第2話

文字数 2,498文字

 そんなこととは、つゆとも知らないねねは、だまったままの三太をにらみつけた。
「そんなんじゃ、丁稚のままいつまでたっても手代になれないわよ。もうちょっと愛想よくしたらどうなの?」
「すんません。おいら、新入りなもんで」
 三太は笑みをうかべて、頭を下げた。かんぺきに新入り丁稚になりすましている自信はある。
「わかってるわよ。あんたが新入りじゃなかったら、あたしは今ごろ、いつもとおり三味線のおけいこに行ってるわよ」
 松坂屋には丁稚だけでも何十人もいて、そのうえに手代の兄さんたち、番頭、大番頭がいる。一人娘のねねお嬢様は、丁稚にとっては雲の上の人だ。そのお嬢様に、お使いに一緒に行きたいとたのまれたのだ。
「ていうことは、お嬢さまが丁稚のお使いについていくなんて、ほんとはいけないんじゃありませんか?」
 三太は、おそるおそる聞いてみた。

 今日の朝、大番頭に、大井座へのとどけものを言いつけられて、(げたみてえな四角顔のくせに、いいとこあるじゃねえか)と、内心、小おどりした。とどけもののついでに、祖父の大蔵に見つからないように、一休みしてくるつもりだった。
 けれど、ねねがいっしょでは、そうもいかない。
 ねねは、当然という顔でうなずく。
「そりゃ、そうよ。だから、だれにも絶対に言っちゃだめよ」
 三太はがっくり肩を落とした。
 わがままお嬢さまのせいで、つらい仕事のあいまの、せっかくの息ぬきがだめになってしまった。

 からんころん、かろやかなねねのゲタの音に、しずんでつかれたぞうりの足音がついていく。
 三太は、とどけもののふろしきを反対の手にもちかえた。手の指さきが、あかぎれて痛い。桜の花開くこの季節でも、まだ水は冷たい。ぞうきんがけ、水まきなどの、なれない水仕事で、手の皮がむけてしまったのだ。

 松坂屋に入ってまだたったの三日だが、丁稚の仕事は思ったよりつらい。朝は早くから、水まき、そうじ。店が開けば、お客が入ってくるたびに、ずらりと並んだスズメの子みたいに、「いらっしゃいませー」と声をはりあげるのがはずかしい。その間にも、お使いやこまごました用事があり、夜はおそくまで読み書き手習い、そろばんで、ゆっくり飯を食う時間もない。麦飯とつけものだけの飯は味気ないが、残せば、ぐうぐう腹がへってねむれない。
 もちろん食後に、こしアンどころか、つぶアンも、お菓子なんてあるわけがない。ちょっとでも失敗すれば、どなりつけられるか、奥にひっぱっていかれて、ぶたれる。
 大井一座で、ちやほやされていたときと、天と地の差だ。

 三太は歩きながら足もとの小石をけった。
「くそう……。見てろよ……」
「なにか言った?」
 ねねが顔をかしげた。さくらのかんざしがゆれる。
「い、いえ、お嬢さま」
「そう、じゃ、いそぎましょう」
 曇りなく明るいねねの笑顔に、三太は、だんだん腹が立ってきた。

「お嬢さま、ほんとに帰ったほうがいいんじゃないですか? いまごろ、大番頭が心配してさがしてますよ」
「いいのいいの。あんな四角顔。心配させとけばいいんだわ」
 三太はうっとつまった。丁稚としてはやはり、松坂屋のお嬢さまにさからうわけにはいかない。けれど、四角顔の番頭にばれたら、どんなに怒られるか想像しただけで、おそろしい。

 そんな三太の気も知らず、ねねは上機嫌だ。
「お芝居してないときの桜三郎さまって、どんな感じかしら」
 役者は大事な客からの希望とあれば、芝居の幕の間に、客席の桟敷まで出むいて、あいさつにいき、お酌をしたりもする。
「松坂屋の桟敷に、桜三郎を呼べばいいじゃないですか」
 気のない三太の返事に、ねねが、ふりむいた。目を丸く見開いている。
「そんなこと」たもとで顔をかくす。「はずかしくて、とってもできないわ」
 ほおを桜色にそめたねねの横顔に、三太は、どきっとした。

 大井座の公演には毎回、松坂屋や越後屋など大きな商家が、桟敷をとって、見に来てくれていたが、松坂屋の桟敷に、こんなにかわいらしい熱心なひいき客がいたとは気づかなかった。
「ひいき客を大切に」とは、祖父の大蔵から、耳がたこになるくらい言われた言葉だ。

 三太は、ふろしき包みをかかえて顔を上げた。
「しかたねえ。それじゃあ、お嬢さま。もうここまで来ちまったわけですし、一緒に大井座に行ってみましょう。桜三郎に会えるかはわかりませんけどね」
 と、ねねのむこうから、品のよいご婦人が二人歩いてくるのが見えた。
 三太はさっと腰をかがめた。
「やばい」
 うつむきかげんに顔をかくし、ねねのうでを引っぱって道の反対がわにむかった。
「な、なにするのよ」
「松坂屋の手代の、ほら、ええと、がりがりにやせてて、細かくてうるさいやつが」
 三太はてきとうに口からでまかせを言った。
「藤吉さん?」ねねが首をかしげる。
 三太はさらに足を早めた。
「そう、その藤吉さんがいたんですよ。お嬢さま、見つかっちゃまずいでしょう」
 三太は、ちらとふりむいた。
 
 さっきの婦人は越後屋の大奥さまと奥さまだ。
 越後屋の奥さまがたは楽屋に花を持ってくるほど熱心なひいき客なので、当然、大井桜三郎の素顔も知っている。こんなところで顔を見られるわけにはいかない。
 大蔵との約束は、一月だれにもばれないで過ごすことだからだ。

「どうして藤吉さんがこんなところを歩いているのかしら……」
 ねねは、いぶかしげにつぶやいたが、いちおう、たもとで顔をかくしている。
「お嬢さまをさがしているのかもしれませんよ」
 ねねの顔色が変わった。
 せっかく下女をまいてきたのに、こんなところで連れもどされてはたまらない。いくらのんきなねねも、三味線のおけいこをさぼって大井座に行くのが、いけないことだとは分かっている。

 三太も、ねねも、知り合いには見つかりたくない。自然と、人の少ない、人通りのまばらなほうへ足がむく。
 歩きながらも、なんとなく追い立てられるように、早足になる。

 道を曲がったら、その先が行き止まりになっていた。両わきは、高い板べいになっていて、しんと静まり返っている。
 三太は、いやな予感がした。さっきから、つけられている気配がする。
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