3.長い一日

文字数 2,017文字

7月18日 
 梅雨の華アジサイは枯れた。雨は降り続く。
この日佳枝は始発の電車に揺られていた。行き先は健司の入院しているN医大本院である。自宅近くの分院には手術設備が無いということで、自宅から2時間超かかる本院に十日前から入院して、検査漬けの日々を送っていた。
五日前に執刀医から手術説明があった。
「心臓の状態を悪くさせ過ぎましたね。それにより肺も腎臓も脳への血流も良くありません。バイパス手術の材料となる血管を脚の静脈からと考えていましたが、脚の血管の状態もよくありません。つまり全身ボロボロ」
聞いていて悲しくなったが、健司さんにはもっと応えただろう。昨夜は睡眠薬を処方されたが、一睡もしていないと言って、ひどく弱っていた。
特に、健司に衝撃を与えただろうことは、
「血液が石灰化しているところがあり、脳への血流がわるく、脳に萎縮が見られる」と、いう医師の言葉だろう。
健司の実家の両親は、二人とも医者で、祖父母も地方都市で大きな医院を経営する医師であった。そんな家に生まれて、健司自身も跡を継がせたいという親の期待を背負って中高一貫の名門校に入学させられた。しかし、勉強に身をいれることはなく、上昇志向の無い息子は、手に負えない息子と、親に見放された。親との関係は健司が大学近くの食堂で働く佳枝と付き合い始めた頃に、ほぼ終わった。佳枝は中学を終えると、すぐ働きに出た。健司と佳枝が花屋を開業した時、健司の父親は「健司は物売りになり下がった」といった。その言葉を聞いて、今度は健司の方が親を見限った。
健司は科学雑誌や俳句などの文芸誌をよく読んでいて、博学であった。それらを定期に届けさせた。趣味の多い人なのだが、特に頭を使うことが好きで「難関校の入試問題集」など買ってきては解いて遊んでいた。それだけに医師の言葉から受けた衝撃は計り知れないと佳枝には思えた。
その時、健司の行動に奇異なものを感じる場面もあったが、健司は自分の衰弱を取り繕った。
弱った健司に明日も来るから、と約束して、エレベーターの前まで送ってもらい別れた。
いよいよ手術の当日であった。約束された、朝7時。
20分ほど前に健司の待つ病室に着いた。
「これっきりになるかもしれないな。達者でな。」手術室に向かう途中の廊下で健司は
「享年70歳」と呟いた。
気の利いた励ましの言葉も言えずに佳枝は手術室に向かう健司を見送った。
長い一日が始まった。

家族控室での待機を解除されたのは、夜7時半だった。控室に迎えにきた看護師さんに伴われて、ICUへ入った。健司は人工呼吸器を口から入れて、たくさんの管につながれて、薄目を開けて、死んだように、眠っていた。
「肺疾患と腎機能が悪いので、人工呼吸器をはずすのはすこし遅れるでしょう。これからは脳梗塞を発症させないように、全力で治療にあたります」
佳枝は長時間の手術を担った三人のドクターの労をねぎらい、感謝の言葉を述べた。
混雑する私鉄、二本乗り継ぎ、家に帰ったのは、十時近かった。

玄関の下駄箱の上で、紫の美麗な花をつける老木が佳枝を待っていた。
一年草と聞いて、馴染みの園芸店から買い受けた遠い記憶があるのだが、それが何年前のことだったか、花の名前も忘れてしまっている。健司が毎年挿し木を繰り返して、この花木が傷ついている間、祈りにも似た発芽への期待を持って、植物としての次の一生を始める幸運と出逢えるよう、行き届いた世話をし続けて、思い出せないほど長く我が家の中にあった。
今、宗教心の無い佳枝だが、真剣に祈った。
傷ついた健司が、この花木のように、逞しく再生することを。
7月19日  
「病人が手術を経て、最初に覚醒した時、お母さんの姿が目に入るかどうかは
その後の暮らしに、大きな影響がある。大変でも絶対行け。」
長女の直の言葉に押されて、今日も、病院へ。
面会時間、10分。
「来たよ。」首をたてにふる。
「来た方がいい?」また首をたてにふる。
喉に突き刺さった、人工呼吸器の為に、意思疎通出来ない苦痛があるようだ。
「帰った方がいい?」少し首をたてに動かした。
7月20日
佳枝が病院に着いた時、執刀医の角田医師が大動脈バルーンパンピングの取り外しの作業に当たっていた。
健司は眠っていた。人工呼吸器他、たくさんの管を引き抜いたりしないように体を抑制されていた。眠っていることは、本人の希望でもあり、家族の望むところでもある。ドクターは「バルーンパンピングが抜けて、自分の心臓が動いていることは大きな事で、次の目標は人工呼吸器を外すことだ」と言う。
「手術後、腎機能悪化し、尿が止まっていたのが出るようになった」と、角田は尿のたまる袋をうれしそうに揺さぶった。人の体を凝視する医師の感性は特別なものだ。当たり前のことだが。佳枝はこの医師に深く感謝せずにはおれなかった。眠っている健司の頭の上の計測機器が以前とは違う規則正しい心臓の拍動を示すのを見ながら集中治療室を後にした。

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