1.    ねじ花

文字数 3,779文字


四月。郊外のとある大学附属病院の診察室である。
医師が一人の患者とその妻と向き合っていた。
医師は五十ちょっと手前というところか、患者とその妻は団塊の世代と言われてきたが、今や古稀を迎えていた。
医師は目の前の机の上のパソコンの中に映し出された画像を注意深く見て、そして、言った。
「ここ。ここが問題だ。場所が悪い。狭窄している。」それは大動脈から心臓の方へ伸びる二本の血管のつけ根だった。医師は続けて言った。
「部位からいって、ステインを入れて拡張することは出来ません。開胸して、
ご自身の健全な血管を使って、バイパスを造る・・・。ご主人のような、この状態になりますと、西暦二千年以前は皆、お亡くなりになりました。しかし、医療の進歩で、今は助かる。考えておいてください。明日もう一度検査します。それを見て、一度退院し、一か月後再び、受診してください。その時、もっと悪くなっていれば、手術。」宣告するように、言った。
「このままでは、年内にお亡くなりになるということも充分考えられますよ。」
「先生、失敗例は何パーセントくらいですか?」
「さあ・・・?全くないわけではありません。」
「成功すれば、私の体はどのくらい回復しますか?」
「人によります。」
礼だけ述べて、二人は言葉もなく診察室を後にした。
自動販売機でお茶を買い、健司と妻の佳枝は談話室の椅子に腰をおろした。目の前のテーブルの上に光と影の縞模様。それがときに揺れた。窓のガラス戸の向こうに目をやると、赤い実をつけたジューンベリーが枝を広げ風に揺れていた。
妻の佳枝は夫に手術を強く勧めた。が、
夫の謙司は後ろ向きに迷っている。言葉も揺れる。佳枝だって、心臓をいじる手術が怖くないはずがない、と思っている。
「俺は子供の頃から何度となく、体の危機を乗り越えてきた。一か月後、治ってしまっているかもしれない。」
「そうなら一番いいよね。」
「お前と、もう少し一緒にいたい」

二人が知り合ってから半世紀経つ。二人の暮しの始まった四十年前、二人の心は荒み切っていた。大学・と言っても、紛争ばかりで閉鎖されていた期間もかなり長くあって、あまりいい思い出もないのであるが、とにかくそんな時分、知り合ってからの長い付き合いで、佳枝は健司が自分に求婚するのは当たり前のことのように思っていた。ところが、健司はいつまで待っても決断しない。しまいには業を煮やした、周囲がきめた。
佳枝は新たに始まる生活に、大海に藁の船で漕ぎ出すような心細さを覚えた。
結婚して妊娠、出産、仕事しながらの育児、ひと通りの夫婦の課題があった。現実の困難に向き合うたび、二人はその感性の違い、性格の違い、意見の違い、顕わになって、もめた。佳枝には健司が頼りなく思えたし、健司には佳枝が女らしさに欠けて、生意気で、金にうるさく、可愛げがないとおもえた。
つまらないことで、絶えず,いさかった。娘から「この2人、喧嘩だけが唯一のコミュニケーションの方法なんだよね」と、呆れられた。


三月二十九日。カレンダーのそこに〇がつけてある。
「あれからもう半月もたったのね。」佳枝はめくったカレンダーを元どおりにした。寒い日だったと記憶するが、ダイニングのガラス戸の前のかいどうだけはピンクの花房を幾重にも付けて、春の匂いをまき散らしていた。健司にはしばらく前から言葉にならない体のきつさがあった。医者にもずいぶん前から定期的に通っていた。しかしこの日は特別だった。息苦しいと、佳枝に訴えた。脚が異常に脹れていた。
佳枝は救急車を呼んだ。救急車の到着まで健司
は片手で胸をおさえ、荒い息を肩でした。救急車の後を佳枝が車を運転して追った。二十分もしないうちに、高台の大学附属病院の救急用の入口へ健司を乗せた救急車は吸い込まれていった。
寒々しい廊下のベンチで佳枝は長い間待った。やがて、白衣の人が近づいてきて、
「ご主人は今、心不全の応急処置をしてお休みになっています。心不全の原因については詳しい検査をしてみないとわかりません。今日からしばらくの間検査入院していただきます。」

かくして佳枝は一人で家に帰り、約四十年の二人の暮らしの中で、初めて一人の暮らしをすることになった。花屋を営む二人は朝起きてから夜寝るまで常に
二人だった。別々になるのは週に一度、健司が花を仕入れに行く時と、得意先に配達に行く時と、日曜日の早朝に三度の飯より好きな草野球に近くのグランドに出かけていく時ぐらいだった。
ひとり・・・。前の晩は病院から帰ってから思いの外、自分が疲れているのに気がついた。夕食も取らずに.布団の中に倒れ込んで寝た。
翌日の朝、ダイニングで自分のためだけの簡単な朝食を作り、食卓の前に腰を下ろした。昨日まで健司がいたから朝のダイニングは二人のつくり出す様々な音で満たされていた。今朝(けさ)は音はなかった。無音の音に耳を傾ける。聴こうとしているのは自分自身の心の声か?否、何処かで微かな音がする。天井のサークラインの上に季節外れの大きな蠅が一匹留まっているのに気が付いた。すぐに立って戸を開け、外へ飛んでいってくれることを期待したが、天井を何回か旋回して、また元のところに留まった。佳枝は次に柄の長いはたきを持ち出して少々蠅をいじめてみたが、外に行く手前で引き返しては、また元のサークラインに留まった。蠅はそのままにして、佳枝は店に出た。いつもどおり花に水をやったり、訪れた何人かの客の相手をしたりした。店はしばらくの間、午前だけの営業とすることにして、その旨を伝える紙を店頭にはった。午後は病院にいく。一仕事終えて家に戻ると、件の蠅がブーンと派手な音を立てて、出迎えてくれた。蠅のことなど構っていられない。前日、看護師さんから入院生活に必要なものを持ってくるよう指示されていた。
着替えを取り揃えに本に囲まれた、二人の寝部屋に入った。健司の枕の下に薄い本が挟んであるのをみつけた。触ると壊れてしまいそうな金髪のちっぽけな男の子の絵が表紙に書かれてある。健司の大切にしていた、サンテク・ジュペリの「星の王子さま」だ。洋服ダンスの奥からは茶色く変色し、傷んだ大学ノートが出てきた。パラパラとめくった。さめた青いインクで詩が書かれていた。健司の筆跡だ。若い時に書いたものだろう。何年一緒に暮らそうが、知らない世界がある事を佳枝はおもった。
面会の許されるのは午後の三時から。それまで佳枝は一心不乱に「星の王子様」を読んだ。

その日の病院の談話室。佳枝は健司に「星の王子様」を読んできたと、いった。
「私は一生健司さんの、<無邪気な、とげの少ない、可愛い花>にはなれなかったねえ。でも私も死ぬ前ぐらいは、なれるかなあ?」
「花なら、<ねじ花>だ。」
「それって<性根のねじれた花>っていう意味?」
「馬鹿だなあ。野生の珍しい、ラン科の花なんだ。可愛い花なんだ。俺の大好きな花なんだ・・。たった一つの可愛い花なんだ。お前そんな事も知らないの?」

家には一か月ほど戻れないらしい。病衣の下の検査で赤く膨れた腕の血管が剣吞だった。帰り、談話室のある三階から、エレベーターで一階に下りて、長い廊下を無言で二人は歩いた。エントランスホールは既に、人が引いた後だった。
「明日も来いよ。さっきお前から聞いた蠅な。俺と入れ違いに来たんなら大事にして、一緒に暮らせば…。じゃあな。」
帰路につく佳枝が玄関前のゆるやかなスロープの下で振り返ると、冬日のような弱い日差しの中健司が立っているのが見えた。


四月十二日  今年のかいどうは終わりかけていた。夕方、ドクターより電話。
「健司さんの現在の状態、良く、明日、一時退院。次回一か月後に受診してください。この時、状態悪ければ、手術。」

半月程前、救急車で運ばれて以来、健司は一度も家に帰っていない。一旦生活の
場所に戻って、本人も考えたり、しておくこともあるだろう。佳枝はこの措置に感謝した。
翌日は晴れていた。一刻も早く家に帰りたいに違いない健司の気持ちを考えて、早めに家を出ることにした。玄関の戸を開けると、思いがけないことに、蠅が出ていった。そして、空の中にきえた。
四月十四日  健司が病院から持ち帰った荷物を整理したあと、近くの里山に二人は車で出かけることにした。以前はよく歩いて来た。しかし、今日は車を下りて、谷間に群生する菜の花が風に吹かれて、さざ波をたてているのを峠道から飽くことなく、ながめた。頭の上に枝を広げた新緑の木々は命の匂いがした。夏が近い。僅かな時間だったが黄の花と白い粉をふきつけたようなみどりの木々を堪能した。
長女の直が「心臓外科手術の進歩は著しいから」と、言っていたが、そして、そうなのかもしれないが、私たち夫婦に与えられた「別れの時間」の一か月弱かとも思ったりもした。

帰りに健司が野球場によりたい、と言った。そこは公園の中にあった。
球場の外周は散歩道でその外側が緑地になっている。緑地の一隅に健司は佳枝をつれていった。健司の指さす先に、花穂がらせん状になった。十センチばかりの花があった。
「これが、ねじ花だ。」
うす紅色で、あれ野に咲く可憐な花を見るようだった。その可憐さは佳枝には似ても似つかぬものだった。
             
                     つづく

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