第2話
文字数 2,448文字
ママは『ふじかわ』の二代目だった。
初代から継いだ時、すでに十年経っていたというから、『ふじかわ』はS町には珍しい老舗だったのかもしれない。S町は大阪と京都の府境にある住宅地で、大阪市内にも京都市内にも遠くなかった。都会に近いわりには自然も多く、春にはピンク色のレンゲ畑になる田んぼがあり、夏の夜には蛍の舞う水路も残っている。
ママの女子会は、にぎやかだった。
ママがお客さんを笑わせるからだが、かよちゃんとすみちゃんはママがサービスするたび手を叩いて喜び、大きな声で笑う。
これも箸が転んでも笑う年頃……。愛想笑いで女子会の盛り上がりに合わせるカウンターの中の私は、二人の老婦人が子ども返りしたみたいに思った。
かよちゃんとすみちゃんは同じ時期に親の介護から卒業した同級生、とママがいった。
介護から卒業、と聞いて、私は子どもが小学校に上がり子育てが一段落した感じをイメージしたが、父親か母親か、舅か姑か、家族とのお別れがあったわけで、家事の一部から解放されたのとはずいぶん違う。
するとよく笑う二人が私にはどこか狂気じみた感じに見えなくもなかった。家族をなくした悲しみか、なくした家族に対する負い目か、直視するには残酷な現実で生きるために二人は笑うみたいだった。
「ほな、駅前にローソンができたのは、ウチが店やるちょっと前や」
ママがそういって、ボックス席では駅前に数年前、葬儀会館ができたけれど、そこには昔は何があったか、と話していた。確か自転車置き場じゃなかったか、と、すみちゃんがいうと、自転車置き場はローソンができた頃にはすでになく、確か店か何かあったはずで、葬儀会館はその後にできたと思う、と、かよちゃんはいう。「その頃はまだ、国道沿いにニチイあったもん」
するとすみちゃんが、
「いやニチイちゃう、ジャスコやで」
といい、そのジャスコに中には学習塾ができて、それがきっかけでS町には学習塾が増えたといった。
「子どもの数は減ってんのにな」
勉強ばっかりさせてどないすんねんやろ、というすみちゃんの意見にはかよちゃんも同感したみたいで、今の子育てはようわからんなぁ、と、頷きながらいった。
「年寄りは増えるばっかりやけどな」
ママがそういって、ハハハハハ、と、二人は笑う。
「美容院も増えてるわ」
と、かよちゃんがいう。そうそう、と、すみちゃんが言葉を継ぐように、S町は人口に比して美容院の数が多過ぎるといった。
「頭一つしかあらへんのに」
わたあめみたいな頭を揺らしてママがいう。
すみちゃんとかよちゃんは手を叩いて笑った。
駅前の葬儀会館の場所に昔は何があったのかはわからなくなった。迷宮入りである。
私はS町で生まれ育ったが、駅前の『ふじかわ』がそんなに古くからあったのかとママの話に最初は半信半疑だった。だがかよちゃんとすみちゃんからS町の移り変わりを聞かされるうちに、今は『ふじかわ』とひらがなで書いた店の看板が『富士川』という漢字だったのを、子どもの頃に見た記憶がよみがえってきたのである。
それに昔の『富士川』はスナックではなく中華料理屋だったはずだ。
自分の記憶は心許ないが、ボックス席の回転する丸テーブルは中華料理用のテーブルのようだし、カウンターの中にも中華料理用の大きなガスコンロがすみっこで埃をかぶっている。『ふじかわ』が中華料理屋だった跡が確かに残っているのだ。
すいません、と、部屋着っぽいピンクのスウェットを着た若い女性が片手に分厚い長財布を持ちドアから顔を出した。
ママがボックスから彼女に会釈して、「しーちゃんお願い」といった。
私はピンクのスウェットの彼女から一万円を受け取り、手提げ金庫から領収書を出して彼女に渡した。
『ふじかわ』のママは店の裏に駐車場を持っていた。駐車場の隣にはアパートがあり、ピンクのスウェットの彼女はそのアパートの住人である。彼女は駐車場を月極で借りたが、駐車場の半分は年間契約になっていた。
「ありがとうございました」
私が彼女を見送ると、入れ違いに田所さんが入って来た。
グレーのスーツを着た恰幅のいいサラリーマンが現れて、ボックス席のかよちゃんとすみちゃんは歓喜の声を上げた。
「ぽっちゃり王子!」
「年下男子!」
田所さんはヒーローインタビューの野球選手みたいに手を振って応えた。ボックス席の女子たちは歓声を上げた。
「ビールもらうわ」
田所さんはカウンターの一番奥の席にカバンを置き、ジャケットを脱いだ。見事な太鼓腹をしたおじさんで、肌ツヤのいい顔にクリッとした丸い目があった。上目使いの微笑みを作ると通い帳を下げた信楽焼きのたぬきみたいだった。ママの話では山のほうにある住宅メーカーの工場の管理職らしい。
田所さんにおしぼりを渡した私は冷蔵庫から瓶ビールを出した。
店内にトランペットが高らかに鳴った。カラオケのイントロが流れた。
ママは田所さんのジャケットをハンガーにかけるとステージに立ち、マイクを持った。
ママの歌に合わせてかよちゃんがタンバリンを叩き、すみちゃんがカスタネットを鳴らす。カラオケが間奏に入ると、ちょうど八木さんが来た。
紺色のジャンパーを着た八木さんは、国道沿いにある自然食品専門店のマネージャーさんだ。ステージのママとボックス席のかよちゃんとすみちゃんにそれぞれ一礼し、田所さんにも会釈すると、田所さんから一つ空けて席に着いた。
なで肩の華奢そうな体の八木さんは、頬骨の目立つ細面で、細くて吊り上った狐目だった。八木さんと田所さんがカウンターに揃うときつねとたぬきだと私は思った。
八木さんは私から受け取ったおしぼりで手を拭きながら田所さんの前のビールを見て、「同じの」といった。
「八木さんどうぞ」
私が瓶ビールを差し出すと、グラスを持った八木さんは「メー」といった。
「調子ええな」
と、田所さん。
「静御前のお顔を拝見できましたから」
と、八木さん。
カウンターの二人はグラスを合わせた。
(つづく)
初代から継いだ時、すでに十年経っていたというから、『ふじかわ』はS町には珍しい老舗だったのかもしれない。S町は大阪と京都の府境にある住宅地で、大阪市内にも京都市内にも遠くなかった。都会に近いわりには自然も多く、春にはピンク色のレンゲ畑になる田んぼがあり、夏の夜には蛍の舞う水路も残っている。
ママの女子会は、にぎやかだった。
ママがお客さんを笑わせるからだが、かよちゃんとすみちゃんはママがサービスするたび手を叩いて喜び、大きな声で笑う。
これも箸が転んでも笑う年頃……。愛想笑いで女子会の盛り上がりに合わせるカウンターの中の私は、二人の老婦人が子ども返りしたみたいに思った。
かよちゃんとすみちゃんは同じ時期に親の介護から卒業した同級生、とママがいった。
介護から卒業、と聞いて、私は子どもが小学校に上がり子育てが一段落した感じをイメージしたが、父親か母親か、舅か姑か、家族とのお別れがあったわけで、家事の一部から解放されたのとはずいぶん違う。
するとよく笑う二人が私にはどこか狂気じみた感じに見えなくもなかった。家族をなくした悲しみか、なくした家族に対する負い目か、直視するには残酷な現実で生きるために二人は笑うみたいだった。
「ほな、駅前にローソンができたのは、ウチが店やるちょっと前や」
ママがそういって、ボックス席では駅前に数年前、葬儀会館ができたけれど、そこには昔は何があったか、と話していた。確か自転車置き場じゃなかったか、と、すみちゃんがいうと、自転車置き場はローソンができた頃にはすでになく、確か店か何かあったはずで、葬儀会館はその後にできたと思う、と、かよちゃんはいう。「その頃はまだ、国道沿いにニチイあったもん」
するとすみちゃんが、
「いやニチイちゃう、ジャスコやで」
といい、そのジャスコに中には学習塾ができて、それがきっかけでS町には学習塾が増えたといった。
「子どもの数は減ってんのにな」
勉強ばっかりさせてどないすんねんやろ、というすみちゃんの意見にはかよちゃんも同感したみたいで、今の子育てはようわからんなぁ、と、頷きながらいった。
「年寄りは増えるばっかりやけどな」
ママがそういって、ハハハハハ、と、二人は笑う。
「美容院も増えてるわ」
と、かよちゃんがいう。そうそう、と、すみちゃんが言葉を継ぐように、S町は人口に比して美容院の数が多過ぎるといった。
「頭一つしかあらへんのに」
わたあめみたいな頭を揺らしてママがいう。
すみちゃんとかよちゃんは手を叩いて笑った。
駅前の葬儀会館の場所に昔は何があったのかはわからなくなった。迷宮入りである。
私はS町で生まれ育ったが、駅前の『ふじかわ』がそんなに古くからあったのかとママの話に最初は半信半疑だった。だがかよちゃんとすみちゃんからS町の移り変わりを聞かされるうちに、今は『ふじかわ』とひらがなで書いた店の看板が『富士川』という漢字だったのを、子どもの頃に見た記憶がよみがえってきたのである。
それに昔の『富士川』はスナックではなく中華料理屋だったはずだ。
自分の記憶は心許ないが、ボックス席の回転する丸テーブルは中華料理用のテーブルのようだし、カウンターの中にも中華料理用の大きなガスコンロがすみっこで埃をかぶっている。『ふじかわ』が中華料理屋だった跡が確かに残っているのだ。
すいません、と、部屋着っぽいピンクのスウェットを着た若い女性が片手に分厚い長財布を持ちドアから顔を出した。
ママがボックスから彼女に会釈して、「しーちゃんお願い」といった。
私はピンクのスウェットの彼女から一万円を受け取り、手提げ金庫から領収書を出して彼女に渡した。
『ふじかわ』のママは店の裏に駐車場を持っていた。駐車場の隣にはアパートがあり、ピンクのスウェットの彼女はそのアパートの住人である。彼女は駐車場を月極で借りたが、駐車場の半分は年間契約になっていた。
「ありがとうございました」
私が彼女を見送ると、入れ違いに田所さんが入って来た。
グレーのスーツを着た恰幅のいいサラリーマンが現れて、ボックス席のかよちゃんとすみちゃんは歓喜の声を上げた。
「ぽっちゃり王子!」
「年下男子!」
田所さんはヒーローインタビューの野球選手みたいに手を振って応えた。ボックス席の女子たちは歓声を上げた。
「ビールもらうわ」
田所さんはカウンターの一番奥の席にカバンを置き、ジャケットを脱いだ。見事な太鼓腹をしたおじさんで、肌ツヤのいい顔にクリッとした丸い目があった。上目使いの微笑みを作ると通い帳を下げた信楽焼きのたぬきみたいだった。ママの話では山のほうにある住宅メーカーの工場の管理職らしい。
田所さんにおしぼりを渡した私は冷蔵庫から瓶ビールを出した。
店内にトランペットが高らかに鳴った。カラオケのイントロが流れた。
ママは田所さんのジャケットをハンガーにかけるとステージに立ち、マイクを持った。
ママの歌に合わせてかよちゃんがタンバリンを叩き、すみちゃんがカスタネットを鳴らす。カラオケが間奏に入ると、ちょうど八木さんが来た。
紺色のジャンパーを着た八木さんは、国道沿いにある自然食品専門店のマネージャーさんだ。ステージのママとボックス席のかよちゃんとすみちゃんにそれぞれ一礼し、田所さんにも会釈すると、田所さんから一つ空けて席に着いた。
なで肩の華奢そうな体の八木さんは、頬骨の目立つ細面で、細くて吊り上った狐目だった。八木さんと田所さんがカウンターに揃うときつねとたぬきだと私は思った。
八木さんは私から受け取ったおしぼりで手を拭きながら田所さんの前のビールを見て、「同じの」といった。
「八木さんどうぞ」
私が瓶ビールを差し出すと、グラスを持った八木さんは「メー」といった。
「調子ええな」
と、田所さん。
「静御前のお顔を拝見できましたから」
と、八木さん。
カウンターの二人はグラスを合わせた。
(つづく)