第16話 おくすりいやじゃないよ

文字数 7,466文字



ボクこのおくすりいやじゃないよ…まえのおくすり(リタリン)はききめがみじかくて、がっこうで、とちゅうでのまなくちゃならなかったんだ…それでいじめっこがボクをからかったり、ひどいときはおくすりをかくして、そのためにちょうしがわるくなったんだ。でもこのあたらしいおくすりは、あさのんで、おうちにかえってゆうがたになるまできくので、ママもボクががっこうでのことをはなしたり、しゅくだいをちゃんとやったりするので、とてもよろこんでくれたよ。ママのやさしいかおをみるのはひさしぶりだなあ! ママはとてもきれいで、おはなみたいにかわいい。ボクがいいこでおこるひつようがないと、ニコニコわらってボクをりょうてでギュッてだきしめてくれるんだよ。
たとえきょうしつにボクをいじめようとするこがいても、ママがボクをギュッてだきしめてくれると、とてもあんしんするんだ。ママは、ボクがどんなこでもすきよ、っていってくれるけど、ママがわらってくれるなら、ボクをしかったりしないなら、いつもおちついていいこにしてようとおもう。それがボクにはとってもうれしいことなんだ。

長尾聡(ながおさとる)はこの小学一年生の男児が語るのを聞いて、思わず涙をこぼしていまった。治験機関の病院に出向いて、部屋の隅で治験の様子を観察していたとき、近くでこの子が語るのを耳にしたのだった。でも効果が夕方までなら、既存薬と変わらないじゃないか。そうではなく、クラブ活動をしたり、時には必要があって残業しなければならない大人ではどうだろう? かなり化合物の組成を変えたし、DDS(ドラッグデリバリーシステム)も品質管理の人に相談してさらに工夫したのだが。
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次は、18歳の男子学生だった。あ、同じ年じゃないか。自分と同じ年の人がADHDになっているんだな。

薬を飲むようになってから、何か面白くない。

と、男子学生は開口一番言った。
僕は授業中に落ち着かなくて、ソワソワすることがあり、それで病院に行くことを勧められ、病院でいろんなテストをやって先生にADHDだと診断された。
薬を飲むようになって、確かにソワソワすることはなくなり、周りの人や先生に迷惑をかけなくなったのは嬉しい。
でも、薬を飲んでから、確かに席を立って怒られることは減ったけど、先生の話に興味が湧くわけではない。

なんというか…面白くないんだな。落ち着いた反面、前は何を見ても新鮮で、パーッと心に光が差し込んでくるみたいだったのが、こう、なにかあたりまえに思えてきたんだな。

あと、目に見える変化は、食欲がなくて、体重も減ったこと。僕は薬を飲む前は普通の体型だったから、今はちょっと痩せた。

それでも薬の影響のない朝と、夕食はしっかり食べるから、大きな問題はない。
僕の趣味は絵を描くことで、薬を飲む前から長く描いてるんだけど、それはとても楽しい。

父に話して美術の専門学校に転校したいんだけど…と言ったら、それがお前のしたい事なのか? と聞かれてうんと言った。今は母にも相談して、美術学校への転校の準備をしている。同意してくれた両親には感謝しなくちゃね。お金のかかることだからさ。もちろん病院とか薬とかも。

次は、大人の人で会社勤めで主にデスクワークをしている若いサラリーマンだった。

薬の効果はあると思います。周囲の人の動きに気づけるようになったけど、相手が何を考えているかを考えてしまって、思っていることを言い出しにくくなった。

上司に自分がADHDと診断されたことを話して、じゃあどんなサポートが必要かしら、私は早坂さんの几帳面なところを評価しているのよ、と言われた。それで指示は通りすがりとかに言うのじゃなくて、長くなくていいからメールでいただけませんか? とお願いした。その方が落ち着いて仕事の内容や納期を把握して、きちんと仕事ができますから。すると、早坂さんには仕事の依頼をメールですること、と障害のことは伏せて課員に伝えてくれたから、ぐっと楽になりました。また、いくつもの仕事をいっぺんに頼まれることも減りました。この女性上司の対応には感謝しています。

それでも段取りが悪くてちょっと残業になったりもするけど、この新しい薬、基本的に前の薬と効果は同じなんだけど、夜8時くらいまでの残業なら、効いてる感じがするんだよね。幸いうちの会社はブラック企業じゃないから、仕事量は適正に、むやみに残業しても残業代がかさむと経営者も思っているらしい。だから、ワークライフバランスは悪くないですよ。

おお、組成を変えた効果が出てる人もいる、と(さとる)は喜んだ。

今日の面談の最後は、80歳のおばあさんだった。80と言ってもシックなレンガ色のワンピースを着こなして、とても上品な方だった。

私のADHD歴は長いです。仲良しだった夫が20年前にがんで他界してから、何をしても面白くなかった。ああ、夫がいれば一緒に旅行に行けるのに、このレストランに行きたいけど、彼がいないからしょうがないわね…とうつみたいな状態でした。

それでうつのお薬をもらっていたんだけど、年の割に落ち着きがない、とカルチャーセンターの先生に言われてショックだったわね。大好きな書道だったんだけど、それで止めてしまったわ。

そのとき精神科の先生からもらったADHDの薬も飲み続けているのだけど、今度の新しいお薬は、今までの薬より穏やかで、効く時間が長いと聞いたから、この治験に参加することにしたのよね。

私は年に似合わず『レッドオクトーバーを追え!』とかのアクションやスリラーが好きで、読む物もジョン・ル・カレとかのスパイ小説が大好き。幸い目は悪くないので、いつもは夜10時半くらいに寝るんだけど、時には夢中になって夜中の12時前になることもあるの。そんなときは、映画や小説が面白いからかも知れないけど、朝1錠だけ飲んだお薬か効いているのかしら、って思うことはあるわ。前の薬より処方される量は少ないのに、特に副作用も感じず、毎日調子がいいの。

ああ、このご婦人のQOL(生活の質)向上の助けになって嬉しいと、(さとる)は心から思った。

満点ではないが、おおむね「薬を飲んでQOLが上がった」という感想が多かったので、長尾聡(ながおさとる)はホッとした。フェーズIIまでに改善できることはないかもう一度会社に帰って考えてみよう、と聡は思って、治験を総括してくれている担当医師に挨拶に行った。

「ああ、長尾さん」
担当者の峰山医師が、手を上げて聡に挨拶した。
「峰山先生、今日の聞き取り調査、参加させていただきありがとうございました。また来週伺いますので、引き続きよろしくお願いいたします」
と頭を深く下げ、病院を去ろうとした。
「患者さんたちがね、まだ帰っていないんです。最年少の小1の男の子が、『ボクあのひとしってる、みたことがある』と言ってですね」
峰山氏について小さな会議室に入ると、先ほどの小学一年生の男の子、18歳の男子学生、若いサラリーマン、80歳のご婦人が揃って折りたたみ椅子に腰掛けていた。
30過ぎくらいの男性精神科医の峰山氏は聡を教壇みたいな高いところに案内して、患者たちに、この人が今回の治験のおくすりを作った人です。何か聞きたいことがあれば、遠慮なく質問してください、と言った。
患者さんたちを見下ろす位置に立たされた聡は、違うだろう、と思ってみんなが座っているところにもう1台折りたたみ椅子を引っ張って座り、峰山医師を含めて6人の円形状態にした。
すかさず小1の男の子が
「おはなししてくれたひとだよね、うくらいなみんわのてぶくろ、ボクだいすき」
と聡に言った。
「おはなし会にきてくれたんだ」
と聡はその子にニッコリとほほえんだ。

「うん、そうですね! この方が皆さんリラックスできますね」
と峰山医師が円陣を見渡してにこやかに言った。
「この会議室は4時まであと1時間くらい使えますので、開発者の長尾さんに何か質問があればお願いします」
峰山医師に促されて、長尾聡(ながおさとる)は座ったまま円陣を当分に見渡し「クレセント製薬の長尾と申します。弊社製品の治験にご参加いただき誠にありがとうございます」
と短く自己紹介して頭を下げた。とにかく日本の文化では、誰に対しても丁寧に心を込めてお辞儀をすることが肝心なんだよ、それがまず最初なんだと保護者の藤沢氏は幼いときから聡に教えた。

病院の中で、聡は目立たないように、峰山医師から看護師の淡いミントグリーンの上下の服を借り、ビジター用の名札を付け、白い病院用の室内履きをはいていた。

若い3人は良いのだが、聡の右隣にいた80過ぎのご婦人は腰が辛そうだった。
「峰山先生、病院にクッションありますか?」
と聡がすかさず聞いた。
峰山医師は会議室の物入れを開けて、一つ背もたれ用のクッションを聡に渡した。
聡はそれを受け取ると、ご婦人のところへゆっくりと近づき、とても自然に床にひざをついてクッションを手渡し、相手の目を見て
「良かったらお使いください」
とほほえみながら言った。
これも保護者の藤沢氏の薫陶なのだが、とにかく何かをするときは、穏やかに押しつけがましくなく、ニッコリ笑って相手の目を見るように教えられた。それを聡はやったのだった。聡は自分の顔が端正だという認識はないが、このような所作に出会うと、ほとんどの人がそのことに心を揺さぶられた。

「ありがとう、皆さんお若いからこんなものいらないわね」
とご婦人はちょっと恥ずかしそうにその大きめのクッションを椅子の背に立てかけた。

18歳の美術愛好家は、その立ち居振る舞いの美しさに心地よいショックを受けた。自分と同じ年くらいで、製薬会社で薬を開発してるってだけで凄いのに、もの静かで上品でなんて賢そうなんだ! と目を引かれた。

「この薬は御社に既にある薬剤を改良したものだと聞きました。いちから開発しなかったのはなぜですか?」
と若いサラリーマンが挙手して先陣を切った。
「それは何と言っても開発費用と時間の短縮です。弊社に既存薬があり、その効果と安全性が担保され、医療の現場で患者さまにご利用いただいております。その成果を活用すれば、より良い製品をより早く皆様にお届けできます」
と聡は答えて若いビジネスマンを見た。一呼吸置いて
「近年ではドラッグ・リポジショニングと申しまして、既に他疾患に対して承認を得て製造販売されている医薬品を、別の疾患の治療に応用する医薬品開発手法が盛んです。本治験の製品は他疾患への応用ではありませんが、既存薬から安全、効率的かつ安価に新薬を開発するという手法は同じです」
小1の男の子は(さとる)の左隣に座っていたが、聡のミントグリーンの上衣の端を引っ張って「?」という顔をした。
「えっと…あたらしいおもちゃをつくるのに、いままであるおもちゃをつかって、おもちゃをはやく・やすくつくる…それをおくすりでもにたようなことをしてつくってるんだ」
と聡が小さいおともだちに答えたら、彼は
「でんしゃからへんしんロボをつくるのに、おもちゃのでんしゃとへんしんロボをいっしょにして、あたらしいがったいロボをつくるみたいなこと?」
と言い、聡がうなずき、峰山先生がすぐにこどもにもわかるようにかみ砕いて説明してくださったので、聡はとても助かった。

スパイ小説が大好きな、レンガ色のシックなワンピースを着たご婦人は、大きなクッションに身を預けながら言った。
「私はこのお薬を飲んでいて、前飲んでいたうつの薬が要らなくなったように思います。主人が亡くなって、何をするのも独りではつまらないと思っていたけど、今は誰に何も言われることもなく、自分独りの生活をゆっくりと楽しんでいます。もちろん夫が生きていたらもっと良かったのだけど、面白いものや、素敵なものを見つけたら、まいにちお膳を備えている仏壇に穏やかな気持ちで報告することができるようになりました」
と述べた。
「穏やかで効き目の長いお薬を開発してくださりありがとうございます」
と言い、聡に会釈した。

聡は潮見と自分が年を重ねたとき、このご婦人のような穏やかで幸せな境地にたどり着けるのだろうか、と思いを巡らし、右側にいるこのご婦人に黙って深くお辞儀をした。

「えっと…」
聡から一番遠い対面にいる、年が同じくらいの若い男子学生は、少し戸惑いながら口を開けた。
「まだ発言していないのは、僕だけですね」
と前置きしてから、
「峰山先生との面談で、僕はこの薬を飲んで何か面白くなくなったと言いました」
「でも授業中落ち着きが出て、その内容…英語だったんだけど、英語にあんまり興味かないってことが分かったのは、薬のおかげだったのかも知れない」
「それでいったん入った英語の学校を止めて、美術の学校に転校したいと思ったのは、自分の人生をもっと真面目に考えるきっかけになりました」
「僕が美術学校へ行って、ゴッホやゴーギャンみたいな凄い画家になれるとは思わないけど、好きな絵を生かして先生になるとか、教室を開くとかそういう道もあるかも知れない。そんなことに思いが至ったのも、もしかして薬のおかげかも知れません」
と美術愛好家の若者は言った。
聡は進路を考えるきっかけになったのなら、とても嬉しいです、と答えた。

ひとりずつ発言して、4時頃まで薬にまつわる話を峰山先生のリードで行って、この先の治験について先生が少し情報提供をして、懇談会は暖かい雰囲気で終わった。長尾聡(ながおさとる)は患者たちが帰ってから、峰山先生、懇談会のサポートをいろいろとありがとうございました。小さな子に易しく説明してくださったり、いろんな追加情報をいただき、皆さんが薬について知識を深めることができました。僕も先生や皆さんのお話を伺って大変勉強になりました。フェーズIIまでに、もっと改善できる点はないか、今日の知見を元に今一度検討してみます。本日は患者さんとふれあう機会まで作っていただき、誠にありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
と言って、深々とお辞儀をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
と峰山先生はほほえみながら言ってくれた。

秋の日はつるべ落としの言葉に違わず、長尾聡(ながおさとる)がコミュニティバイクのバイクラックから自転車を利用しようとしてスマートフォンを出したとき、とっぷりと日が暮れていた。
「長尾さん!」
呼ばれて顔を上げてみると、さっきの美術方面に進路を変えた男子学生がそこにいた。聡は看護服を平服に着がえ、バッグに入れて、自転車に乗ろうとしていた。
「お疲れさまでした」
と聡は言って微笑んだ。
「あの、プライバシーってやつかも知れないけど、おたく俺と同い年なんだってね…峰山先生に聞いたんだけど」
と頭をかきながら言った。
「僕も同い年の人が、この薬を使ってくれてるんだと思って驚きました」
「いやー、同じ18歳でかたや製薬会社の研究員、かたやADHDのしがない学生…って、人間てこんなに差があるんだなあ(;-_-)=3」
と男子学生は言って溜め息をついた。

長尾聡は同じ年の友達がいなかった。米国のカリフォルニア州の大学で、そう言えば美術学部の知り合いが一人いたくらいだった。金曜日の6時過ぎ、治験が長引いて直帰、ということにすればいいやとスマートフォンのアプリに打ち込んで、ええとシス猫のご飯と水はたっぷり用意してあるし…同年代のふたりはいっしょに飯でも? ということになった。聡はここで自転車に乗るのは止めた。

聡はコミュニティバイクのラックがある萌原駅前のファミリーレストランを提案し、ふたりは大学生の友達…みたいに一緒に店に入って行った。

(さとる)は男子学生の聞き役に回り、ああ、自分がもっとまともな生活を送っていたら、この人みたいにいろんなことができたんだろうな…と考えていた。
長い治験で疲れたふたりは揃ってハンバーグを食べていた。こうやって同じ年の友達がいて、映画を見たり、自転車でどこかへ遊びに行ったり、もしかして好きな女の子ができたりしたのかも知れない。でも今は、潮見さんのことしか考えられないし、女の子と初体験する前に大人の男と深い仲になってしまった…。それはそれでなんというか、フクザツな気持ちだった。
(さとる)、何をボーッとしてるの?」
藤岡康之(ふじおかやすゆき)は心ここにあらずの聡をもう呼び捨てにしていた。若者では珍しいことじゃない。
「君がうらやましい…僕の18年間はめちゃくちゃだったから」
とつぶやいた。
「めちゃくちゃ? 何が?」
「理科室をぶっ飛ばしたり」
「へえ」
「男と関係を持ったり」
うっかり口が滑った。
「聡はLGBTなのか?」
「うーん、そうじゃないんだけど…まあもののはずみで」
ふたりの座っていた席は端っこのテーブル席だった。
やすゆきはハンバーグを平らげてしまうと、聡の両手を自分の両手で包み込むように握った。
「俺もLGBTじゃないんだけど、聡みたいにきれーな子は初めて見た」
長尾聡はなんの感情もなく、相手を見つめた。
「俺と同い年であんなに難しい言葉を使ったり、おばあさんに心遣いをしたり」
うん…と言って聡はまだ半分残っているハンバーグの前でうなだれた。聡、知ってる? うなだれていると、うつになっちゃうよ。本当だよ! 姿勢は脳に、つまり精神に影響するんだよ。

「ねえ、俺のウチに来ない? 狭いけど美術学校が遠いんで、オヤが援助してくれたんだ」
「僕の絵のモデルになってくれないかな?」

そう言われるのは、カリフォルニア州の大学から、二回目だった。
二人の若者は狭い部屋で疲れ果てて眠り、翌日の土曜日やすゆきは(さとる)にインスピレーションを得てイーゼルの前に立った。
やすゆきは聡に看護服を着るように頼んだ。
狭いベッドの上で、聡はやすゆきの指示するままにポーズを取った。
「たまらんわ…」
やすゆきはよだれを流さんばかりに、聡の身体を眺めまわした。
「聡、服を…脱いでくれる?」
やすゆきはおずおずと頼んだ。
聡は特に抵抗もせず、言うなりになった。

「うん…いいよ」
と言っているのはやすゆきである。
やすゆきはドキドキしながら描いた。分厚い制作用エプロンの後ろでは抑えきれず、身体が高ぶっていた。
「もうちょっと脚を開いてくれる…手を後ろで組んで」
それは美術的に言えば裸のマハみたいな感じで、医療系の言葉で言えば医師に身体を診せる体位だった。無抵抗である。

やすゆきは芸術家で聡に指一本触れなかった。

だが、治験で開発者の聡が患者たちの前に姿を現すことは二度となかった

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