと目で気に入ってくれた。
「名前、静香さんのまんまでええね。べっぴんさんやし、服もそういうのでええわ」
その場で採用が決まり、私はスナック『ふじかわ』で働く事になった。ママが一人でやっている駅前の小さなお店である。
ママは背が低くて手足が短く、パーマをあてた飴色の髪をわたあめみたいに膨らませていた。胸とお尻に詰め物をしたような膨らみを持ち、足の長いカウンターの椅子にぴょんと飛び乗り、ぴょんと飛び降りて、丸っこい体を機敏に動かす。
週一の勤務でも構わないが、夜以外も月に一度、昼間に貸切パーティが入る事があって、その片付けも手伝ってくれへんかな? とママはいった。私が頷くと、
「若い人が来てくれはったら助かるわ」
ママはニコニコしてそういった。
私の時間は余っていた。
実家に戻ってひと月くらい経った頃だった。働きもせず就職活動もせず、私は一日中ぼーっと過ごした。
何もしない私に、老いた両親は小言さえいわなかった。
居てくれるだけでいい、という優しさとも哀れみともつかない両親の思いやりが息苦しくなった私は、散歩の途中、逃げ場を求めて「ママのお手伝い募集」という張り紙のあるドアを開けたのである。
木曜日の週一回の勤務と決まった私は、白シャツとジーンズを『ふじかわ』のユニホームにした。
木曜日の午後になると、ママが開店準備の指示をメールしてきた。内容はだいたい次のような感じである。
(ビールとソーダが届いていると思うので、店の中に入れといて下さい。よろしく。ママ)
(キッチンペーパーとキュウリ二本買っといて下さい。よろしく。ママ)
(冷蔵庫にシュークリームがあるから食べてね。ママ)
ガラケーからかえたばかりの新しいスマホにメッセージを受信すると新しい友だちができたみたいで私はうれしくなった。
ママは毎週木曜、町民講座のヨガ教室へ通っている。
講座が終わると、ママはヨガ友だちをお店に連れて来た。ヨガ友だちで店に一つだけあるボックス席を陣取り“女子会”をはじめるのである。
かよちゃんとすみちゃんという六十代女性二人組が固定メンバーだった。
「しーちゃん、これ、二本は手ぇつけてへんからよばれて。明日やと固くなってるし」
かよちゃんは私にみたらし団子をくれた。一度開封した透明のプラスチックケースを輪ゴムでとめてあった。中は三本入りだったのが一本なくなっている。
「そんな食べさしあげたら、しーちゃん困るやろ」
なあ、と、すみちゃんが微笑んだ。
かよちゃんはよく私にものをくれた。
食べさしのみたらし団子のほか、バージンシールをはがした化粧水、一回しか履いていないレギンス、残額三十円のスルッとKANSAIなど、一度自分が手を付けたものばかりをプレゼントしてくれる。
親しい人におすそわけする親切を装い、若い女に自分のお古を押しつけるうっぷん晴らしだ。
当時の私も三十五歳。さすがに女同士の心理的な摩擦はいくらか経験済みで、この手の嫌がらせも初めてではなかった。
「ありがとうございます」
私はみたらし団子を受け取り、努めて微笑んだ。「おいしそうですね」
四十代、五十代の女性が自分より若い女につい嫌がらせをするのは珍しい事ではないが、まさか自分の母親と同世代の女性にされるとは思ってもみなくて、私は最初、かよちゃんの嫌がらせには戸惑ったものである。
六十代くらいの、高齢者の域に達すれば人間がまるくなり、大人げない嫌がらせなどからは卒業するものだと思い込んでいたのだ。
「せやねん。ほんで小腹が空いてたからお稽古前に一本食べてしもてん。ごめんやで」
と、かよちゃんはニタッと笑う。「食べてな。しーちゃん細いから、甘いもんも食べたほうがええわ。じきに寒くなるしな、ちょっと太ったほうがええで」
だがよくよく考えれば私がお年寄りを美化していただけだった。高齢者に対する偏見、ともいえそうだが、老後は人生を達観しているとか、年寄りは人ができているとか、ドラマやコマーシャルに出てくるおおらかで寛容な老人ばかりを老人と思ってしまい、すべての高齢者を人格者のように錯覚していたのである。
「せやな、しーちゃん細いわ」
と、すみちゃんはいった。「ぜい肉もちょっとくらいつけとかな冬寒いで。ほら、あのぬくいやつ、ヒートテックってあるやん、ユニクロの。ウチらは
そうそうそう、体のあちこちミートテック、と、かよちゃんはすみちゃんの二の腕をプニプニと揉み、すみちゃんはかよちゃんの脇腹の肉をガバッと掴んだ。
二人はボックス席に座っても、「体脂肪率で年金の額決まったらええのに」とか、「お腹まわりで介護保険料払えそう」とかいいながらじゃれ合っている。
黒のフェイクレザーのソファーをL字型にしたボックス席は、カウンターから見ると丸テーブルをカギカッコで閉じたみたいになっていた。
丸テーブルは二段式で、上の段がクルクルと回転する。
女子会の時、お菓子の大皿やアイスペールを置いた上の段がクルクル回った。
『ふじかわ』の客席はこのボックス席と、カウンターの足の長い五脚の椅子だけである。
ドアの横に“会議室”とプレートで記したトイレがあって、トイレとボックス席の間に半畳くらいのカラオケのステージがあった。
私が立つカウンターの中は製氷機や浄水器、ペンギンマークのついた冷蔵庫などの年季の入った什器が揃っている。
「ほなウチ、セ
ママが肩を揺らして自慢の巨乳をブルブル震わせる。
かよちゃんとすみちゃんは手を叩いて笑った。
(つづく)
「名前、静香さんのまんまでええね。べっぴんさんやし、服もそういうのでええわ」
その場で採用が決まり、私はスナック『ふじかわ』で働く事になった。ママが一人でやっている駅前の小さなお店である。
ママは背が低くて手足が短く、パーマをあてた飴色の髪をわたあめみたいに膨らませていた。胸とお尻に詰め物をしたような膨らみを持ち、足の長いカウンターの椅子にぴょんと飛び乗り、ぴょんと飛び降りて、丸っこい体を機敏に動かす。
週一の勤務でも構わないが、夜以外も月に一度、昼間に貸切パーティが入る事があって、その片付けも手伝ってくれへんかな? とママはいった。私が頷くと、
「若い人が来てくれはったら助かるわ」
ママはニコニコしてそういった。
私の時間は余っていた。
実家に戻ってひと月くらい経った頃だった。働きもせず就職活動もせず、私は一日中ぼーっと過ごした。
何もしない私に、老いた両親は小言さえいわなかった。
居てくれるだけでいい、という優しさとも哀れみともつかない両親の思いやりが息苦しくなった私は、散歩の途中、逃げ場を求めて「ママのお手伝い募集」という張り紙のあるドアを開けたのである。
木曜日の週一回の勤務と決まった私は、白シャツとジーンズを『ふじかわ』のユニホームにした。
木曜日の午後になると、ママが開店準備の指示をメールしてきた。内容はだいたい次のような感じである。
(ビールとソーダが届いていると思うので、店の中に入れといて下さい。よろしく。ママ)
(キッチンペーパーとキュウリ二本買っといて下さい。よろしく。ママ)
(冷蔵庫にシュークリームがあるから食べてね。ママ)
ガラケーからかえたばかりの新しいスマホにメッセージを受信すると新しい友だちができたみたいで私はうれしくなった。
ママは毎週木曜、町民講座のヨガ教室へ通っている。
講座が終わると、ママはヨガ友だちをお店に連れて来た。ヨガ友だちで店に一つだけあるボックス席を陣取り“女子会”をはじめるのである。
かよちゃんとすみちゃんという六十代女性二人組が固定メンバーだった。
「しーちゃん、これ、二本は手ぇつけてへんからよばれて。明日やと固くなってるし」
かよちゃんは私にみたらし団子をくれた。一度開封した透明のプラスチックケースを輪ゴムでとめてあった。中は三本入りだったのが一本なくなっている。
「そんな食べさしあげたら、しーちゃん困るやろ」
なあ、と、すみちゃんが微笑んだ。
かよちゃんはよく私にものをくれた。
食べさしのみたらし団子のほか、バージンシールをはがした化粧水、一回しか履いていないレギンス、残額三十円のスルッとKANSAIなど、一度自分が手を付けたものばかりをプレゼントしてくれる。
親しい人におすそわけする親切を装い、若い女に自分のお古を押しつけるうっぷん晴らしだ。
当時の私も三十五歳。さすがに女同士の心理的な摩擦はいくらか経験済みで、この手の嫌がらせも初めてではなかった。
「ありがとうございます」
私はみたらし団子を受け取り、努めて微笑んだ。「おいしそうですね」
四十代、五十代の女性が自分より若い女につい嫌がらせをするのは珍しい事ではないが、まさか自分の母親と同世代の女性にされるとは思ってもみなくて、私は最初、かよちゃんの嫌がらせには戸惑ったものである。
六十代くらいの、高齢者の域に達すれば人間がまるくなり、大人げない嫌がらせなどからは卒業するものだと思い込んでいたのだ。
「せやねん。ほんで小腹が空いてたからお稽古前に一本食べてしもてん。ごめんやで」
と、かよちゃんはニタッと笑う。「食べてな。しーちゃん細いから、甘いもんも食べたほうがええわ。じきに寒くなるしな、ちょっと太ったほうがええで」
だがよくよく考えれば私がお年寄りを美化していただけだった。高齢者に対する偏見、ともいえそうだが、老後は人生を達観しているとか、年寄りは人ができているとか、ドラマやコマーシャルに出てくるおおらかで寛容な老人ばかりを老人と思ってしまい、すべての高齢者を人格者のように錯覚していたのである。
「せやな、しーちゃん細いわ」
と、すみちゃんはいった。「ぜい肉もちょっとくらいつけとかな冬寒いで。ほら、あのぬくいやつ、ヒートテックってあるやん、ユニクロの。ウチらは
ミート
テック」そうそうそう、体のあちこちミートテック、と、かよちゃんはすみちゃんの二の腕をプニプニと揉み、すみちゃんはかよちゃんの脇腹の肉をガバッと掴んだ。
二人はボックス席に座っても、「体脂肪率で年金の額決まったらええのに」とか、「お腹まわりで介護保険料払えそう」とかいいながらじゃれ合っている。
黒のフェイクレザーのソファーをL字型にしたボックス席は、カウンターから見ると丸テーブルをカギカッコで閉じたみたいになっていた。
丸テーブルは二段式で、上の段がクルクルと回転する。
女子会の時、お菓子の大皿やアイスペールを置いた上の段がクルクル回った。
『ふじかわ』の客席はこのボックス席と、カウンターの足の長い五脚の椅子だけである。
ドアの横に“会議室”とプレートで記したトイレがあって、トイレとボックス席の間に半畳くらいのカラオケのステージがあった。
私が立つカウンターの中は製氷機や浄水器、ペンギンマークのついた冷蔵庫などの年季の入った什器が揃っている。
「ほなウチ、セ
デ
ブ~」ママが肩を揺らして自慢の巨乳をブルブル震わせる。
かよちゃんとすみちゃんは手を叩いて笑った。
(つづく)