第9話 リサーチ

文字数 2,884文字



(さとる)は、あらかじめ私に許可を取り、元妻の政子に電話で打診して、快諾されてから、
お盆休みの最後の日曜日、つまり2023年8月20日に政子の家を訪問した。
そして休暇が明けたら、さまざまな発達障害、特にADHDの子どもたちのいる施設や学校を訪問したいと申し出た。私は香子(こうし)のために調べたそのような施設のリストを聡に渡した。ありがとうございます、調べる手間が省けました…と聡は頭を下げて礼を言った。同時に既存薬とは異なる薬効の異なる候補物質(シーズ)をクレセント製薬のデータベースや公開されているデータベースをITやAIの力を借りて検索し、探したいと言った。すべては休み明けの月曜日に申請書となって私のメールに送られ、私はそれを承認し、ドイツ本社へも英文で報告した。そこには「認可を含め発売までの予定期間1年」と書いてあった。認可や法律周りのことは、本社法務部に太いパイプのある上司の潮見氏に協力を仰ぐ、とあった! 本気か? とメールで聞いたら、緊急性があるとなれば、ワクチンのスピード認可のように厚労省も動くでしょう、と自信に満ちた返信が届いた。僕はクレセント日本研究チームを最初から作り上げた潮見さんの人間力に期待しているんですよ、と。いや、そうじゃなくて、開発から発売まで1年とは…私は念のため本社には3年と報告した。

何かを成すのに、才能や博士号は前提となっても、決定打にはならない。使える人脈は使い、自分は得意なことに集中するという聡の戦略は、おそらく藤沢氏の薫陶のおかげだろう、慎重かつ最も効率的なものに思えた。

(さとる)は潮見の元妻政子のマンションを訪問してひどく驚いた。
「これと同じものを京都の風俗博物館で見ました」
と述べた。
政子はにっこりと微笑んだ。

政子のマンションは、いわゆる間取り自由設計の住宅で、ファミリー向け4LDK相当の大きな部屋が1つだけあり、バスルームやキッチンなど生活に必須の空間を除いては、仕切りがまったくない。そこへ、政子は自分の財力を注ぎ込んで、平安時代の貴族の邸宅である寝殿造(しんでんづくり)を現出させた。

京都駅からほど近い「風俗博物館」は、本物の4分の1スケールの人形たちが平安時代の装束をまとい、4分の1の寝殿造の家に集って、御簾(みす)几帳(きちょう)の中、当時のさまざまな儀式を再現している。寝殿造の奥ではあの光源氏が机に向かって書をしたためたり、姫君たちが碁を打ったり、やり水のそばには貴公子たちが紙と筆を持って待ち構え、流れてくる(さかづき)が通り過ぎるまでに詩歌を詠んで盃の酒を飲み次へ流し、別堂でその詩歌を披講する、中国に起源を持つ行事を行ったりしている。曲水(ごくすい)(えん)である。
そのやり水や、朱塗りの欄干、美しい松まで再現された政子の住まいは、快適な現代生活のテクノロジーを完全に隠した平安時代の寝殿造であった。

聡は政子が日本文学の教授で、とてつもない歴女だと聞いているので、対策はしていた。特にクイズが得意な芸人、金髪と真っ赤な服がトレードマークのカズレーザーの高校講座対決は全部見た。

政子は平安時代の貴族女性の略装である小袿姿(こうちきすがた)であった。かさねの色目は夏が過ぎようしているいま、季節を先取りした秋の花すすき、すなわち表は白で裏ははなだ色、つまり薄い藍色であった。聡はそんな衣装を持っているわけもなく、紫のTシャツと緑のパンツを着て訪問し、青紫の桔梗(ききょう)の花束を抱えて渡した。そこには聡が筆ペンで丁寧に短冊(たんざく)に書いた和歌が添えられていた。

【しのぶれど (いろ)()でにけり わが恋は ものや(おも)ふと (ひと)の問うまで】
平兼盛(たいらのかねもり)『拾遺集』より)

「潮見さんから、元の奥さまの政子さんについては、いろいろ伺っていました。どんな方なのだろうと、ワクワクしていたのですよ」
こういう台詞を聡は照れもせず、感情を込めて、スラスラと言った。意外と光源氏ばりのプレイボーイの素養があるのか?

「すてきな桔梗(ききょう)のかさねの色目で、美しい桔梗をありがとう」
政子は(さとる)(ひさし)から御簾(みす)を通って母屋(おもや)に案内し、もらった桔梗を御帳台(みちょうだい)の前の青磁(せいじ)の花瓶に生けた。
和風キャノピーとも言える御帳台の中には香子(こうし)が眠っていた。ただし御帳台は通常寝所ではなく、位の高いひとが座る場所である。

【面影は 身をも離れず 山桜
心の限り とめて 来しかど】
(あなたの山桜のように美しい面影は私の身から離れません
心のすべてをそちらに置いてきたのですが)
(『源氏物語』「若紫」より、渋谷栄一訳)

と聡が言うと、まあまあ私や香子のことをそんなに思ってくださりありがとう。政子は、

【嵐吹く 尾の上の 桜散らぬ間を
心とめける ほどのはかなさ】
(激しい山風が吹いて散ってしまう峰の桜に
その散る前にお気持ちを寄せられたような頼りなさに思われます)
(出典、訳同上)

と返した。こちらは後の紫の上になる少女の祖母の尼君の歌である。

(さとる)は、前もって電話で訪問の目的はADHD障害のあった経験を持つ香子(こうし)のことを今一度よく観察して、創薬の仕事に役立てることだとはっきり伝えていた。
聡は手帳のリストを片手に、香子の行動や自分や政子への反応を詳細にメモしていた。
【不注意】
の項目で、香子に目立つのは次の事項だった。学んでいるわけではないので、学業については除外した。
・遊びに注意が持続しない
政子が手作りした平安時代のお姫さまのお気に入りの人形があったが、お人形にお話ししながら楽しく遊んでいても、あるときふいと人形を投げ捨てて別のことを始める。
・物事を順序立てて行えない
たとえば昼食(幸い平安時代の食事ではなく、野菜とタラコがたっぷり入った美味しい和風パスタだった)後、空いた食器をキッチンの食洗機に運ぶのに、要領が悪くて一部を落として割ったりしていた。政子はときどきあることだと言う。
・話しかけても聞いていないことがある
聡は昼食のパスタを食べる香子に美味しい? と聞いてみたが、話しかけられたことを認識していないようだった。
・外からの刺激で容易に注意をそらされる
食事中に、窓にスズメが衝突した。それには聡たちも驚いたが、香子は食事を完全に中断して窓に駆け寄り、しばらくテーブルに戻らなかった。スズメは衝突した後、下の階に落下したようだった。
【多動性・衝動性】
・手足をそわそわ動かす
これはテーブルで昼食を食べているとき、ずっと見られた。
・走り回ったり、人の話に割り込むなどの行動は見られなかった。
学校を通信教育に切り替え、政子という保護者に守られて、香子の落ち着かないところは減ってきたのかも知れない。

(さとる)は、これから症状がある子どもたちを多数観察するから、今日の知見を参考に、アプリにしてタブレットで入力しようと思った。
*************************************

3時のおやつには、テーブルでなく床の上にお盆を置いて、みんなで楽しく政子が焼いたクッキーを食べた。クッキーにはチーズやナッツのほか、梅干しや海草など変わったものも入っていて美味しかった。

別れ際、聡は政子と握手し、香子(こうし)とはハグして、また会おうねと約束して別れた。政子はクッキーの残りを小さな缶に詰めておみやげにくれた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み