第1話
文字数 2,030文字
時は江戸。
日本橋大通りのまん中で、桃割れ髪の娘が、立ちどまった。
「ねえ、三太。わたし、おかしくないかしら?」
「へ?」
背中のおたいこ帯に、すぐ後ろを歩いていた丁稚こぞうが、あぶなくぶつかりそうになった。
娘は、首をかしげ、顔の横でゆれる桜のかんざしに手でふれた。人目をひくかわいらしい顔立ちだが、目もとがやや気が強そうだ。
丁稚の三太は、ふろしき包みをささげもち、腰をかがめた。
「おにあいです。ねねお嬢さま」
すれちがう、おさむらいや、町人が、ちらちらとねねを見ていく。おともは丁稚一人で、おつきの下女もいないのに、あでやかな振袖は目立ちすぎる。それもそのはず、ねねは、江戸一番の豪商、松坂屋の一人娘だ。
歩き出したねねの瞳は、夢見るようにうるんでいる。
「このかんざし、このあいだのお芝居で桜三郎さまがつけていたのと同じなの。淡い桜色の絹で、色も形も同じものをつくってもらったのよ。桜三郎さま、気づいてくれるかしら」
桜三郎とは、歌舞伎の大井座一番の人気役者、大井桜三郎のことだ。松坂屋は店をあげて大井座をひいきにしているので、ねねも、毎回かかさず見に行っている。
「桜三郎さまの桜の精の美しさったら。もう。言葉じゃいえないわ」
三太は、落ち着きなくきょろきょろとあたりを見まわしている。
「ちょっと三太ったら、聞いてるの?」
三太は、中腰のまま、うわめづかいで、「へい」と答えた。
「もう知らない。桜三郎さまの良さは、あたしがよっくわかってるからいいわ。品があって、きりりとりりしくて、お美しくて。……まるで、この世にまいおりた桜の精! そうよ。きっと、桜三郎さまはこの世のお方じゃないんだわ」
うっとり語るねねの横で、三太は、ぼりぼりと頭をかいた。体つきは細くてやせているが、顔立ちはよく見れば整っている。
松坂屋に入ったばかりの新入り丁稚、この三太こそ実は、あこがれの……桜三郎本人だとは、ねねは、まったく気づいていない。歌舞伎役者はみな、舞台では、厚く白ぬり化粧しているので、ねねが素顔を知らないのはしかたないが、つぎあての小袖に色あせた前かけ、とどけもののふろしき包みをかかえもった三太は、どう見ても、丁稚にしか見えない。
三太の正体を知っているのは、松坂屋の主人……ねねの父親と、四角顔の大番頭だけだ。
そもそもの事のはじまりは、大井座の先月の公演が終わった日にさかのぼる。
大井桜三郎は、12歳にして、大井一座の一番人気役者だ。桜三郎が、桜の精を演じた芝居は、連日大入り満員で大盛況だった。
桜三郎は、次回の公演も、当然じぶんが主役をやるものと思っていた。
ところが、桜三郎の祖父で大井座の座長、大井大蔵が、待ったをかけた。
「お前、このごろちょっとばかし、天狗になってるんじゃねえか?」
大蔵は、60を過ぎた今も、若さむらいから、もののけまで、どんな役でも演じることができる。その演技力は、苦労して身につけたものだ。だからこそ、恵まれた天分を持ち、若くして人気役者になった孫のことをだれより心配していたのだ。
桜三郎は、胸まではだけた浴衣姿で、ふふんと鼻をならした。
「天狗の役をやるときのために稽古をしてるんだよ」
手伝いの下男が菓子を、さしだした。桜三郎は、ちらと見て鼻をしかめると、皿の上の菓子を、手ではらいおとした。「こしアンじゃないと食べないって言ってるだろ!」
大蔵は、さらにけわしい顔になった。
「ふんぞりかえりやがって、細やかな芝居ができると思うのか、だいたいお前は」
「うるせえなあ」
「桜三郎! 若さま役ばかりじゃないんだぞ。丁稚の役だったらどうする」
丁稚は、商家の一番下っぱの仕事だ。
「丁稚をやれっていうなら、今すぐやってみせらあ」
大蔵は、きせるをおき、腕を組んだ。
「ふん。お前の丁稚など、わざとらしいつくりものだ。一時ももたずに、すぐにばれるわ」
「一時どころか、何日一緒にいたってわからねえよ」
「ほほう、言ったな?」大蔵の目が光った。
桜三郎は、はっとしたがおそかった。大蔵の顔に意地の悪そうな笑みがひろがっていく。
「よし、わしが話をつけてやろう。松坂屋の主人とは旧知の仲だ。丁稚の一人くらい、喜んであずかってくれる」
「え、つ、次の芝居は……」
うろたえる桜三郎の首ねっこを、大蔵がつかんだ。
「次の芝居は、丁稚だ。しっかり、修行してこい。桜三郎なんて名はもったいねえ。三太でいいな? お前は丁稚の三太だ。一月の間、だれにもばれずに、しっかりやり通せたら、その次の芝居に出してやる」
「く、くそジジイ、はめやがったな……」
歯がみしても、どうにもならない。
桜三郎は、生まれてから一度も手を通したこともないような、つぎ当てだらけのそまつな着物に着がえさせられ、着の身着のまま、大井座の裏口から、げたみたいに四角い顔の番頭にひきずって連れて行かれた。
こうして、大井一座の人気役者、大井桜三郎は、松坂屋の新入り丁稚、三太になったのだ。
日本橋大通りのまん中で、桃割れ髪の娘が、立ちどまった。
「ねえ、三太。わたし、おかしくないかしら?」
「へ?」
背中のおたいこ帯に、すぐ後ろを歩いていた丁稚こぞうが、あぶなくぶつかりそうになった。
娘は、首をかしげ、顔の横でゆれる桜のかんざしに手でふれた。人目をひくかわいらしい顔立ちだが、目もとがやや気が強そうだ。
丁稚の三太は、ふろしき包みをささげもち、腰をかがめた。
「おにあいです。ねねお嬢さま」
すれちがう、おさむらいや、町人が、ちらちらとねねを見ていく。おともは丁稚一人で、おつきの下女もいないのに、あでやかな振袖は目立ちすぎる。それもそのはず、ねねは、江戸一番の豪商、松坂屋の一人娘だ。
歩き出したねねの瞳は、夢見るようにうるんでいる。
「このかんざし、このあいだのお芝居で桜三郎さまがつけていたのと同じなの。淡い桜色の絹で、色も形も同じものをつくってもらったのよ。桜三郎さま、気づいてくれるかしら」
桜三郎とは、歌舞伎の大井座一番の人気役者、大井桜三郎のことだ。松坂屋は店をあげて大井座をひいきにしているので、ねねも、毎回かかさず見に行っている。
「桜三郎さまの桜の精の美しさったら。もう。言葉じゃいえないわ」
三太は、落ち着きなくきょろきょろとあたりを見まわしている。
「ちょっと三太ったら、聞いてるの?」
三太は、中腰のまま、うわめづかいで、「へい」と答えた。
「もう知らない。桜三郎さまの良さは、あたしがよっくわかってるからいいわ。品があって、きりりとりりしくて、お美しくて。……まるで、この世にまいおりた桜の精! そうよ。きっと、桜三郎さまはこの世のお方じゃないんだわ」
うっとり語るねねの横で、三太は、ぼりぼりと頭をかいた。体つきは細くてやせているが、顔立ちはよく見れば整っている。
松坂屋に入ったばかりの新入り丁稚、この三太こそ実は、あこがれの……桜三郎本人だとは、ねねは、まったく気づいていない。歌舞伎役者はみな、舞台では、厚く白ぬり化粧しているので、ねねが素顔を知らないのはしかたないが、つぎあての小袖に色あせた前かけ、とどけもののふろしき包みをかかえもった三太は、どう見ても、丁稚にしか見えない。
三太の正体を知っているのは、松坂屋の主人……ねねの父親と、四角顔の大番頭だけだ。
そもそもの事のはじまりは、大井座の先月の公演が終わった日にさかのぼる。
大井桜三郎は、12歳にして、大井一座の一番人気役者だ。桜三郎が、桜の精を演じた芝居は、連日大入り満員で大盛況だった。
桜三郎は、次回の公演も、当然じぶんが主役をやるものと思っていた。
ところが、桜三郎の祖父で大井座の座長、大井大蔵が、待ったをかけた。
「お前、このごろちょっとばかし、天狗になってるんじゃねえか?」
大蔵は、60を過ぎた今も、若さむらいから、もののけまで、どんな役でも演じることができる。その演技力は、苦労して身につけたものだ。だからこそ、恵まれた天分を持ち、若くして人気役者になった孫のことをだれより心配していたのだ。
桜三郎は、胸まではだけた浴衣姿で、ふふんと鼻をならした。
「天狗の役をやるときのために稽古をしてるんだよ」
手伝いの下男が菓子を、さしだした。桜三郎は、ちらと見て鼻をしかめると、皿の上の菓子を、手ではらいおとした。「こしアンじゃないと食べないって言ってるだろ!」
大蔵は、さらにけわしい顔になった。
「ふんぞりかえりやがって、細やかな芝居ができると思うのか、だいたいお前は」
「うるせえなあ」
「桜三郎! 若さま役ばかりじゃないんだぞ。丁稚の役だったらどうする」
丁稚は、商家の一番下っぱの仕事だ。
「丁稚をやれっていうなら、今すぐやってみせらあ」
大蔵は、きせるをおき、腕を組んだ。
「ふん。お前の丁稚など、わざとらしいつくりものだ。一時ももたずに、すぐにばれるわ」
「一時どころか、何日一緒にいたってわからねえよ」
「ほほう、言ったな?」大蔵の目が光った。
桜三郎は、はっとしたがおそかった。大蔵の顔に意地の悪そうな笑みがひろがっていく。
「よし、わしが話をつけてやろう。松坂屋の主人とは旧知の仲だ。丁稚の一人くらい、喜んであずかってくれる」
「え、つ、次の芝居は……」
うろたえる桜三郎の首ねっこを、大蔵がつかんだ。
「次の芝居は、丁稚だ。しっかり、修行してこい。桜三郎なんて名はもったいねえ。三太でいいな? お前は丁稚の三太だ。一月の間、だれにもばれずに、しっかりやり通せたら、その次の芝居に出してやる」
「く、くそジジイ、はめやがったな……」
歯がみしても、どうにもならない。
桜三郎は、生まれてから一度も手を通したこともないような、つぎ当てだらけのそまつな着物に着がえさせられ、着の身着のまま、大井座の裏口から、げたみたいに四角い顔の番頭にひきずって連れて行かれた。
こうして、大井一座の人気役者、大井桜三郎は、松坂屋の新入り丁稚、三太になったのだ。