4・ 譫妄

文字数 2,603文字

7月21日
 3時、病院着。
健司起きていた。人工呼吸器は外れていた。しかし、佳枝を見るや否や、手首を回して、「しっしっ、帰れ」と言うような仕草をして、佳枝を睨んだ。
「俺の頭の中から言葉がどんどん抜けていく」
慰めようと言葉をかけると
「お前はうるさいんだよ。にらむような目つきで、人を見やがって」
途中、穏やかな、表情と口調を取り戻し、看護師の若い女性に、
「水をください。これだけが今の楽しみ」
佳枝を見る余りにも険しく、鋭い視線に、若い看護師は驚き、「あら、まあ」の声をあげる。
「大丈夫です」そう言ってはみたが、佳枝はうろたえ、絶望した。険しい患者の視線がうごき、ふと、正常へと戻る。振り向くと、角田医師が立っている。患者の回復ぶりを説明する。
「全て、順調」
医師が、立ち去った後、健司は管につながれて、満身創痍の己が体を呪うように呟く。
「俺は、まだ生きて戻るかどうか、わからん」痰がたまったようなので、看護師さんに知らせる。吸引する。うまくいかない。健司は自分で痰を出した。血が混じる。その痰をくるんだ紙を、佳枝はゴミ箱に捨てた。
それからだ。患者の気分が、劇的に変わった。
「ああ、楽になった」健司の表情が緩む。看護師さんにそのことを報告する。彼女はビニールの小袋を用意して、健司のベットのサイドに貼り付けた。自分で痰を捨てられるようにと。
「ご機嫌が直ったようです」
「ウナギ、健司さんの分、私が食べておいたからね」
「てめい」怒ったふりして、笑った。看護師さんも微笑んだ。
一時間の面会は終わった。
帰る佳枝の手を健司は強く掴んで、力を込めて握った。そして、Ⅴサインをして見せ
「気をつけて、帰れ」と、言った。
集中治療室の出口で、先の看護師さんに
「来た時のあの不機嫌は何なのでしょうね」と言った。
「この環境は患者さんにはすごいストレスですから、譫妄・・一種の精神錯乱が嚙んでいると思われます。でも昼頃『女房は必ず来る』と、おしゃってましたから、患者さんは毎日奥さんを待っていると思いますよ」
「譫妄」については術前に、説明され了解していた。喉元から胃の上まで大きく切開するのを痛みを感じさせずに行うためには強い麻酔薬を使わなければならない。その副作用で程度の強弱あっても誰でもが起こすものだという。
7月22日
 術後、4日目の今日、手指の消毒、マスク着用、いつもの儀式を経て、集中治療室の健司の横たわる、ベット際に立つ。
痩せている。管の下の鼻梁が尖る。行方の定まらぬ、生をつかまえようとする本人の強い意志を湛えた目が鋭さを増している。
「こんな状態がこんなに続くなんて約束が違うぞ」
朝から食事が始まっている。味はまんざらでもないようだ。角田医師が見えた。
「徐々に、良くなっていきますから。この人ちょっと難しい人のようですが・・・」この言葉になんと健司は顔を崩して笑った。医師が立ち去った後、
「俺は日に日に弱っている」といった。
7月23日
 今日、佳枝は見舞いを休んだ。どれだけたくさんのことができるだろうと、自分に期待していたのだが、甘かった。
朝、野放図に街路の方へ伸びる庭木の剪定をして、それを袋に詰め、清掃局に持っていってもらう。その作業の後、疲れを感じて、寝る。
銀行へ行って、金を下ろす。帰りにスーパーで食材を買い、帰って、また寝る。
不在中、届いていた「お見舞い」の書留を郵便局へ取りに行って、寝る。
疲れているのか、年をとっているのか、おそらくその両方だろう。
7月24日
 深い眠りと、浅い眠りを繰り返し、枕の上のデジタル時計が10時を示すのを見て、とびおきた。常備菜を作り、食事をして、念願の入浴を果たした。
1時少し前バスに飛び乗り、今日は乗り継ぎがうまくいって、2時半少しで、
病院着。
ICUの扉の中は健司の地獄だった。
昨日、佳枝は見舞いを休んで、雑用を片付けたわけだが、健司はその夜頃から錯乱、妄想がひどくなり、点滴も薬も受けつけなくなっていた。
佳枝の姿を見るや否や、
「危ない、すぐに逃げ出せ。さもないと、俺のように捕まって、ひどい目にあうぞ。ここにいる人間は看護師や医者のふりをしているけど、全部偽物だ。まるめ込まれるんじゃないぞ。うんうんと頷いて、お前は既にもう丸めこまれているじゃないか。いま、この場所を映画のロケに使っている。俺を映すと、大量の金が奴らにはいる」
世話をしているスタッフに敵愾心を燃やして、薬を
飲もうとしない。
看護師さんは佳枝に
「家から持ってきた。と言って、奥さんから渡してみてください」
しかし、佳枝の手のひらにこぼされた数々のくすりを
「毒薬だ。捨てるように」と、叩き落とした。
痰を出やすくする吸入器も拒んだ。
健司の中で一昨日まで自制されていた、タガが外れ、今日は医療スタッフを怒鳴り、詰問し、理性のかけらも見えなかった。
ICUの出口で看護師さんが佳枝を引き止め、言った。
「お孫さんを連れてきて頂けませんか。お孫さんの方へ話を向けましたら、急に穏やかに平静になられました」
7月25日
 自宅最寄りの駅改札口で、娘の直と孫の千鳥と待ち合わせ、病院へ。
健司はICUから一般病棟へ移っていた。カーテンで仕切られた三部屋のそれぞれに三人の患者が寝ていた。看護師詰所の隣だった。その一つの中に、たくさんの点滴の管を付けて、健司は横たわっていた。病院、看護師さんへの敵愾心は変わらない。千鳥を見て、
「可哀そうに」と、優しい表情を見せる。
「ここは子供のいるところじゃない。早くつれて帰れ」
直は「ここの看護師の健司への対応に問題を感じる。敵愾心の全てを譫妄のせいにするのは間違っている」と、言った。佳枝の目にも看護師たちのゆとりのなさが目に余るとかんじられた。
昨日、看護師から、
「今日家から持参しなければならない日用品のことで朝、病院から連絡がいく」と言われていた。しかし、いくら待っても連絡は来なかった。そのことを尋ねた。
「忘れてた」事もなげにいった。朝から連絡を待ち続けた佳枝は内心、イラっとした。直は転院を勧めた。でないと症状が悪化すると。看護師は佳枝に朝から来てくれなければ困ると、怒ったように言い、「面会特別許可申込書」というのを持ってきて、書かせた。この時佳枝はここの看護師さん達は譫妄の解けない健司を持て余していると思った。この時点で、翌日に健司の心に平安をもたらす天使が現れようとは夢にも思わなかった。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み