第5話
文字数 1,680文字
松坂屋に戻ると、三味線のおけいこに行ったはずのねねが帰ってこないと大さわぎになっていた。ねねのお付きの下女は、べそをかいている。
やせて神経質な手代の藤吉が、ねねにつめよる。
「お嬢さま! 大番頭の前で、もう決して1人ででかけたりしないとおっしゃったじゃないですか。このあいだの火消し同心のご子息とのケンカのことだって、なんとかおさめるのに、どれだけ苦労したか……」藤吉は、まゆをつりあげた。
「いったいどこに行ってたんですか!」
藤吉の口調からは、ねねのおてんばにふりまわされるのは、はじめてではないようだ。
ねねからの、すくいを求める目線に、三太は、思わず口を開いた。
「お嬢さまは悪くないんです!」
藤吉が冷たい目でにらむ。
「なんだ。三太」
「あの、ええと……お嬢様は、三味線の帰りに、らんぼうものにおそわれそうになりまして」
「なに?」
手代たちの顔色が変わった。三太は、すうと息をすいこんだ。ままよ。こうなったら、しかたがない。
「そこにぐうぜん通りかかったのが、大井座の、大井桜三郎だったんです」
「おお!」
みんなが体を乗り出した。主人のおともでいつも劇場にかよっているから、藤吉も芝居はきらいではない。むしろ、毎回、楽しみにしているくらいだ。
三太は、手ぶり身ぶりで話しはじめた。
「桜三郎はなんて言ったと思います? こうですよ。こう。おいおいおい、ちょっと待ちやがれ」
たっぷり時間をかけて、説明してみせた。
「お嬢さまをお助けした桜三郎は、気をつけてもどりな、と言い残して帰っていきました。というわけで、お嬢さまは、少々遅くなってしまったわけで」
手代の藤吉も、「そりゃあ、仕方がないな」とうなずいた。
そこにいたほかの手代や丁稚は口々に、「桜三郎は、なかなかやるな」と興奮した面持ちで話している。三太は、胸をなでおろした。これで桜三郎の人気も上がるし、ねねも怒られなくてすむ。
「ちょっと、三太」
ねねがそでを引っぱる。ふりむいた三太は、ねねの顔を見て、今度こそ調子に乗りすぎてしまったことに気づいた。
「三太」おそろしいほど、しんけんな目から、にげられない。とうとう、ばれてしまった。
「お嬢さま……いや、おいら……」
それでもどうにかして、しらを切るしかない。
「あんたって」ねねがぐっと顔を近づけてきた。
三太は、「ち、ちがうって」と首をふり、にげようとした。
「ちがわないわ」そでをしっかりねねが、つかんでいる。
「い、いやその」三太はもうしどろもどろだ。
「ほんとに」
「か、顔が近すぎ……」
ねねは、息をすうっと吸いこんだ。
「あんた、ものすごーく桜三郎が好きなのね! 今わかったわ! まねしたのは桜三郎さまが好きだからだったのね。ばか、なんて言って悪かったわ。だって、今日のたちまわり、あんまり似てたんですもの。まるで、桜三郎さまが目の前でおどってるのかと思うくらい……」
おどっていたのだ。
三太は大きくためいきをついた。
ばれていなかったと思ったら、急に気がぬけた。
「まあ、桜三郎なんて、大した役者じゃねえけどな」
照れかくしの一言に、ねねの表情が変わった。
「桜三郎さまは日本一の役者よ!」
丁稚の三太としては、ここは、うなずくしかない。
「へ、へい。お嬢さま」
とそこで、障子があいて、四角顔の番頭が顔を出した。
「とどけものに、どれだけかかってるんだ! 三太!」
三太はその場に正座した。
「す、すいやせん!」
「ちゃんととどけてきたのか?」
「はい!」三太は、胸を張った。「丁稚の仕事ですから!」
「ばかもんが!」
番頭のゲンコツが三太の脳天を直撃した。
「できてあたりまえのことで、えらぶるな! 仕事はまだまだあるぞ。かたづけ、帳面つけ、それが終わったら、ふきそうじだ!」
「へーい……」
今朝は後光がさして見えた大番頭の四角顔が、今は、鬼がわらに見える。
「返事が長い!」
「へい!」
松坂屋の新入り丁稚、三太は、正座したまま、ぴょんと飛びあがった。
大井桜三郎が、稀代の名役者と呼ばれるようになるのは、まだまだ先のこと。
桜三郎の修業はまだまだ続く。
(終わり)
やせて神経質な手代の藤吉が、ねねにつめよる。
「お嬢さま! 大番頭の前で、もう決して1人ででかけたりしないとおっしゃったじゃないですか。このあいだの火消し同心のご子息とのケンカのことだって、なんとかおさめるのに、どれだけ苦労したか……」藤吉は、まゆをつりあげた。
「いったいどこに行ってたんですか!」
藤吉の口調からは、ねねのおてんばにふりまわされるのは、はじめてではないようだ。
ねねからの、すくいを求める目線に、三太は、思わず口を開いた。
「お嬢さまは悪くないんです!」
藤吉が冷たい目でにらむ。
「なんだ。三太」
「あの、ええと……お嬢様は、三味線の帰りに、らんぼうものにおそわれそうになりまして」
「なに?」
手代たちの顔色が変わった。三太は、すうと息をすいこんだ。ままよ。こうなったら、しかたがない。
「そこにぐうぜん通りかかったのが、大井座の、大井桜三郎だったんです」
「おお!」
みんなが体を乗り出した。主人のおともでいつも劇場にかよっているから、藤吉も芝居はきらいではない。むしろ、毎回、楽しみにしているくらいだ。
三太は、手ぶり身ぶりで話しはじめた。
「桜三郎はなんて言ったと思います? こうですよ。こう。おいおいおい、ちょっと待ちやがれ」
たっぷり時間をかけて、説明してみせた。
「お嬢さまをお助けした桜三郎は、気をつけてもどりな、と言い残して帰っていきました。というわけで、お嬢さまは、少々遅くなってしまったわけで」
手代の藤吉も、「そりゃあ、仕方がないな」とうなずいた。
そこにいたほかの手代や丁稚は口々に、「桜三郎は、なかなかやるな」と興奮した面持ちで話している。三太は、胸をなでおろした。これで桜三郎の人気も上がるし、ねねも怒られなくてすむ。
「ちょっと、三太」
ねねがそでを引っぱる。ふりむいた三太は、ねねの顔を見て、今度こそ調子に乗りすぎてしまったことに気づいた。
「三太」おそろしいほど、しんけんな目から、にげられない。とうとう、ばれてしまった。
「お嬢さま……いや、おいら……」
それでもどうにかして、しらを切るしかない。
「あんたって」ねねがぐっと顔を近づけてきた。
三太は、「ち、ちがうって」と首をふり、にげようとした。
「ちがわないわ」そでをしっかりねねが、つかんでいる。
「い、いやその」三太はもうしどろもどろだ。
「ほんとに」
「か、顔が近すぎ……」
ねねは、息をすうっと吸いこんだ。
「あんた、ものすごーく桜三郎が好きなのね! 今わかったわ! まねしたのは桜三郎さまが好きだからだったのね。ばか、なんて言って悪かったわ。だって、今日のたちまわり、あんまり似てたんですもの。まるで、桜三郎さまが目の前でおどってるのかと思うくらい……」
おどっていたのだ。
三太は大きくためいきをついた。
ばれていなかったと思ったら、急に気がぬけた。
「まあ、桜三郎なんて、大した役者じゃねえけどな」
照れかくしの一言に、ねねの表情が変わった。
「桜三郎さまは日本一の役者よ!」
丁稚の三太としては、ここは、うなずくしかない。
「へ、へい。お嬢さま」
とそこで、障子があいて、四角顔の番頭が顔を出した。
「とどけものに、どれだけかかってるんだ! 三太!」
三太はその場に正座した。
「す、すいやせん!」
「ちゃんととどけてきたのか?」
「はい!」三太は、胸を張った。「丁稚の仕事ですから!」
「ばかもんが!」
番頭のゲンコツが三太の脳天を直撃した。
「できてあたりまえのことで、えらぶるな! 仕事はまだまだあるぞ。かたづけ、帳面つけ、それが終わったら、ふきそうじだ!」
「へーい……」
今朝は後光がさして見えた大番頭の四角顔が、今は、鬼がわらに見える。
「返事が長い!」
「へい!」
松坂屋の新入り丁稚、三太は、正座したまま、ぴょんと飛びあがった。
大井桜三郎が、稀代の名役者と呼ばれるようになるのは、まだまだ先のこと。
桜三郎の修業はまだまだ続く。
(終わり)